259.牧場の拡張(前編)

 その後、なんだかんだと理由をつけては、将棋の対局へ誘う義父だったが、朝食が終わり次第、丁重にお引取りいただいた。


 子どもじゃないんだし、ワガママ言うんじゃありません! 「執務前に一局ぐらいはよかろうが」とか言ってたけど、その一局がどれほど長くなるかわかっているでしょ? 二、三時間じゃ終わらないっスよ?


 とにかく、渋々という面持ちで引き下がるジークフリートには、大量の妖精桃をお土産として手渡しておく。色々ご配慮いただいている、夫人会の皆さんに渡してもらおうと思ったのだ。


 漆黒の見事な体躯を羽ばたかせ、ドラゴンの姿で帰っていく義父の姿を見送った後、オレは執務室の椅子へ腰を沈め深く息を吐いた。朝っぱらから疲れちゃうなあ、まったく。


「吉報ですからな。陛下がお慶びになられるのも当然かと」


 紅茶を持参して入室したハンスは、うやうやしく切り出した。


「愛娘がご懐妊されたとあれば、嬉しさもひとしおでしょう」


 感慨深い戦闘執事を見やり、オレは問いかける。


「ハンスもそうだったのか? 孫ができた時は」

「それはもちろん。祖父という立場とはいえ、家族が増える喜びは父親や母親のそれと変わりませんとも」


 むしろ、それ以上かもしれませんなと付け加え、シワひとつない執事服に身を包んだ老執事は執務机へ紅茶を差し出した。


 そんなもんかねえと実感なく応じていると、ハンスは我が事のように目を細めて話を続ける。


「リア様のご懐妊。領民への発表はいつになさいますか? それにあわせて祝宴を催しますが」

「発表はわかるけど、祝宴をする必要はないだろ?」

「なにをおっしゃいます。お世継ぎの誕生とあっては、盛大に祝いの席を設けなければ」


 当然と言わんばかりの面持ちだ。とはいってもなあ、つい数週前に花見をしたじゃないか。宴席続きもどうかと思うぞ?


 あんまり派手にお祝いして、リアになにかあっても困るし。宴席はまた別の機会にしてもらおう。


「正式な発表ももう少し落ち着いてからだな。しばらくは親しい間柄だけが知っておく程度でいいだろ」

「かしこまりました」


 いくばかりかの無念さをにじませて、ハンスは一礼した。気持ちはわかるけど、母体に負担をかけたくないのだ。


「それより、ハンスにお願いしたいことがあってさ」


 顔を上げる戦闘執事へ頼んだのは、領主邸の応接間の模様替えだ。これから先、お腹が大きくなってからでは四階の寝室へ足を運ぶのも大変だろう。


 リアが移動しやすいように、一階へ寝室を設ける必要があることを告げると、嬉しそうにハンスは応じてみせた。


「伯爵の仰る通りです。この爺めにお任せください」

「うん。よろしく頼むよ」

「それで、伯爵はまた別の作業へ赴かれますか?」

「まあね、書類仕事が一段落してからだけど」


 ハンスが口にした別の作業、それは牛舎と牧場の拡張である。


***


 開拓生活四年目にして、牛舎と牧場を拡張しようと思った大きな理由、それはぶっちゃけ牛肉料理が恋しかったからに他ならない。


 ……という本音を漏らすと、財務担当のアルフレッドから「そんな理由のために、あんな高級品を育てようとするとか何考えてるんですか?」なんて言われそうだから黙っておくけれど。


 真面目な話、家畜として牛を育てる重要性が生じてきたのだ。


 中継交易地としてしばらく経ったものの、市場で取引されるものの中に、いまだ牛はその名を連ねていない。


 主な理由として、こちらの世界では『ウシ』イコール『ヤク』を指し、元いた世界でいうところの牛の飼育が盛んではなく、牛肉を食べる習慣があまりないこと、そして莫大な輸送コストの割に利益が望めないなどが挙げられる。


 そういった事情から取引される家畜といえば、もっぱら鶏や羊がほとんどなのである。


 樹海で狩猟をした結果としての収穫物であるウサギや鹿、それとイノシシなどが、ごく稀に市場へ並ぶ機会もあるけれど、大抵の場合、それらのほとんどは領内で消費されてしまうので、交易品としての価値は見込めない。


 食糧事情の改善、交易品の拡充を図る上でも牛の飼育は必然! ……と、アルフレッドへ提案を持ちかけたものの、返って来たのは決して乗り気でない言葉だった。


「お気持ちはわかりますが、果たして需要がありますかね? 高級品で知られる食材に庶民が手を伸ばすとは考えにくいですが」


 肩をすくめる龍人族の言い分もわかる。昨年末、年の瀬と新年を祝うのに、ちょっとした贅沢をしようと思いたち、牛肉を仕入れたところ、あまりの高額っぷりに目を丸くしたからだ。


 一〇〇グラムあたり、なんと銀貨二枚!! 黒パンが二〇〇個買えるぞ、おい。


 それでも頼んでしまった手前、やはり止めておくとはとても言えず、ポケットマネーから数十枚の銀貨を支払う羽目になってしまったんだけど。


 でもなあ、やっぱり美味しかったんだよなあ、牛肉。家畜が普及して価格が落ち着けば、一般家庭にも広まっていくだろうし、投資する意味はあると思うんだよね。


 それに乳製品の価格安定にもつながる。牛乳やバター、チーズなどは相変わらず微妙な金額だし、それを安定させるためにも牧場の拡張は優先すべきなんじゃないかな?


「僕としては田畑を拡げ、農作物の収穫高を上げたいですね。その方がよほど食糧事情が改善されますよ」


 説得を試みるも、アルフレッドの返事はつれない。


「第一、拡張するにも予算がかかります。牛一頭にいくらかかるか、タスクさんもご存知でしょう?」

「わかってるさ。でもほら、先行投資は金がかかるものだろ?」

「お金がかかり過ぎなのですよ。その予算で他の事業がどれほど充実させられるか」


 財務担当の多彩な“口撃”に、思わず怯みそうになってしまったけれど、予算の一部をオレ自身が受け持つことでようやく決着。牧場の拡張に踏み切れたわけだ。


 とはいえ、人手不足の中、拡張工事に割ける人員は少なく。


 執務の間を縫っては外出し、構築ビルド再構築リビルドのスキルを使っては黙々と作業に取り掛かる日々なのだ。


 というわけで、今日も今日とて、午前中で執務を切り上げ、昼食を終えた後、オレはアイラと二匹のミュコランを伴って、領地の北西部へと足を運ぶのだった。

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