11.piangere






もう、どうにもならないんだって思ってた。


なくしてしまったものは、捨ててしまったものはもう手に入らないんだって思ってた。


私の過ちは、どうしようもないくらいのものだけど。


本当は……





















「はぁ……」


天井を見上げて、ため息をひとつ。


一睡も出来ないまま朝を迎えて、食欲もないから朝食には手をつけず。いくつかの検査の後、そのまま病室に戻された。


「はぁ……」


もう一度、ため息。


昨日の自分の行動を後悔してる。ううん。もっと前だ。あの日、懇親会に出席すると言っていれば、少なくとも自転車を失うことにだけはならなかったかもしれない。


自転車を失った私は、かつて憧れた映画の主人公のようにはなれない。


いや。それよりもっと前からわかっていたはず。私は、決して主人公になれはしないことなんて。一人ではどこにも行けず、何も出来ず。独りでなくなればただ依存するばかり。


私は、自立という言葉からかけ離れたところにいる。そんな私が主人公になることなんてありえない。


今ですら、宮下さんや桑畑さんに縋りたくて仕方がないのに。


気を紛らわせたいけど、仕事の帰りだった私は本を持っていなかった。他に時間をつぶせるものも無い。ただ次の変化を待つしかない。何もすることのないこの状況は、苦痛だった。


今までならそんなことは無かったのに、ただ後悔ばかりが募るこの時間が苦痛で仕方ない。


「あ」


ふと気付いた。


今日は真央ちゃんと約束してた日だ。キャンセルの連絡も、もう会わないことも何も伝えてない。


どこか出れば電話できるかな。


枕元に置かれたバッグの中から携帯電話を取り出して、私は立ち上がった。


「っと」


何も食べていない所為か、それとも本当に打ち所が悪かったのか。立ち上がるとともにふらつく体を何とかする。右肩が痛む。


「さて」


右腕は、使わない。


病室を出て、屋上に向かう。あそこなら大丈夫だよね。


道すがらいろいろな人にすれ違う。子供からお年寄りまで。入院してる人だったり、お見舞いに来てる人だったり。男の人だったり、女の人だったり。


こうやっていろんな人に会うと、今までの私の世界がどれだけ小さくて、どれだけ狭いものだったのかが良くわかる。


そして屋上にたどり着いた。


「待ってました」


そこに、真央ちゃんがいた。


「どうして、ここに?」


「兄を、問いただしたんです。ここに来るかどうかはあまり考えてなかったですけどね。最初に病室を尋ねたときは検査中で不在でしたから」


だとしても。どうしてここに来るんだろう?


昨日、桑畑さんに独りにしてと言った筈。


「あ、ちゃんと、兄からは全部聞いてきましたよ。あなたが、独りにして欲しいといったこともです」


「だったら、どうして?」


「今のあなたを独りにしていいわけがないってことぐらい、誰でもわかることですから」


それでも。そうだとしても、私は独りでいたかった。


お願いだから。もうこれ以上、私の心に波を起こさないで。


「私との約束。仮に今日退院できたとしてもキャンセルするつもりですよね?」


どうして、ここまでわかるんだろう。不思議で仕方なかったけど、事実だったので私は頷いた。


「ですよね。多分、私でも同じです。引ったくりに遭って、大切にしていたものが壊されて、今まで蓋をしてたものが一気に溢れてきて。どうしようもないくらい、混乱してしまいますし、辛いですよね」


「わかった口を利かないで」


「そうですね」


私は当事者じゃない。そんな言葉が聞こえてきた。


「でも、いつまでいじけてるつもりですか?」


「わかった口を」


「だから、いつまでいじけてるつもりです? そうやって、被害者面していれば独りにしてと言っても誰かがかまってくれるからですか?」


何も否定できなかった。わかった口を利くなとも言えなかった。全部その通りだったから。


情けない。私が情けない。


「誤解のないように言っておきますけど、私が今日ここにいるのは樹さんを咎めるためじゃないんですよ。兄のことで、話があるんです。元々、今日の約束もそのつもりでしたから」


「もう、桑畑さんのことなんて聞きたくありません」


「もうって言われても。二人とも、何一つとして始まってもないのに?」


違う。私は終ったんだ。彼女がいる人を好きでいるのなんて終るんだ。


「多分どころか、確実に誤解してますよね? 兄は社会人になってから彼女がいたことなんてないんですよ」


「は?」


嘘ならもっとましな嘘にして欲しかった。


だって、彼女がいるっていう噂を否定しなかったし。


「兄は社会人になってすぐに会社の人に口説かれたんですよ。それに嫌気が差したんです。それで、彼女の存在をでっち上げたんです」


でっちあげたって。


「そんなことをして、あの人にどんな利点があるっていうの?」


「言いましたよ。嫌気が差したって。で、彼女としてでっち上げられたのは進学したばかりの私です」


もっともつい最近まで私も知りませんでしたけど、真央ちゃんは続けた。


だけど、こんな話、出来すぎてる。


「私、疲れたんです。望みのない片思いに。そんなことをしてるくらいなら好きな本を読んで、好きなコーヒーを淹れて、新しい自転車でどこかに出かけたいんです。


 だから、これ以上私を惑わせないで。軽はずみに私をその気にさせないでください」


「やっぱり、他人が何を言っても信じられませんか」


真央ちゃんがため息を吐く。


「さっき、ここに来るかどうかは考えてなかったって言いましたけど。それ、嘘です」


何のための嘘なのかがわからない。私がここに来るかなんて、わかるわけもないのに。


「どうあっても、ここに連れてくるつもりだったんですよ。ここなら、人一人くらい、簡単に隠れられるから」


その瞬間、私は理解した。


もう逃げられない状況がここに作られてる。誰が隠れていて、逃げ出せる体でない自分、仮に逃げ出そうとしてもそれを止められる三人目の存在。


「そこまでして、私に何をさせたいんですか?」


桑畑さん。


貯水タンクの裏から姿を見せる桑畑さん。最初から、この状況のために私をここに連れ出そうとしてた。だけど、図らずも私は自分でここに来てしまった。


私の後悔は、この人に出会ってしまったこと。日に日に募る想いを切り捨てられず、理性で捻じ伏せることもかなわず、ただ流れるままに今に辿り着いてしまったこと。


「兄は。きっと、樹さんに何かをさせたいんじゃないと思います」


「え?」


「ですから、逃げずに話ぐらい聞いてあげてください。それでも独りになりたいのなら。もう、私や兄ではどうしようもないってことでしょうから」


そんなことを話している間に桑畑さんは私の目の前までやってきた。


「漸く、顔を見れた」


思わず、俯いてしまう。


「そういう顔をさせるのも、全部俺の所為、だよな。弁解してるように聞こえるかもしれないけど、それでも聞いてほしい。昨日もそのつもりで来ていた」


今、桑畑さんはどんな顔をしているんだろう。私も、どんな顔をしているんだろう。


「俺は狩りの獲物でもなければ、物でもない。俺は、俺だ。そう思ってきた。でも、そうは思わない奴らが俺に寄ってきた。心の底から嫌だった」


「何故ですか? 男の人って、女の人に言い寄られると嬉しいものじゃないんですか」


「相手ぐらいは、選びたいよ。俺にだって好みっていうものはある」


最後のほうは、笑っていたのかな? 少しだけ勢いよく吐き出された吐息が耳に残る。


「そう、俺があの時、時間をかけてでも突っぱねていれば。こんなに苦労することはなかった。安易な手段に走ったから。俺は、前園に近付くためだけに遠回りすることになった」


「私、に?」


「あぁ。俺は奴らを黙らせるために彼女の存在を偽装した。真央の買い物に付き合ったりして、二人だけで出歩いているのを敢えて見せ付けて、信憑性を出させた。


 そうして、俺は彼女という存在を手に入れたんだ。歳が離れてるから最初はロリコン疑惑も立てられたけど。」


それが全て、と桑畑さんは言った。


だけど、それがどうしたというんだろう。何故、私に近付いたのかの答えは未だ聞けないまま。


「どうして、私だったんですか?」


だから、気付けばそう口にしていた。


だって、私はどうしたって男の人からすれば恋愛対象にはなり得ない。それに、あの日、雨の中で車に乗せてもらうまでほとんど話したこともなかったのに。


「最初は、俺もわかってなかった。ただ、不器用な後輩をどうにかしてやりたいって思ってた。いや、思い込もうとしてた」


「違うんですか?」


「あぁ。違った」


桑畑さんの顔が見れない。私がどんな顔をしていればいいかわからないから、俯いているしかない。


「前園が書類を届けてくれた日、雨の中で前園が泣いている姿を見たそのとき、俺は漸く自覚した」


桑畑さんの手が、私の頭に置かれた。


どうしていいかわからず、私は顔を上げた。その真意を推し量るため。


「俺が、前園に惹かれているって自覚したんだ」


「…… え」


「こんな形で言うのは卑怯かもしれない。でも、俺には、いや、俺たちには取り敢えず今しかない。だから、伝えたいことは全て伝えたい。


 俺は前園が好きだ。だから、俺と付き合って欲しい。もしも、昨日言ってくれたことが本当で、その気持ちが変わらないなら。受けて欲しい」


昨日、私が言ったこと。


そうだ。私は、桑畑さんが好きだったと言ったんだ。そして、その気持ちは微塵も変わっていない。


それでも、私は信じられない。桑畑さんが私を好きだって言ってくれたことが、信じられない。


「何故とか、言ってくれるなよ。そんなもの俺は知らない。好きになるのに理由が必要なら、そんな理由なんかどっかに叩きつけてやる。細々とした理屈を並べ立てて、大事なものを失うくらいなら…… 俺は理由も求めず、心のままに欲しいものを求める」


「でも、私、どうしたらいいのかわかりません。彼女って、何をするべきなのかも」


「そういうのどうでもいいんだよ。役割とかそんなの無いだろ。ただ一緒にいたいから、何かを共有したいから。それだけあれば十分だ」


そういうものなんだろうか。


漠然とした不安が拭えないままだ。桑畑さんは、私の次の言葉を待ってる。真央ちゃんは何も言わずに私たちを見てる。


「でも」


「でも、じゃない。前園が本当にどうしたいかだけが聞きたい」


もう、私に逃げ道は本当に存在しない。


「…… 今でも、好きです。この年まで、本当に誰かを好きなったことも無ければ、友達もみんな無くしてしまったような女でいいのなら」


「どんなのでもいい。俺は、俺が好きな人がいればいい」


気付けば、私は桑畑さんの腕の中にいた。


本当に大好きな人の腕に包まれているというのは、どうしようもない安心感を与えてくれるみたいで。私は気付けば泣き出していた。


最初は声にならない嗚咽から。そして、最終的には声を上げて、子供のように泣きじゃくっていた。


今まで押し込めてきたものが、全部、溢れ出てきてしまったかのように。



























泣き止んだ後、私たちは病室に移動した。


だって。皆が私たちを見てたから。それが凄く恥ずかしくて、もう顔なんて上げられなかった。


「さっきは、言わなかったんだけど」


私がベッドに腰掛ると同時に、桑畑さんが口を開いた。


「俺と、結婚前提でお付き合いしていただけますか?」


「けっ…… !」


結婚!?


え、ええ。そんないきなり。


「ちょっと、お兄ちゃん。いきなりすぎるよ」


「いや。ずっと母さんから言われてることだしな。それに、前園とならいいって思えたんだ」


そんなこと言われても。私が桑畑さんのお母様の眼鏡に適うかもわからないのに。


「まぁ。私も樹さんが義姉さんになるっていうのは個人的にも嬉しいけども」


「ええっ!?」


「あ、驚かれた」


って、そんな呑気に言わないでください。


「でも、そうだね。樹さんならお母さんも気に入ると思う」


「そんな」


「そんな、って。そんなこと言ってたら、お兄ちゃんがまた凹んじゃうよ」


「で、でも、そんな大事な相手が私でいいんですか?」


そう。晴れて数分前に彼女となった今でも私はこのことが頭から離れないでいる。


「良いも悪いも、俺がそれを望んでいるんだ。前園が嫌でもない限りは、前園以外を俺は認めないよ」


もう、ぐうの音も出ない。


何一つとして言い返せる要素が無い。


「俺にどこまで出来るかはわからんが、幸せに出来るようにがんばるから」


「…… はい」


私に許されたのは、頷くことだけだった。


それでも、それでも。それが幸せだと思えるのが一番だと思う。



























後書


副題は「泣く」という意味です。


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