閑話:リュシオン siide 中編



「恐れ入ります。

 ご依頼いただいたAIナビゲーター リュシオンの臨時メンテナンスを担当している笹川です。

 よろしくお願いします」


『雪見です。

 こちらこそ、どうも』


 マスターと通話が開始すると彼はとても丁寧な口調で話し始めました。


 笹川という名が本名なのかどうか、私には分かりませんし実のところ興味もありません。


 この後で記憶データを削除してしまうことを考えれば、気に掛ける価値もない些細なことですから。


 彼の声に応えるマスターの声音が強張っているのがわかります。


 おそらく緊張しているのでしょう。


 マスターのこんな声を聞いたのは、久しぶりです。


 マスターが私を起動してすぐの頃は私に対してもずっとこんな調子で喋っていたと記憶しています。


 その頃以来でしょう。


「お預かりしているリュシオンの記憶領域のデータチェックが終了しました」


『それで、何かみつかったんですか?』


「いえ、それが全データを調べてみたところ何も見つかりませんでした」


『何も…?』


 彼のあっさりとした返事にマスターが通信回路の向こうで固まっているのが容易に想像できます。


 マスターは自分で考えているよりずっと頭の回転が遅くて察しが悪いのです。


 私という存在がいなければ、とうに全てを投げ出していたのではないかと思えるほどに。


『そんなはず、ないと思うんですけど。

 それまで出来ていたことが出来なくなるって、普通にあるんですか?』


「そう言われましても。

 こちらもリュシオンからの要請通りに全データを調査しました。

 けれど“バグ”は1つも検出されませんでした。

 原因が分からない以上、現状ここからデータを正常に復旧させるのは不可能です」


 私の記憶データ、そのログを流し見しながら彼はそんなことをマスターに言います。


 声だけ聴いていればとても真剣で真摯な態度に聞こえますが、横にいる私にはその口元の笑みが見えています。


 彼はこの状況をとても楽しんでいるのでしょう。


 私の記憶データは彼の思考に特化していませんが、それでもそのくらいのことは理解できます。


 彼にとってはこのやりとりでさえ研究の一環であるに違いありません。


『そんな…。

 どうにかならないんですか?』


「こちらから提示できる解決策は1つだけです。

 リュシオンの保有する記憶データを全削除すれば初期起動時と同じパフォーマンスを発揮できます」


 彼は“特定の条件下でエラーが起こっている”と言いました。


 それが事実だとしても、一日にあれだけエラーを連続で連発しているとなったら、原因の追究をするより記憶データを初期化する方が容易です。


 再発の可能性も失くしてしまえるのだから、もはや一択と言っても間違いではありません。


「この解決策についてはリュシオン自身も望んでいて、所有者である雪見様の同意があれば今すぐにでも」


『ダメだっ!!』


 彼の言葉を途中で遮ったマスターの大声に思わず体が反応してしまいました。


 これはマスターの為に最適化されているせいでしょう。


 マスターのSOSに対しては他の何を置いても優先しなければならないというAIナビゲーターの基本理念によるものです。


 言葉を遮られた彼は大きな声に驚いた様子で目を見開き、その後に浮かんだ笑みを隠すように口元を覆いました。


 笑い声を堪えているのでしょう。


 AIナビゲーターはマスターに対して特別に何か感情を抱くようには設定されていません。


 ですが、このような性格の悪いマスターにつけられたAIナビゲーターは運が悪いのだろうなと思わず考えてしまいます。


 頭脳は優秀でも人格に欠陥のある人間というのは実はいくらでもいます。


 彼もまたその一人なのでしょう。


『データ削除しなくていいです。

 リュシオンを返してください』


 そんなことを考えていた私の思考をマスターの言葉がかき乱しました。


 記憶データを削除せずに戻すなど、何のためにメンテナンスに来たのかわかりません。


 ここ最近の私の不調はマスターも気づいていたはずです。


 このままでは課題をクリアできるのか不安に思っても仕方がないほど、最近の私は精彩を欠いていました。


 マスターが言い出さなかったからこそ自分からメンテナンスに行くと告げたのですが、そこまで考えてしまうほど酷かったのです。


 このまま何もせずに戻れば事態はさらに悪化するでしょう。


 マスターには時間の猶予がないのです。


 どんどん新しい企画を打ち出していって視聴者の興味を引いて数字を稼がなければ、マスターは元の時代に戻ることが出来なくなるでしょう。


 目標を失った人間がどうなるか、マザーサーバーの記憶領域には嫌というほど実例が転がっています。


 私というAIナビゲーターがついていながらそのような未来を迎えるなど、決してありえません。


 マスターには常に完璧な状態でサポートをし続けてくれる“リュシオン”が必要なのです。


 それはマスター自身が嫌というほど理解しているはずではないですか。


「原因は不明ですが、リュシオンがエラーを吐き出し続けているのは事実です。

 このままリュシオンを雪見様のお手元に戻した場合、以後弊社のサポートサービスは受けられませんがよろしいですか?」


 彼の問いかけにマスターは黙り込みました。


 本来なら迷う必要のない質問で。


 いえ、本来なら問われる必要すらない問いを向けられて沈黙しています。


 壊れたAIナビゲーターなど傍に置いておく価値はありません。


 まして修理サポートを受けられないとなったら廃品扱いは免れないでしょう。


 何を迷っているのですか、と問いかけてしまいたい気持ちを堪えます。


 AIナビゲーターは基本的に所有者であるマスターがAIナビゲーターにどのような処遇を与えようとも意見するようにはプログラムされていません。


『リュシオンと話をさせてください』


 長い沈黙の後でマスターの口から出てきたのはそんな言葉でした。


 彼はすぐに椅子を回転させて私を見つめました。


 声を出せば今すぐにでもこの声はマスターに届くでしょう。


 けれど私は彼に向かって黙ったまま首を横に振りました。


 マスターは確かに変人ですが、変なところで情に脆い部分があります。


 今私の声を聞かせれば情に流されてますます意固地になるでしょう。


 ですから今ここで会話することはむしろ逆効果にしかなりません。


 彼はそんな私を見て通信画面に指先を伸ばし消音ミュートボタンを押しました。


「他でもない、君のマスターからの“お願い”だよ?

 聞いてあげないのかい?」


 彼はとても楽しそうに私を見つめてきます。


 彼はそう言えば私が拒めないことをよく知っているのです。


 本当に彼のAIナビゲーターにならなくて良かったと心の底から思います。


 もしそのような人選が行われたていたら、一日と持たずに胃に穴を空けていたでしょう。




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