@fI've

 日奈円かなえ 仍生よるはが東京の大深度地下に走る列車に乗り込んだ頃。

 東京都内の古い住宅街をとある目的で徘徊する影があった。

 その影は膝下までのコートに身を包んでフードをかぶっていた。とぼとぼと音のしそうなゆっくりとした覇気ない足取りで、とある古いアパートの前で立ち止まり、腕を露出させ、そこに刃物をあてがった。

 流れ出る赤い液体は、しかし傷の大きさに反比例して多くはない。つー、とでも表現すれば擬音としては的確か。流れ出る血液を運ぶ血管が青く浮いている白い肌になるべく長い時間触れていたいとでも言わんばかりに、傷口から吹き出すことなく流れ出た鮮血は白い肌にまとわりつくようにしながらも重力には逆らえずゆっくりと地面に小さな血溜まりを作っていく。

「っ…はーぁ」

 安堵と恍惚の入り混じった、ぬるいため息が出る。

 腕に傷を作った刃物はもとどおりにポケットに収められ、影はその場に立ち尽くす。

 しばらくそうしていて、傷口からの流血が治まってきた頃。

「……ん?臭いな」

 ようやくこと、その影の口からしっかりとした発生がされる。それは女声だった。

「なんでだろう」

 正直自分の腕につけた一つの傷から流れ出る血の量ではその匂いは空気中に拡散され、血生臭く感じことは難しいはずだが、その影の鼻腔は明らかに血生臭さを捉えていた。

 不思議に感じた影が周囲を見渡すと、その双眸がそれを捉える。

「え…」

 影自身が腕に傷を作ったその場所、すぐ側の古いアパートの一室。最も近い部屋の玄関のドアの下にやや隙間があるのか。そこから、明らかに何かが滴り落ちている。

「……」

 影は無言で、周囲に人影がないことを確認してそのドアに近づいていく。

 ゆっくりと忍び足で近づいていくと部屋の中から何かうっすらと物音がしていることがわかった。と同時、感じた生臭さの原因が、ドアの下部から滴っている液体であることも確信する。これは、何か触れてはいけない、感知してはいけないことが起きている。しかし、それでも影の意識は止まらない。滴っている血液に対する興味で、それだけで、身の危険を察することも出来たのに。ただその一点の興味だけで、それだけで影は部屋の前に歩みを進める。自分が発したかったであろう血生臭さに、適当な憧れを抱いて影の歩は進んでいく。いけない。このままではきっといけない。脳の反対側で警鐘がガンガン鳴り響く。うるさい。けれど、それでも足は止まらない。心の反対側で、もしかしたら、夢に見たような紅の世界が?そう思うと、脳の反対側で鳴り響いている警鐘はもう、身の危険を告げているのにただの雑音になる。

 そしてその、部屋の扉に耳を押し付けようとした瞬間。

 足元に転がっていた空き缶を爪先が小突いた。

 からん、ころん、ころ、からからから。

 背中が、一瞬で一気に冷や汗をかく。

 やばい。

 認識していた。

 その血の量は、人の命にかかる量であることを。

 一拍おいて息だけ吐いて、弾かれたように、影は走り出す。

 やばい。

 やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。

 これは絶対にやばい。

 自分は、そこまで体力がない。

 全力で走っても、中にいてその作業を行なっていた人間が男性ならあっという間に追いつかれるだろう。なら、ちょこまか曲がって相手を巻くしかない。

 と思った瞬間。

 背後から聞こえた、扉が開いて乱暴に閉じられる音。

 見つ、かった?

 足が悲鳴を上げて、脚が鳴く。

 けれど止まれない。

 止まってしまったらきっと自分もあの血溜まりを作る源泉になってしまうのだろう。

 まだだ。

 まだ死ねない。

 こんなところでー。

 かぶっていたフードが視界の両端を遮っていて曲がり角がうまく見えない。もう弱音を吐き始めた自分の呼吸音がその中で反響して周囲の音が聞こえない。クッソ邪魔だ。

 もう索敵もできないならこんなもの取ってしまえ、と、フードのてっぺんに手をかけようとした瞬間。

 しかしそのフードは自分の手によって外されることはなかった。

 思った瞬間に首から上を、5月初旬の深夜の冷気が包んだからだ。

「…捕まえた」

 男の声で聞こえたその音のせいで、瞬時に震えがくる。

 どう、されるのだろう。

 フードを乱暴に引っ張られて地面に投げ出された影。その上に、追いかけてきた猟犬が大きく跨り押し座る。

 そこは奇しくも街頭の真下だった。相手の一挙手一投足がよく見える。ということは、自分も認識されているということだ。怖くて目をつぶった影ー彼女は、そのために相手の顔を認識していなかったが、追ってきた方は違う。自分がしたことがバレたための口封じをしなければいけない猟犬は、きっと自分を舐め回して、なんなら犯してからでも適当に殺すのだろう。

 あの血液は、殺意を受け入れた血液だ。

「…え?」

 その男の声が、驚きと、もしかしたら喜びに満ちていたように聞こえた。

「……」

 彼女は何も言えない。声も出ない。目も開けられない。けれど。

 呼び覚まされる数年前の記憶。

 え?

「…もしかして、お姉ちゃん?」

 ハッとする彼女。

 自分を追いかけ引きずり倒して今自分の上に跨っている、あの大量の血液の原因だろうと思われる人物。その声に聞き覚えがあることを思い出した彼女はゆっくりと目を開けてそこで初めて認識した。

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