「迷宮」または、戻らない時間と失われた物語

藤光

第1話 警察署を訪ねたぼくは、若い刑事と出会う。

 地下鉄の出口を地上へでると、灼熱の太陽にあぶられ、かげろうのなかに警察署は揺れていた。むし暑い季節、吹きだした汗がじっとりと身体に張り付いたまま乾こうとしない不愉快な午後だった。


 警察署の正面玄関をはいり、右手の受付に座っている制服の警察官に用件を告げると、頭のてっぺんからつま先まで眺めまわされたうえ、少し待っててくださいと狭いロビーのソファに座らされた。そのあいだに警察官はどこかへ電話をかけている。ソファのクッションは薄く、あまり冷房が効いていないのか、一向に汗は引いていかない。


 この警察署にやってきたのは初めてのことだったけれど、このロビーにはぼくのほかにも意外なほどたくさんの人が訪れている。年齢も服装もさまざまな男と女がひっきりなしに現れては受付の前をとおり、つぎつぎ階段やエレベーターに吸い込まれていく。ひとりソファに座っているぼくが場違いに見えるのか、前を通るときにはじろじろと眺めてゆく。それでいてぼくには関わりたくないのだろう、せかせかとした歩調をゆるめる人はだれもいない。


「これだからいやだったんだ」


 ひとりごとは、そばをとおる人に聞きとがめられることが無いように、低く小さくつぶやいた。






 七十五歳になる母に、警察から連絡があったんだけどねと切りだされたのは昨晩のことだった。警察なんて面倒なものとは関わりたくなかったので聞こえないふりをしていたけど、聞くうちに無視していて良い話ではなさそうに思えてき、会社を休んでしぶしぶここまでやってきたのだった。


 母に連絡を寄越したのは、ここの刑事だ。





「お待たせしました」


 名前を呼ばれて振りあおぐと、声をかけてきたのはまだ若い男で、やはりぼくのことを値踏みするようにじろじろと見てきた。徳山と名乗ったその若い男は、清掃作業員が着るような灰色の作業服を着ていた。母から刑事と聞いてきたぼくは、テレビドラマで俳優が演じる役柄のように、こぎれいなスーツを着こなした男が颯爽と歩いてやってくると思い込んでいたのでおどろいた。


「刑事さんですよね」


 自分でも間抜けな質問だと思うけれど、徳山の身なりは刑事というよりごみ収集車の作業員だった。


「そうですよ」


 どうぞ、こちらですと徳山は気を悪くした様子もなく先に立って歩きだす。階段かエレベーターを使って上階へ上がるものと思っていたら、階段もエレベーターも通り過ぎて、警察署の玄関を出てしまった。また、炎天下に逆もどりだ。


「この先になります」


 刑事はきびきびとした動きで階段を下りていった。その洗練された身のこなしは、作業服よりやはりスーツの方が似合いそうだ。悔しいことに、刑事が着ているような作業服が似合うのはむしろぼくの方だろう。ぼくにこそふさわしい。


 パトカーが何台も止まっている駐車場を抜けた先に、すすぼけた建物が建っていた。この建物は人気がなくうすぐらい。


「どこまで行くんですか」

「別館です」


 徳山刑事はこの別館の玄関もとおり過ぎて、建物の横手に回り込むようずんずん進んでいく。そして、しばらく行った先にぽっかりと空いている地下へとつづく階段に入ってゆくのだ。ぼくはあわてて刑事を追いかけた。短い階段を下りきったところの扉を押しひらくと半地下の廊下にでた。これも長いものではない、十メートルもない短い廊下だ。


「くらいね」


 地上がまぶしい陽の光に満ちていたのと対照的に、半地下の廊下はうすぐらい。徳山刑事に話しかけても答えはなかった。明かり取りの小さな窓がいくつか並ぶ廊下はひんやりとしてかび臭く、すえた空気に、汗のからみついた首筋の後ろの毛がさかだった。


「おばけでも出てきそうだ」


 なんだか怖い気持ちになってきたのを冗談めかしていってみたが、やはり刑事はなにもいわない。くらい表情で廊下の先を見ている。いい年をしてくだらないことをいうやつだとばかにしているのだろうか。人をここまで呼びつけておいて、失礼な男だ。


 ひとけのない廊下に刑事がはいる。ぼくがついてゆく。スニーカーが床を踏む音がひたひたと壁に染みこむ。背後でいまくぐった扉が音もなくとじて、足元からすっと暗がりがぼくにまとわりついた。


 いやな感じだった。


 廊下の向かって右側には手前から三つ白い扉が並んでいて、左側に同じく三つのベンチ、突き当たりにはひときわ大きな扉がある。一番奥、三つ目の扉の前で刑事が足をとめた。


「ここです」


 先に立って歩いていた刑事が、ポケットからかちゃかちゃとうるさい鍵束を取り出して、そのうち一本を一番手前の扉にある鍵穴につっこんだ。古い鉄の扉だ。


 白いペンキがあちこちはげかけた鉄の扉は、汗をかいたようにじっとりと濡れている。伝い落ちた水滴がむき出しのコンクリート床に小さな水たまりを作っていた。


「ずいぶん古い建物だね。何年経ってるの」

「さあ、わかりません」


 まるで興味がないといわんばかりに刑事はこちらを見もしない。目的の鍵が見つからないのか、鍵を取り替えとりかえ扉と格闘している。


 まったく、ろくなところじゃない。


 かちゃり――。


 しばらく待たされたが刑事はなんとか開錠し、そこだけがぴかぴかしている真鍮製の取っ手をつかんで力をこめた。扉はぎぎぎとさびた歯車が回るような音を立て、ゆっくりと部屋の中へとひらいていった。中は真っ暗で、冷たい空気とともにツンとした匂いがあふれでてきて暗い廊下を満たしていった。


「はいってください」


 ちかちかと明かりがまたたいて室内が青白く照らされた。先に中へ入った刑事が蛍光灯のスイッチをいれたのだ。


 招かれるまま入った部屋は六畳ほどの広さで冷蔵庫内のように冷えていた。部屋の中央には、銀色に光る大きな金属製の台がひとつきり据えられ、その上にちょうど人の形にふくらんだねずみ色で長方形の袋が置かれている。若い刑事は台のそばに立って、その袋に手をかけた。


 ――190117

 袋には六桁の数字。


「それでは、遺体の確認をお願いします」


 これが袋の中身がぼくの叔父であることを示すしるしだった。

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