The Eye of the Hurricane
1.MAIDEN VOYAGE
さて、唐突だけど皆さんにはどういう悩みがあるだろうか。悩みの大小、人それぞれだとは思う。
うん。私にもそれなりに大きな、私にとっては大きな悩みというものがある。
そして、それは増えることが確定したようだ。
荒れるね、これ。
常々思う。人生って、いつも処女航海してるようなものじゃないかって。
どうしてこんなことを考えるかといえば、通勤中にハーヴィー・ハンコックの
ああ、ごめん。これ、現実逃避ってやつだね。今は朝礼の最中で、今日あることは前もって聞いていたんだけど、予想もしてなかったことがあった。それは私たちの前に立って挨拶をしている美人さんにあると思う。
落ち着いた雰囲気の、感じのいい人。
初めて見たときに思ったのはそうだった。そして、それは今も変わってはいない。だけど、面倒なことになったとも思う。彼女の自己紹介を思い出してみる。彼女は確かに言ったのだ。
『
このインパクトはなかなかのものだ。この食品事業部営業課においては。
別に、私生活では何の問題にもならないだろう。むしろ、そっちなら私のほうがよっぽどインパクトあると思う。
というか、私は後輩の指導を失敗したというか、指導しきれなかった。私たちの仕事は営業の人たちが出て行った間、電話の取次ぎやその他の雑務をこなし、他部署との
当の後輩は、初めて会ったはずの美人さんをにらみつけている。
そうだろうなぁ……
だって、こいつはこの美人さんの旦那さんに粉をかけ続けてきたのだから。
ちなみに旦那さんとは食品事業部営業1課長の肩書きを持っていらっしゃるイケメンさんである。そして、この後輩は会社に男を漁りに来ているようなレベルで仕事をする。というか、仕事にならない。その分、私がフォローする羽目になり、新入社員の指導もできない。
取り敢えず、ため息しか出ないけど。うん。ベテランさんとか営業統括課長さんがにこやかに迎えているあたりは美人さんは信頼できそうだ。味方ができてよかったとも思うけど、後輩のことを考えると素直に喜べないのよね。
そうこうしている間に朝礼も終わって、桑畑さんがこっちに来た。
「桑畑です。一緒にがんばりましょう」
ごめん。この人本当にいい人だ。
「はい。
でも、桑畑さんを迎えると定数超えちゃうんだけど、そのあたりはどうなってるんだろう。私かな?
「時間も惜しいので引継ぎしましょうか」
「はい」
朝礼で得た情報によると、私と桑畑さんは入れ替わりになっていたようだ。産休に入る桑畑さんと、新規採用の私。あのやたらと仕事しやすい環境を造ってくれていたのはこの人だったのか、と素直に感謝したくなる。というか、この人すごい。
私はこの人が残してくれたものをそのまま活用していただけだったから。少しばかり、情けなくもある。とはいえ、変わったところだってあるのだ。そこは私がきちんと伝えないといけない。
私、ここ出されるのかな?
桑畑さんの仕事は恐ろしく正確だった。しかも、産休前から一緒に仕事をしてたという松戸主任曰く、出払ってる人の行き先とかスケジュールまで完璧に記憶し、書類を届けるために自転車で先回りしたこともあるそうだ。
私はさすがにその域には達していない。
一生ついていきます、姐さん!
とか言ってみたい気もするけど、桑畑さんはどう考えてもそういうキャラじゃない。
そんな感じで今日の業務は私が教えるはずが、逆に教えられるような感じになってしまった。
そして、4時になった。
「では、ごめんなさい。お先に失礼します」
準社員枠の桑畑さんの業務は4時に終わる。
この会社は子育てする社員に優しい。もちろん、それを社員一人ひとりに伝えていく努力も怠っていない。今のところ結婚する当てもないけれど、もしも結婚してもここでなら仕事を続けていきたいとも思う。
とまぁ、桑畑さんが帰っても私たちのほうの仕事は終わらない。それはいい。そういう契約なんだから。その分、私と桑畑さんとでは給料が違うし、背負ってるものも違う。
「いい身分じゃない。仕事も残ってるのに帰るなんて」
ああ…… 馬鹿がいた。それ、古参の人を敵に回すだけってのに気づいてないあたりが致命的だ。
実際、敵意丸出しでにらまれてる。それも一瞬のこと。みんなすぐに自分の仕事に戻っていった。戻らないのは馬鹿なことを言った
「
私も気にせずに仕事に戻ることにした。残業はできればしたくないもの。
「えー。やっぱり休日の得意先訪問はだめだったか」
「みたいです」
松戸さんは目に見えるようにして肩を落とした。
「仕方ないね。春夏秋冬さんも努力してくれたみたいだけど、ごめんね。それにしても、春夏秋冬さんって桑畑さんみたいな仕事をしてくれるからこっちも助かるよ」
「そう、見えますか?」
「見えるよ。意外そうに言うけど、すごく丁寧に仕事してくれてるよ。そういうのが助かるんだ、こっちは」
嬉しかった。もちろん、評価されるために仕事をしているわけではないけど、こうして言ってもらえるというのはとても嬉しかった。
「…… 春夏秋冬さん、仕事してください」
こういう余計なのさえなければ。
「白戸さん。
「えー。資料室遠いんですよ」
見る人が見れば、今の私は青筋が浮かんでいるんじゃないだろうか。こう、ピキピキ、と。
取り敢えず、この甘ちゃんを誰か何とかして。本当は私の仕事だけど、今は正直そこまで手が回らない。無理。
「行きなさい。私は私の仕事をしています。遊んでいるように見えましたか?だとすれば心外です。経費の申請結果の報告をしました。そして、まだ議事録の作成をしなければなりません。何より、頼まれたのは白戸さん、あなたです」
責任って言葉を辞書で引いて来い。
で、当の白戸は半泣きで資料室に向かっていった。あれであそこまでへこむんだ。というか、相馬さんの厚意を無駄にすんなよ。あまり仕事わかってない新人でもできる仕事をくれたんだぞ。ここでやる気を見せておけば少しずつでも仕事をもらえたり、私の手が届かないところでも仕事を教えてもらえるんだぞ。大切な機会を自分でつぶすんじゃないよ。
「相馬さん、すみません」
「いや、いいよ。無理やりでも仕事してもらわないと。正直こっちの士気にも関わるから」
もう一度相馬さんに謝罪して、私は議事録の作成に取り掛かった。うん。これ、絶対に今日中に終わらないね。
それでも、と思って頑張ってみたけど終わらなかった。
気づけば7時を過ぎていた。今日はみんな帰りが早い。誰もいない。
「あー…… 帰るか」
女らしさのかけらもない声を出して、すぐに辺りを見回した。
よかった。誰もいない。
「凄い声を出すね」
いたよ。しかも、松戸さんだった。
「あーえーと……」
弁明の余地も何もあったもんじゃない。逮捕状を突きつけられたような気分だった。
「気にしないよ。で、帰るんだろ」
「はい」
特にごまかす理由もないので素直に答えた。
「じゃあさ、飲んでいかない? お酒がだめならお茶だけでも。ちょっと話したいんだよね、業務時間外にさ」
「…… わかりました」
今日というこのタイミングのお誘いだ。業務時間外とは言うけれど、間違いなく仕事がらみの話なんだろう。いや、これはこれでめんどくさそうだけど。
でも、今の環境と明らかにあいつらに歓迎されていない桑畑さんを思えば私はこの人と話をしておくべきなんだと思う。
というわけで、断る理由がない&断ることはできないという結果に落ち着くのだ。
「余計なものまで吐きそうな予感はありますけど、飲みましょう。どこにしますか?」
「うーん…… いつも使ってるところはなぁ」
渋い顔をする松戸さん。でもね、こっちにだって渋ることってあるのよね。
「松戸さん。私、いわゆる女子会なるものに呼ばれたこともなければ立ち上げたこともないので、むしろ場末感が漂っていても何の問題もありませんよ」
そう、気を利かせて女子好みのお店に連れて行かれるとこっちが困るのだ。自慢じゃないが彼氏がいたことなど人生収支で一度きりなのだ。しかも、いい思い出には決して分類されない。願わくば、あれはノーカウントにしたい。体の関係もなかったからノーカウントで。年齢=彼氏いない暦でお願いします。まだそのほうがいい。
「ああ、そういう感じね。じゃあ、場末感は漂ってないけど会社の人間がまず来ないであろうお店にしようか」
というわけで、行き先が決定したようです。
連れて来られたのはどう見ても個人のお宅だった。
「ここ、松戸さんのお宅ですか?」
「違うよ。ここ、自宅の一室をカフェとして開放してるんだ。で、種類はそんなにないけどビールとワインを取り扱ってるんだ」
なんと言う隠れ家カフェ。目立つような看板すら存在していないあたりがいっそ潔くも見える。というか、経営どうなってるんだろう。
「ここ、1課のお得意様ですか?」
「違うよ。ここは、個人的に知り合いになっただけ。会社の人間なら桑畑さんと宮下さんくらいしか知らないと思うよ」
宮下さんは知らないけれど、桑畑さんがご存知なのは驚いた。どっちかは知らないけれど。
まぁ、外で立ち話を続けるのもなんなので中に入ることにした。
うん。いきなり階段だけどそこを通り過ぎて、奥の部屋に向かう。おもいっきり個人のお宅にお邪魔してる背徳感が半端ない。
「こんばんわー」
カーテンとドアで仕切られた部屋に松戸さんが当たり前のように踏み込むので私もそれに続いた。きっと、借りてきた猫のような状態に違いない。
「ああ、いらっしゃい。今日は彼女連れかな?」
「違いますよ」
ああ、それはそれで甘美な響きだ。まぁ、即座に否定が入るわけだけど。
それにしても、と室内を見回す。外から見た時点でもわかっていたのだけど、このお宅はログハウスだった。いかにも趣味全開、的な。しかも薪ストーブまで置いてある。
「今日はちょっと飲みたいのと、話がしたいのとあってね。ここならちょうどいいかなって」
「まぁ、月に一度の夜間営業日だからね。ゆっくりしていくといいよ」
「じゃあ、取り敢えずはギネス2つで。あとは…… ピザある? あればちょうだい」
店主さんはすぐに仕事に取り掛かった。
それにしても。この店主さん、かなり趣味がいい。店内に流れているのは間違いなくレコード音源だ。そして、ジャズ。これは間違いなくビル・エヴァンスだ。ここでこういうチョイスができるあたり、この人は筋金入りだろう。
「はい、取り敢えずギネスとチーズを出しておくよ」
店主さんが席についた私たちにビールとチーズを差し出した。本当にギネスだ……
「じゃあ、取り敢えず乾杯」
「お疲れ様でした」
小さくピルスナーを合わせ、一口含む。初めて飲んだな、ギネス。
「ハイネケンもあるよ」
「ここ、どうなってるんですか」
「さぁ?」
まぁ、松戸さんに聞いてみてもどうしようもないのはわかってる。
「じゃあ、面白くもないけど本題に移ろうか」
ああ、話をしに来たんだった。誰もビールを飲むためだけに来たわけじゃないってね。
「田上、どうにかならないの?」
「無理です。性根の問題です。私も珍名であるというだけで嘗められてます。で、それが白戸にも影響してます。今日の態度を見ていればわかると思います。むしろ、これからどうなるかがわからない分怖いです」
一息に言い切って、さらにビールをあおった。
「うん。これからどうなるかわからないからこうやって話をしようと思ったんだよ」
「でしょうね」
松戸さんは私よりも前から営業にいる。ということは桑畑さんが仕事をしていたころどころか、結婚したときすら知っているはずだ。だからこそ、この2年間、桑畑課長に粉をかける田上が本当に気に入らなかったはずだ。
「桑畑にはさ、何も気にせずに仕事をしてほしいんだ。これ、営業課の中堅以上の総意なんだけど」
「どうしてですか?」
こういう言い方をされると、桑畑さんに何か問題があるように感じてしまう。
「彼女はね、昔は本当に自分に自信がなくて、友達もいなくて、生きている意味って言うのかな、そういうのが本当に希薄だったよ。
趣味は読書とコーヒー。ここも、彼女の結婚後だけど彼女が見つけた場所だよ。でね、桑畑課長と交際を始めるまでもいろいろあった。いろいろで片付くといいんだけど、本当にいろいろあった。友達ができたと思ったら、今度は怪我して入院するし。
何もない、そう思っていた人が少しずつ変わっていくんだ。僕らはそれをずっと見守ってきた。そしたら妊娠したって言うんだ。本当にみんなで祝福したよ」
凄い、と思った。こんなにも職場の人から愛される人だったとは思っていなかった。だからこそ、私は不安になる。
私は、本当に必要なんですか。
声に出したくもあり、出したくなくもあり。
「僕らは彼女を傷つけるもので、悪意あるものはなくしたい。別にそれは彼女だけじゃない。それ以外でもだ。働きにくい環境なんて誰が望んだって言うんだ。どうせ働くっていうんなら楽しいほうがいい」
「…… あの」
思い切って訊こう。そう思って声を発したときだった。
「はい、少し休憩してね。ピザ置いておくよ」
店主さんがピザを持ってきていた。
「松戸さん。少し、彼女の声に耳を傾けてあげなさい」
とてもやさしい声だった。だからこそ、遮られてよかったと思えた。
改めて決意を固める。でも、不安は見せない。その時間をもらえたから。
「松戸さん。私は、本当に必要ですか」
後書
さて、やれるかどうか不安だったんですが、あえてPioggiaの続編として書いてみようと思います。前回がタイトルをすべてイタリア語にしてみようという試みだったんですが、今回はジャズの曲名やアルバムタイトルでやってみようかな、と。
一応、主人公がジャズ好きという設定なので。
あと、主人公については明らかに説明が必要なので以下に載せておきます。一応は本編中で開示していく内容ばかりなんですが。
春夏秋冬 風(ひととせ ふう)
25歳。入社3年目。産休に入った樹の業務を引き継ぐ形で入社。珍名だけが先行し、異性と交際関係になったことはない。一度、そのような雰囲気になったことがあるがいろいろあり、本人がノーカウントとしている。
と、すごい軽い説明で、本当にさわりだけです。
ちなみに、今回の名前を決めるにあたって珍名さんを調べてみましたところこのひととせさんは本当にいるそうです。ガセという情報もありましたが。というか、本当にいるからこそ使わせていただきました。ええ、剛力さんとか日本で6世帯しかいないそうですよ。昔通っていた学校の先輩には
ちなみに、今回のタイトルはハーヴィー・ハンコックのMAIDEN VOYAGEの収録曲です。章のタイトルとサブタイトルの両方です。あと、ビル・エヴァンスは私が好きなジャズプレイヤーです。というか、ジャズ好きで彼を知らない、または評価しないという人はまずいないそうです。
最近はセロニアス・モンク推しです。
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