第9話 甘やかされる

 魔術自体を習う事は出来ないが、今までより繊細な制御と魔力の増減方法を習えるとなって、アリスティアはちょっとだけ上機嫌だった。何せ魔術など、前世の記憶の中にはないもので、今生になって初めて扱うものだからだ。

 だから、魔術練習場から皇太子の執務室に戻った時も、アリスティアはこれからの事を考えて嬉しくてにこにこと笑っていたのだが。

 なぜか今、アリスティアは皇太子の膝に座らされていた。皇太子執務室についた途端、有無を言わさずソファに座った

 そして焼き菓子を口に運ばれて餌付けあーんされている状況で。

 さすがにこの状況でにこにこできるほどアリスティアはおめでたくはない。理由がわからず頭の上に疑問符がいくつも浮かび上がった。

 その理由を教えて貰うべく兄二人を見たところ、すかさず目を逸らされた。

 いや、確かにお茶の時間ではあるのだが、何がどうなってこの様な状況になっているのか、アリスティアにはさっぱり見当もつかない。


(一体なぜなの⁉)


 内心、アリスティアは大混乱していた。

 なのに皇太子は彼女を膝に乗せて非常にご機嫌がよろしい。

 確かにアリスティアは見た目は完全な五歳児なのだが、中身は前世と混じり合っておそらく見た目よりずっと年上で、だからこそ皇太子の膝の上に座っていることは非常に恥ずかしいのだ。

 できれば膝から下ろして欲しいと思うものの、皇太子の機嫌を損なうと兄二人に理不尽な仕事が回されるらしいと聞いたので、恥ずかしさを堪えてされるがままになっている。


「ティア、はい、口を開けて」


 もぐもぐと咀嚼し、飲み込み終わると、直ぐにアリスティアの口に合うように小さく割られた別の焼き菓子が口元に運ばれる。

 さっきからそれが続いてて、焼き菓子の水分の少なさのせいでそろそろ喉が乾いてきているアリスティアは、とうとう我慢の限界になり、


「ハーブ水が飲みたいですわ!」


とほんの少しばかり涙目になりながら訴えた。

 アリスティアは転生してから紅茶を美味しく感じた事がなく、もっぱらハーブ水を好んで飲んでいた。

 アリスティアの訴えを聞き、慌てた皇太子はエルナードにハーブ水を用意するように言ったのだが、エルナードは流石にアリスティアの兄だけあって既に用意していたらしい。

 執務室の扉を開けて廊下に出たと思ったら、直ぐに水差しとゴブレットを持って入ってきた。

 ゴブレットにハーブ水を入れて、エルナードはアリスティアにそのゴブレットを渡してくれた。それを両手で持ち、喉の乾きに任せて勢いよくごくごくと飲んでしまった。貴族の令嬢としてはお淑やかに飲食しなければならないのに、それができなかった。水分の足りない焼き菓子のせいである。そしてそれを立て続けにアリスティアに食べさせた皇太子のせいである。

 人心地がついたアリスティアは、ちょっとだけ恨みを込めて皇太子を睨みつつ、


「ルーク兄様、なぜわたくしは膝に座らせられているのです? これだとお淑やかに菓子を食べられませんわ!」


と不満をぶつけたのだが、なぜかどこか寒気のするような笑顔とともに、


「私の心の安寧の為だよ。ティアが人外じみてるのが悪いのだから、大人しくされるがままになっておくれ」


と理不尽な事を言われ困惑した。

 だから自分は人間をやめてないのに、と心の中で反論するも、なんとなくさっきの魔術師団の練習場での事で皇太子が焦っているのかと考え、渋々ながら我慢する事にした。


「ではティア、次の菓子だよ。これは胡桃を砕いて混ぜたクッキーだ」


 口元に食べやすい大きさにして差し出されたそれを食べ終われば。


「次はクコの実を混ぜたビスケットだ」


 と、相変わらず餌付けあーんしてくる。

 けれども、アリスティアの胃袋はそんなに大きくはない。焼き菓子五、六枚分も食べたらお腹いっぱいになる訳で。

 そしてお腹いっぱいになったら眠くなるのが幼子である。五、六枚分を食べ終わる頃にはうつらうつらし始め、そのまま皇太子の腕の中で意識が暗闇に飲まれた。






「殿下……不埒………まだ五歳………」

「ティアの……宰相…………才能……妃……」

「兄としては……父上が………皇妃様……十歳…………横暴……」


 アリスティアの意識は微睡みから緩やかに浮上していた。


(兄様たちの声がする。今日はお休みだったかしら? あれ? 私、お昼寝してたの?)


 体がふわふわしていて、とても気持ちがいい。


(なんだか暖かくて甘くていい匂いがして気持ちいい。このままでいたい……)


 微睡みの中に揺蕩たゆたいつつ、アリスティアの意識はまた緩やかに沈み込もうとしていた。

 そのアリスティアの頭に何かが当たった、というかゆっくりと優しく撫で回されている様な感触があった。

 その感触でアリスティアの意識は再度緩やかに浮上し始めた。


(すごく気持ちいい。この気持ちいいのが続けばいいのに。それにしても、魔術は楽しかったなぁ。……魔術? えーと……?)


 アリスティアの意識はどんどん浮上する。それに連れて今日の出来事も記憶の底から浮かび上がってきた。


(思い出した! 今日は出仕して皇太子殿下のところに行って、魔術の練習場で楽しく魔術を使ったんだった!)


 全て思い出した途端、急浮上する感覚。


(その後、なぜか殿下のお膝の上に座らされて、お菓子を食べさせて貰ってたんだっけ? お腹いっぱいになって、眠くなって来て……その後どうしたんだっけ?)


 アリスティアはパチッと目を開けた。そして目を開けた事を一秒で後悔した。

 なぜなら、アリスティアは皇太子の腕に抱えられたまま眠っていたらしい。

 まだ皇太子の膝の上で、皇太子がなぜかアリスティアの頭にすりすりしてて。


「ティアの髪の毛は、いい匂いがするな」


などと、寒気がするような事を皇太子が呟いているのを聞いた瞬間、体が驚きで固まった。


「殿下、アリスが起きた」


 エルナードが言うと。


「む。残念だな。時間切れか」


と非常に残念そうにため息を吐き、固まってしまったアリスティアを膝の上から下ろし、丁寧にゆっくり優しくソファに座らせた。


「……エル兄様、なぜ助けてくださらなかったの?」


 皇太子殿下の膝の上で抱えられたまま寝るなんて、そんな畏れ多い事をしてしまうなんてと涙目になりながらアリスティアは文句を言ったのだが、エルナードは遠い目をして、


「アリス、諦めろ」


としか言ってくれなかった。

 皇太子がアリスティアを妹分として甘やかしたいのはよくわかっているのだが、それはそれ、これはこれ、なのだ。誰も見ていないならまだしも、場所は皇太子執務室。各部署の官僚が皇太子に提出するための書類を持ってくる。つまり、いつ誰に見られるとも限らない公の場所なのだから、臣下として適切な距離を取るべきだとアリスティアは考えている。

 それなのに。

 アリスティアの常識に反して、兄二人どころか皇太子までもが場所を問わずに甘やかしてくる現状は、彼女にとって非常によろしくない。

 抵抗を諦めたらダメだろうと思い、アリスティアは頼りにならないエルナードを見限って期待を込めてクリストファーを見たのだが、こちらも素晴らしい速さで目を逸らされた。

 頼りにしているはずの兄二人に見捨てられた気がしてアリスティアはショックを受けた。

 けれども、もう一人いるのである。

 今朝会ったばかりのダリアに期待を込めた目を向ければ、「アリスティア様、私にも無理なことはあります」と苦笑しつつ首を横に振られた。

 まさか味方が一人もいないとは、と愕然としてしまう。これではアリスティアのこれからは、希望も無いのだろうか。

 非常に薄ら寒い未来を思い描いてしまい、ちょっぴり落ち込んだアリスティアだった。



 ✧ ✧ ✧ ✧ ✧


 

 アリスティアが起きてからソファに移されて感じたのは、「なんだか寂しい」だった。ソファに座らされた後に皇太子から頭を撫でられていたのに、手が頭から外れた途端、もっと撫でて欲しいと思ってしまった。

 いつも兄たちに散々撫でられているから慣れているはずなのに、どうしたことなのか。腑に落ちない思いをさせられるのがなんだか悔しくて。

 つい、口に出してしまった。


「エル兄様、頭を撫でてください!」


 アリスティアがそんな可愛いお願いをしたら何時もなら嬉しそうに撫でまくる筈の兄は、ギョッとした後にちらりと皇太子の方に視線を向けたあと悲しみの表情で首を横に振り、彼女のお願いを却下した。

 エルナードがダメならばとクリストファーに顔を向けて目を見れば、クリストファーもエルナードと同じ様に顔色悪く頭を横に振る。


(どうしてお願いを聞いてくれないの。人間離れした私を嫌いになったの? やっぱり私は大した人間じゃないのね)


 ネガティブになってしまったアリスティアのまなじりに涙が溜まると、二人の兄は慌ててアリスティアに駆け寄ろうとして──皇太子に先を越された。


「なんだティア。頭を撫でて欲しいなら私に言えばいいだろう?」


 なんとも嬉しそうにアリスティアを左腕で抱き上げ、空いた右手でアリスティアの眦に溜まった涙を拭い、その後、頭を撫で始めた。その擽ったいような感覚に、アリスティアは知らず笑顔になる。

 嬉しくて、つい皇太子の肩に頭を寄せたら、なんだかいい匂いがして、それがなんだか安心できる匂いで。

 ついその首筋に頭をすりすりしてしまったアリスティアは悪くないと思う。

 アリスティアのこの行動を見た、エルナードとクリストファー、それにダリアは、唖然としてそれを眺めていた。


「アリスが殿下に誑かされた!」

「僕らのアリスなのに、殿下は手が早い!」

「……アリスティア様、殿下に懐くのが早いですね…………」


 それぞれの胸中から溢れた言葉なのだが、擦り寄るアリスティアが可愛くて誰が見ても蕩けた顔をしたルーカスである。双子を見やって、羨ましいか、と煽った。

 煽られた双子は額に青筋を浮かべて即座に戦闘態勢に入り、両の掌に魔力を練り始めた。

 それに対し、皇太子の方もアリスティアの頭から右手を離し、掌に魔力を集める。

 すわ、魔術戦の始まりか、と緊迫した空気が流れ始めたところにアリスティアの可愛い声が流れた。


「もう、ルーク兄様、頭を撫でるのをやめないでくださいませ!」


 アリスティアのこの言葉に、双子は目を見開いてこの世の終わりが来たかの様に慄き、皇太子は詠唱棄却して集めた魔力を振り払い、アリスティアの頭を撫でる作業に戻った。

 ちなみにアリスティアが皇太子の首筋に擦り寄っている為、撫でているのはアリスティアの後頭部だ。

 その優しい手の動きに、アリスティアは満足している。なんだか本当に幼子になっている気がする、と頭の隅で考えているのだが、その事に重要性を見いだせず、アリスティアは現状に甘える事にした。


「エル兄様とクリス兄様より、ルーク兄様の方が優しいですわ」


 そんな事を呟いたら、それをしっかり拾ったらしい兄二人は、その場に崩れ落ちて頭を抱えていた。

 なんだか、「殿下のせいで!」という言葉が聞こえてきたが、アリスティアのお願いを聞いてくれなかったのだから悪いのは兄二人の方だと思った。

 そしてその状況を見ていた近衛騎士のダリアは、溜息を吐きながら「愛し子様は傾国の幼女ですね」と、なんとも反応に困る言葉を吐いていたのだが、その言葉は幸いな事に誰の耳にも届かなかった。




 すっかり安心し切ったアリスティアが再度寝てしまったのは、仕方のない事だろう。



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