@sIx

 杜乃もりの 天加あすかの居室から朝霧あさぎり えんが去った後で、杜乃はしばし目を閉じた。

「…パンケーキかラーメンかエビチリかどれだろう」

 そこにいた唯一の他人、蓮宮はすみや 叶世かなせは、特段杜乃の様子を気にするでもなく、虚空にひとりごちる。

「今日は…ラーメンかな?」

 と、そんな一言も虚空に消えて数秒後。

「……ん。んん」

 システム、と名付けられた杜乃専用の情報端末群が置かれたデスクに備え付けられた椅子の上で、杜乃がやや艶のあるような吐息を漏らした。寝言、だろうか。

「…どうかな?」

 蓮宮のその、誰にともなく投げられた疑問に回答するように、その椅子の背もたれに身を預けていた杜乃がガバリと起き上がり、第一声を吐き出す。

「ラーメン食べたい!」

「正解かよ。まじか」

「ん?!あれ!叶世くんだ!」

 その雄叫びとともに、椅子がぐるりと回転して蓮宮の方に視界をロックオンする。

「杜乃から聞いてなかったのか?」

「疲れて眠っちゃたみたいよ。中でも話してない」

「まあ、忙しかったからな」

 言った蓮宮があくびをしながら背伸びをすると、杜乃が珍しそうな表情を浮かべた。

「珍しいねぇ、そんな叶世くん」

「ん?ああ、あまり寝てなくてな」

「寝不足?」

「かもしれない。まあ、今日はちょっと早く帰って休むと思」

「いや、うちの寝室で寝てきなよ。なんと嬉しい杜乃 天加ちゃんの添い寝付きだぞ」

「それ嬉しいの天加だけだろ」

「なんで!?うれしくな…今なんていった?」

「ん?それ嬉しいの天加だけだろっていった」

「よ、呼び捨て継続!鼻血が出る!!」

「やめさないよ変態が」

「しかも生だと……やばすぎる…」

「生とかいうんじゃない」

「いいじゃん嬉しいんだもん」

「まあ、それ自体は悪ことじゃないけど。どうする?食べに行く?作る?」

「作る!」

「じゃあ買い出し行ってくるから少し待ってて」

「うんわかった!ベッドで待ってる!」

「意味がわからん」

 椅子から立ち上がった蓮宮は一度だけ杜乃の頭を軽く小突いた。するとこれに関する反応もやはり杜乃のこのモードの時のそれから御多分に洩れず、やや頰を赤らめつつはにかみ、小突かれた脳天を大切そうに撫でている。

「じゃ、ちょっと行ってくる。20分くらいで、すぐ戻るよ」

「ありがとーう!」

「あ、味何がいい?」

「とんこつ!」

「はいよ」

 蓮宮は注文を承って、その白い部屋を出、正面のエレベータに向かって廊下を一人で歩き始めた。

 こういうときに、その世界のギャップに、心配する心が芽生えてくる。

 杜乃と、天加。

 その二面性は、社会的人格の切り替えではない。

 彼女に潜む病理のなすことだ。

 それは、とうの昔から知っていることであり、彼女にとっては当たり前として受け入れてきた。

 しかし、それが人体としては当たり前でないことも知っている。その異常性が、体に与える負担が少なくないことも知っている。意識的二重生活は、まず身体が酷使されるし、脳機能にだって影響を及ぼすはずだ。事実、最近は良くなってきてはいるものの、記憶の混濁や欠落も少なくはない。

 中学生だった彼女を襲った圧倒的悲劇がきっかけなのか、その前からなのか。杜乃はその辺りを明確には語らない。しかし、なんらかの受け入れがたい現実や、感情があったからではないかと思っている蓮宮にとって、知りたくもありつつ、不用意に踏み込めないのもまた事実。

 杜乃 天加の脳にある現実。"特殊解離性"多重人格障害。

 その言葉を、部屋の中でまざまざと変わられた後に今のような一人になる瞬間があると、意識をせざるを得ない。

 自分ももしかしたらそうなっていたのかもしれない体験が少しだけフラッシュバックするが、傍観者はそれを振り切る。

 自分の中に半分血を流した悪魔が引き起こした惨劇によって、自分にも何かあるのではないか。

 疼く心を抑えて、蓮宮はCAZEの最上階から1階に降りるエレベーターを呼び出す。

 すぐ下の階で止まっていた籠はすぐに到着して、招き入れるように扉を開く。

 乗り込んで振り返る蓮宮は目的階のボタンを押すと、目の前には暗い、黒い壁に取り囲まれた赤い床の廊下を振り返る形になった。

 時折これが、魔物が捕食するために開いた口の中に見えるんだよな、と蓮宮は自嘲気味に思考した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る