136.クラーラの研究
ぼんやりとした視界が徐々にクリアなものへと変化していく。
見慣れない天井に違和感を覚えたものの、真新しいベッドへ身体を預けていることから、どうやらここは新居の寝室らしい。
問題は、どうやってここまでたどり着いたかの記憶が一切ないことで。
全身倦怠感の塊と化した上半身を何とか起こしながら、思考を働かせようとした矢先、激しい痛みを伴った大音量の雑音が頭の中を駆け巡った。
(うっ……!!!!! つっっッッッぅぅぅ〜……あったまいてぇぇぇぇ……!)
シンバルとドラムとドラをまぜこぜにしたようなノイズにたまらず頭を抑える。
ああ、そういや、勧められるがままにスパークリングワインみたいなやつを飲んでたっけな。
おぼろげに記憶を辿っていく最中、今度はドアをノックする音と共に、落ち着いた男性の声が耳元へ届いた。
「子爵。お目覚めですか?」
「ハンスか……? いま気がついた」
失礼しますという挨拶の後、寝室へ姿を表した戦闘執事は両手にトレイを持ちながら、申し訳無さそうに頭を下げる。
「昨夜は大変失礼いたしました。私が飲むのを止めなかったばかりにお辛い思いを」
ハンスが教えてくれたのだが、フェーダーヴァイサーはかなりアルコール度数の高い酒で、極めて甘いことと酒っぽさを感じないことから、痛飲してしまう人が多いそうだ。
昨夜もそのことを教えようと思っていたものの、次々に挨拶へ訪れる人たちに阻まれてしまい、声を掛けられなかったと。
「調子に乗って飲みすぎたオレが悪い。あまりに美味しくて、酒だということを忘れてたからな」
「強引にでも割り込むべきでした。面目次第もございません」
「いいんだ。ところで、その後どうなった?」
オレが意識を失ったばかりに、場がしらけるというのは困るなと思っていたのだが、ハンスが上手く取り計らってくれたらしく、深夜まで宴は続いたとのこと。それならよかった。
寝室へ運んでくれたのもハンスだそうで、いやはや頭が上がらないね。
「仕事ですので。どうかお気になさらず」
穏やかな声で続けながら、ハンスは持っていたトレイをベッドサイドのテーブルへ移した。
二日酔いに利く薬をリアに頼んでいたそうで、水の入ったコップの横には粉末状の薬が見える。
他にも風呂と朝食をカミラが用意しているとのことで、まずはリフレッシュすることを勧められた。
「そうだ。クラーラ様が子爵をお探しでした」
寝室を立ち去る間際、思い出したようにハンスが声を上げる。
「クラーラが?」
「ええ。お目覚めになったら尋ねてほしいと。要件までは伺いませんでしたが」
わかったと応じて、退室していく執事を見送る。はて? 何の用事だろうか?
特にこれといって思い当たることはないんだけどなと考えながらも、昨夜、記憶をなくすほどに酔いつぶれてしまっていたため、何かやらかしたのではないかという気がかりもある。
面倒ごとではありませんようにと願いながら、オレは用意された薬を水で一気に流し込んだ。
***
風呂を済ませたオレを待ち構えるように、カミラは軽めの朝食を出してくれた。
胃に負担がかからないよう配慮された白パンのミルク粥をありがたく頂いてから出かけることにする。
冬晴れの気持ちの空の下、パーティが深夜まで続いていたにも関わらず、忙しく動き回るみんなの姿が見えた。
働き者ばかりが揃っていることに感心しながら、足を運んだ先は旧家屋で、程よく色あせた外観は感慨深いものがある。
異世界に来てから約一年。
『豆腐ハウス』の頃から、苦楽をともにしてきた住処である。思い出がたくさん詰まった場所を取り壊すのは忍びないと、旧家屋はそのまま残しておくことにしたのだった。
それにだ。アイラからも昼寝にうってつけの場所がなくなるのは困ると言われたからな。猫にとって昼寝は大事だし、これはもう仕方ない。
「……何してんの?」
視線を向けた先にはクラーラが見える。診療所を兼ねた薬学研究所から出てきたようで、お馴染みの白衣姿だ。
「ちょっとな。思い出にふけっていたというか」
「そう。……ああ、アンタ。二日酔い大丈夫?」
「お陰様で。薬も飲んだしな」
「空きっ腹の状態で、強いお酒を飲まないほうがいいわよ?」
「気をつける」
思えばクラーラも、ここへ来た当初と比べて大分落ち着いてきたというか、性格も丸くなってきたような気がする。
本人に言ったら怒られそうなので口にはしないけどね。穏やかに暮らしているなら何よりだ。
「……何よ? ニヤニヤして気持ち悪いわね」
「気持ち悪いとか酷くないか?」
「事実なんだからしょうがないでしょ」
「さいですか……。あ、ところでオレに用があるとか聞いたんだけど」
オレの言葉に、クラーラは胸元で両手を合わせた。
「そうそう、そうなのよ。アンタに見てもらいたものがあるの」
「見てもらいたいもの?」
「とにかく着いてきて」
問い返す間もなく、クラーラは歩き出す。両手を白衣のポケットに突っ込みながら、早足で進んでいく後ろ姿に遅れないよう、オレはその後を追って行った。
***
到着したのは新居の地下室で、ひんやりと冷えた空気の中、クラーラはとある棚の前で立ち止まった。
棚の中には木樽がずらっと並んでいる。先日、リアとクラーラの三人で運んだものだ。
その中からひとつを選び取り、クラーラは地面に木樽を置いた。
「これ、この前アンタが運んだ樽なんだけど」
「誰が運んだか覚えてるのか?」
「番号がふってあるもの。それはともかく中を見て」
そう言って樽の蓋を開けるクラーラ。その瞬間、アルコール臭が辺りへ漂った。
鼻腔を刺激する匂いに軽い衝撃を受けながら中を覗き込むが、木樽の中には赤黒い色をした物体がびっしり埋まっていることしかわからない。
……でも、この色って、もしかしてアレだよな?
「味噌の研究用に用意した樽の中で、これだけこんな感じになってるのよ」
「……」
「他に運んできたやつは変化がないし……。なにか心当たりがあるんじゃないのかって思って」
「……味噌だ」
「はい?」
「味噌だぞ、これ」
言っている意味が理解できないのか、クラーラは目をぱちくりとさせている。
いや、正確にいえば、発酵途中の味噌だな、これは。このまま寝かせていればアルコール臭もなくなって、ちゃんとしたものに仕上がるはず……なんだけど。
こちらとしても知識しかないので断言できないのだが、ともあれ順調に発酵が進んでいることだけはわかる。
「ちょっと待ってよ。理解が追いついてないんだけど……」
頭を抱えるクラーラは、思い出したように棚から別の木樽を取り出した。
「それじゃあ、もしかしてこっちも……?」
蓋を開けると、今度は発酵臭とアルコール臭が混じった匂いの中に、懐かしい香ばしさを感じ取ることができた。
「これ、アンタが運んできた醤油の研究用木樽。やっぱりこれだけが変化してるんだけど」
「……うん。色も匂いもかなり近い。順調に発酵してるみたいだな」
わずかに張った水面には薄い色がついている。郷愁を誘う香りは、このまますくい取って舐めたくなる衝動に駆られるほどだ。
確か、これを火入れすれば、ちゃんとした醤油ができるはずなんだけど……。
オレの説明に耳を傾けながら、クラーラは身体をよろめかせている。
「どうした?」
「……あんなに苦労したにも関わらず、遅々として進まなかった研究が一気に進んでるのよ……? ふらつきたくもなるわよ……」
しかも原因は特定できない。唯一わかっているのはオレが運んできたということだけ。
「そんな理屈にもならないバカみたいな理由で、味噌と醤油ができるなんて反則にもほどがあるわよ!」
「オレに文句をいうな、オレに」
「まったく……。きちんとした仕組みがわかれば、研究も進むって思っていたのに……」
ブツブツと小言を漏らすクラーラ。結局のところは、オレのチートスキルである
そんなことを考えていた最中、ふと、とある事を思い出した。
「妖精……」
「……は?」
「オレが運んでいた時、妖精達が木樽に群がってたよな……」
そうだ。あの時は邪魔するなって言っても聞かないココたちが、オレの肩や頭、それに木樽の上にも乗っていた。
もしかして、木樽の中へ変化をもたらしたのはオレのスキルではなくて、妖精たちの力によるものなんじゃないだろうか?
だってほら、前にタピオカツリーができたのは、妖精たちの祝福が種子に加わったからだし。
そう考えれば味噌や醤油ができたところで不思議な話じゃないだろう。オレの話を聞きながら、クラーラは顎に手を当てる。
「……確かに。昔読んだ文献の中にも、妖精にまつわる逸話がいくつか残っているわね」
エピソードとしては異なるものの、共通するのは幸運をもたらしてくれる存在として、妖精が描かれていることらしい。
「あの子達に協力してもらえば、仕組みがわかるかもしれない……」
「オレからもココたちにお願いしてみるよ。上手くいけば特産品が増えるかもしれないしな」
何より、日常的に味噌と醤油が味わえるようになれば嬉しい限りだ。どうしても和食が恋しくなる時があるからなあ。
「食い意地が張ってるわねえ」
「食事こそ生きる楽しみだからな」
「否定はしないけれど」
肩をすくめたクラーラは、「それはそうと」と前置きした上で、味噌の樽へ視線を向ける。
「味噌って本当に美味しいものなの? 何だか独特の色をしてるけど……。まるで排泄ぶ」
「それ以上は良くない! 今すぐ忘れなさいっ!」
……味噌のことを知らない人にとっては、そんな感じに思われても仕方ないんだろう。見た目がアレだからなあ……。
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