3.THREE TO GET READY

答えは出ない。


それでも、私は私がいいと言ってくれた人に報いるためにも頑張っていきたい。


せっかく、身近に目標だってできたんだから。


だからお願い、邪魔だけはしないで














仕事の合間、一息入れようと私はおもむろに立ち上がった。コーヒーでも買おうかな。


しばらくパソコンとにらめっこしていてこってきた首を回し、はっとなって辺りを見回す。


当然ながら、営業職の皆さんの大半は外回りに行かれてる。松戸さんだって例外じゃない。そのことに多少の安堵を覚えつつ桑畑さんに声をかける。


「すみません、給湯室行ってきます」


「はい」


快く送り出してくれるその姿を見て、早く飲んで帰ろうと思った。


それにしても、と思う。


桑畑さんが来てすぐに変化があった場所のひとつというのが給湯室なのだ。その変化の恩恵を存分に味わえることを当たり前のように感じている自分がいる。


もちろん、感謝はしているし、それまでの環境だって悪くなかった。ただ、あれを知ってしまうともう元には戻れない。それくらいの代物だった。


寧ろ、あんなものを毎日持ち歩くことを許されている桑畑課長のことを羨ましいとさえ思ってしまう。


で、何が登場したのかと言うと、


「これ、幾らしたんだろう?」


エスプレッソマシンだ。


聞くと、桑畑さんは結婚するまでの間はほとんどお金を使うことなく生活していたから貯金額がなかなか大変なことになっていたのだとか。で、結婚しても相手の桑畑課長もかなり稼いでいる人で、桑畑さんの貯金はあまり減らなかったそうだ。さらに、それまでもコーヒー好きで通っていたようで、自前のミルを会社に常備して豆を挽いてコーヒーを淹れていたのだとか。


そして、結婚を期に少し忙しくなったのもあってミルを使う機会も減って、それで家にそこそこの値段のするエスプレッソマシンを置いたのだとか。が、それからしばらくして妊娠してコーヒーを封印。それからは家で埃を被ってしまっていたそうだが、職場復帰を期に社で使ってもらってはどうかと持ち込んできたのだ。


しかも、豆は桑畑さんがチョイスしてくる。当の本人は授乳期も終わっているからか、今では普通にコーヒーを飲んでいる。


はっきり言っておく。この豆は反則だ。コーヒーに明るくない私でもこれがかなりいい物だってわかる位の代物だった。


自前のマグをセットしてスイッチひとつ。


するとガガガ、と音がしたと思ったら焙煎された豆のいい香りが漂ってくる。これ、基本的には健常者の方にはリラックス作用があるそうです。一部の病気の方はその症状が露呈されてしまうので注意が必要みたいだけど。


そうして入ったコーヒーに口をつける。早く飲むのがもったいないけど、資料の打ち込みはまだ残ってる。ぐい、と呷ってマグを水洗いして戻した。


「ごちそうさまでした」


一応、豆代は利用者が月ごとに集金して桑畑さんに渡すことになっている。でも、こういう機会をくれたのは間違いなく桑畑さんなのでここは感謝を示しておく。


そうしてオフィスに戻ろうとした私の前を田上が嬉々として歩いていった。桑畑課長じゃないな。今日、何かあったっけ。


まぁ、いいや。田上がこんなところを平然と歩き回っているって事は桑畑さんが頑張っているって証拠だ。私だけでも戻って手伝えるようにならなきゃ。


走るわけではないけど、気持ち急いでオフィスに戻った。


そこで待っていたのはある種異様な光景だった。


桑畑さんが白戸の横に立っていつになく険しい顔をしている。むしろ、こんな顔もできたんだ、と妙な感心をしてしまったほどだ。で、そのすぐ近くには2課長が困った顔をして立っていた。


私はすぐ近くにいた後輩営業を捕まえて話を聞いた。


「どうしたの、あれ」


「えと、どうも課長に頼まれてた会議資料を全然作ってなかったみたいなんです。それで課長が困ったなって言ってたんですけど、そしたら」


「桑畑さんがお説教を始めた、と」


後輩がうなずいたのを確認して、私は桑畑さんの言葉を聴きつつ課長に視線を向けた。こめた意味は単純で、こっちに来て下さい、だ。そして、課長はこの手の空気がまったく読めないわけじゃない。実際に察してくれてこっちに来てくれた。


「資料を私のほうに転送してください。今やってる打ち込みと並行してやります」


「大丈夫かい?」


「何とかします」


本当はこの台詞がダメなんてことわかってる。でも、何とかなるなんて言うよりもずっといいってことも理解してる。だから、私は自分のデスクについた。


後ろでは、まだ続いている。


「今日が期日で、1週間前から頼まれていた。私はそう認識しています。それで、終わりそうにないならそれを周りに相談してください。みんながあなたの都合で仕事をしているわけじゃないんです。でもね、今回のあなたは周りに相談する資格すらありません」


ん。ちょっと待った。仕事が終わらないなら相談しなさいってのはわかる。それは当たり前だ。だけど、その資格すらないってどういうことだろう。


「白戸さん。資料を作成すらしていないのはさすがに誰も庇えない。それに、デスクトップで展開されてるのが社内メールと社内チャット。仕事、やる気あるの?」


「さぁ」


「他人事じゃないんです。あのね、お給料ってどういうものかわかってるの、白戸さん。会社との契約の報酬なの。会社にはここでこんな仕事をこれだけしますと私たちは約束してるの。その対価でお給料をもらってる。それで、会社はそのために、私たちに仕事をしてもらう対価にお給料を払うの。お給料はね、私たちと会社の約束の証なの。今のあなたを何て呼ぶか知ってる? 給料泥棒。人はそうあなたの事を言うわ。そんなことばかりしてると、私たちはあなたに仕事をお願いできなくなるの」


無茶苦茶だ。白戸、どうやったら桑畑さんをここまで怒らせることができるの。


だけど、不謹慎だけど少しだけ感謝もしてる。だって、桑畑さんは私が言いたくてずっと言えなかったことを、全部言ってくれた。


うん。私も後輩に指導していかないと。そういう意味では私も確かに給料泥棒だから。













それから。


取り敢えず、昼が来た。営業さんも何人か戻ってきている。そりゃあ、食品とか調味料を売り込みに行くのに一番忙しい時間に押しかけるのは非常識でしょうし。


そんなわけで昼休み。来訪者は突然だった。


「樹、お昼にしましょ」


そう言って2人の女性がやってきた。どちらも仕事で凄くお世話になってる人たちばかりだ。


先に声をかけたのが経理の宮下さん。で、もう一人が総務の和泉さん。宮下さんだけが独身で、社内で狙ってる人もたくさんいるけど、全部袖にしてるとか何とか。


正直に言えば、そんな人が桑畑さんと仲がいいとは思ってもみなかった。


「そうね、そういう時間だものね」


桑畑さんはかけていたパソコン用眼鏡を外して軽く伸びをした。悔しいくらいこういう動作がかわいらしく見える人だ。いや、5つ年上の人に使う言葉じゃないけれど。


「そうだ、春夏秋冬さんもどう? 」


「私、ですか」


面食らってしまったけど、どうなんだろう。というか、皆さんが手に掲げてるものはどう見てもお弁当箱なんですが。そして、私はコンビニのおにぎりとサラダという組み合わせで正直、腰が引けてしまうんですよ。


「あ、春夏秋冬さんって樹の後輩になるのよね。あまり意識したことなかったけど、これは是非にお近づきになりたいところね」


「ええ。樹ちゃんのこととかいろいろ話してみたいところね」


すみません、和泉さん。樹ちゃんと呼ばれる歳でもないと思うんです。だけど何で似合うんだろう、この人。


というか、退路はすでに断たれているようだ。


まぁ、正直なところ白戸や田上のことを忘れる時間がほしいのも事実。ここは素直に受け入れておくべきだろう。


「わかりました。でも、皆さんみたいに立派なお弁当なんて持っていないのでがっかりしないでくださいね」


言って、コンビニの袋を掲げる。


「大丈夫。あまりあなたのことを笑えない人もいるから」


とは宮下さんの談。


そういうわけで、私は彼女らについていくことになった。


で、屋上前の踊り場。一応、休憩場所としても認知されているのでベンチや灰皿が置いてあったりする。そこで広げられたのは色とりどりのお弁当とコンビニのおにぎりだった。


まず、桑畑さん。完全に自分で作りました、という雰囲気ばっちりの綺麗なお弁当。同じようなものを課長が持っているんだろうか。次はサンドウィッチが収まっている宮下さん。そして、恐ろしいまでの出来栄えの和泉さん。


すみません、どこに私のことを笑えない人がいるんでしょうか。


「あ、春夏秋冬さん。少し勘違いしてない?」


どうやら私はとても微妙な表情をしていたらしい。


「ここに、1人だけ夫にお弁当を作らせた人がいるの」


「は?」


この素敵な人たちの中に、というか、既婚者なのは桑畑さんと和泉さんだけだったはず。


「えっと、まさか……」


「はい、私」


和泉さんが自己申告をした。


それにしても、一番の完成度を誇るお弁当の持ち主がそうだったなんて。


「あの、私の夫って開発のほうで勤務してる人なの。今では世間とはまったく立場が逆転しちゃってて」


少し情けなさそうにする和泉さん。


「和泉さんって料理とかはされないんですか」


「昔から家族にも付き合った人にも、挙句夫にもやめなさいって言われてる」


「忍の料理は料理に対する冒涜よ」


いったい、どうやったらそんなレベルの失敗ができるんだろう。私もそんなに得意なほうではないけれど、それでも食べられるものくらいは作れる。煮物が苦手なくらい。まぁ、炒め物とか焼き魚は結構焦がすけど。


あらためて和泉さんのお弁当を覗いてみる。ご飯は少し色が付いてる。もしかしてこれはピラフなのか。それから当たり前のように鎮座している酢の物に筑前煮、それからベーコン巻き。レタスまで添えてあって見た目までばっちり。


そのまま店に出せるんじゃないか、これ。


「うちの人は主夫だからね」


「間違ってないけどそれはそれで釈然としない。寧ろ樹に謝れ」


テンポのいい掛け合いについていけない。でも、凄く楽しそうだとも思う。


思い返せば、就職してからこんなに楽しかったことってあんまりない。入社1年目はそんな余裕もなく終わったし、2年目は田上っていう問題ができた。3年目は白戸が増えた。


その所為なのか、あまり口を挟むことができなくてもこんなに楽しそうな場所に一緒にいさせてもらえることが凄く嬉しくなった。


「春夏秋冬さん、大丈夫?」


そんな私を気遣うように声をかけてくる桑畑さん。


「大丈夫です。皆さん仲がよろしいんですね。同期ですか?」


「未央さんは同期だけど、忍さんは先輩。私たちよりも少し、ね」


「で、そんな私たちは来週の水曜日、昼休みにCiliegioチリエージョに行くの。樹の復帰祝いにね。というわけで、同じ部署の先輩とその友達と親交を深めてみたいとは思わない?」


とお誘いしてくださるのは宮下さん。いや、お友達同士の交わりに出席してもいいのだろうか。


「あんまり気兼ねしないで。あなたを誘いたいって言い出したのは樹だから」


「そうなんですか」


気兼ねしないでと言われても、気兼ねしてしまうものはしてしまう。だって、考えてもみてほしい。


先輩しかいないんだよ、先輩しか。それも、課とかの宴会じゃない。先輩のプライベートの領域だ。そんなところにほいほい付いていってもいいのか、というのは世の後輩なら当然のように抱く悩みだと思う。


「まぁ、今日すぐに結論を出せって言っているわけでもないのだから、ゆっくり考えたらいいと思うよ」


と、ある意味張本人と思しき桑畑さん。


「わかりました」


とにもかくにも、ゆっくりでいいと言われた課題がこれで2つになった、ということは確かなようだ。




























後書く



唐突に登場した過去作の人物たち。未央の配置が経理になっていますが、元々経理志望で資格も色々持っていたところを受付に回されていたという設定です。ついに念願かなっての経理でバリバリ働いています。和泉さんは旧小野寺さんです。前作にちょこっと登場してます。そして、つい先日ようやく気付いたんですが、私、彼女の設定を作ったとき、小野寺じゃなくて小野田にしてたんですよね。自分でも気付いていなかったようです。本当は彼女の話をスピンオフで書くつもりだったんです。今でも書きたいと言う気持ちは萎えていませんが、これでもか、というくらいにヒーローのほうに料理をしてもらう予定だったのでなかなかうまくいかないので積んでます。


で、これである程度の役者がそろいました。後は名前しか出していない静季でしょうか。あ、今回松戸が登場していない。


それにしても、前回もそうでしたが樹が本当にたくましくなりました。今なら雰囲気で詐欺ができそうです。


ちなみに、今回のタイトル、ちょっと手持ちのアルバムを漁ってみるとあったわけですよ、3を含むタイトルが。同じ理屈で手持ちのアルバムに5と10があります。そこまではやりたいですし、聖者の行進も使ってみたいですし。やりたいからには頑張るしかないわけです。

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