第3話

 翌日もバイトのシフトが入っていた。

 上司は大事を取って休んでもいいと言ってくれたけど、普段通り出勤する。

 社会福祉法人祥恵会・児童養護施設『ヤドリギの家』。

 同法人の老人ホームだったという四階建ての建物に、何らかの事情で親元での養育が難しくなった子供たちが乳幼児から高校生まで、現在七十四人暮らしている。

 出勤すると保育所帰りの美奈ちゃんを見つけ、昨日来られなかったことを謝る。昨日はピアノを教えてあげる約束をしていたのだ。

 美奈ちゃんは、「愛ちゃんが教えてくれたからいい」とちょっとすねた風。「愛ちゃん」は時々施設に来る、ボランティアの人だ。

 でも、私が怪我をしていたことを知ると、打った側頭部を小さな手で撫でてくれた。「ママも美奈が痛くしたらしてくれた」と。

 その後、私もどうにか教えさせてもらえたけど、「愛ちゃんの方が上手」と言われてしまった。


 後は衣服やリネン類の選択、備品のチェック、他の子と遊んだりもした。

 施設には謙吾くんという赤ちゃんがいる。謙吾くんの世話は特にお気入りの仕事の一つだ。だけど、今日はオムツを変えたりあやしたりするだけのことが少し怖かった。昨日見たもの、そしてこの後のことを考えてしまって。


 シフトの退勤時間よりやや早めにタイムカードを押すと、職員更衣室で暗い色のスーツに着替える。喪服の代わりだ。

 足立区梅田にある葬祭ホールでこの日の夜、中尾由香里さんのお通夜が営まれた。行けばもちろん思い出してしまうんだろうけど、でも一応、死の場面に居合わせたのだ。焼香だけでもと行ってみる。お通夜は神式で、焼香の代わりに玉串奉奠という儀式があるらしい。

 弔問客は百数十人、比較的若い女性が大多数だ。友人なんかでも普通ここまで多くはないと思う。

 由香里さんは「妊活」に熱心で、同じように子供を望む夫婦とSNSやオフ会などで積極的に交流していたらしい。そんな人が母子ともに凄惨な死を遂げるというのがセンセーショナルだったせいか、ネット上でもちょっとしたニュースになっていた。

 予想外の人の多さで椅子が足りなかったらしく、私の他に二十人近くが立ったまま通夜が始まる。式場のあちこちからすすり泣きが聞こえていた。

 最初に喪主挨拶ということで、由香里さんの夫・智也さんがスタンドマイクの前に出る。妻子をなくしてまだ一日、智也さんは見た目に憔悴しきっているとか、嗚咽をこらえながらとかいうことはなく、ごく淡々と挨拶をこなした。手元の紙を広げ、読み上げる。


「第一子を流産した悲しみから立ち直り新たに授かったこの子こそは無事に産もうと周囲の皆様に支えられながらがんばってきた矢先の出来事でした。あまりに突然で未だに受け止めきれずにいます。それでも由香里は優しい女性でしたので私共が悲しみを乗り越え今後の人生を力強く歩むことを望んでいると思います。どうか妻と二人の子供の冥福を共にお祈りくださいますようお願い申し上げます」


 その読み方には抑揚が全くない、音声ソフトみたいだった。

 すすり泣きがピタリとやむ。もっとわかりやすい悲しみの発露があれば、聞く側としてはいっそ楽だったと思う。痛々しいを通り越して怖いくらい。

 私の母も夫、父を亡くしている。当時どんな気持ちだったか、ちゃんと聞いたことはない。一人でわたしを産み、育てるのも大変な決断だったにちがいない。だけど子供まで亡くした智也さんは何を気持ちの寄る辺にすればいいんだろう。

 私が持っていた安産祈願のお守りは遺族に渡されたと聞いている。そんなの見たくなかった、傷を抉っただけにちがいない。祭壇をちらりと見れば遺影の由香里さんの屈託ない笑顔が目に入ってきて、私は思わず目を逸らしてしまう。棺の中の「本人」の顔なんてとても見る気になれない。赤ちゃんの棺は見当たらなかった。


 ひたすらいたたまれない空気で終わると思っていたこのお通夜だけど、思いがけない出来事が二つ起きた。一つは私にとって、もう一つは誰にとっても。

 私にとってというのは、知り合いに遭遇したことだ。遺族や弔問客じゃない。読経の代わりに祝詞みたいなものを読み上げる宮司さん――祭詞奏上というらしい――の隣に、簡素な袴姿の女性が控えていた。その人が私の知り合いだったのだ。

 母と同じくらいの長身、短髪や線の固い顔立ちもあって中性的な印象がある

 相川あいかわまなさん。

 時折『ヤドリギの家』のボランティアに訪れる女性で、もとは施設の入所者だという。ロクに話したこともなく、普段は何をしている人なのか知らなかったけど、私と同い年くらいで神職なのか。

 全部終わったら美奈ちゃんのことでお礼を言った方がいいかな、とぼんやり考えつつ玉串奉奠の順番を待っていると、二つ目の出来事が起きる。

 ガッ、と大きな音が突然響き、最前列に座っていた黒い着物の女性が椅子ごと床に倒れていた。

 夫らしき男性が抱き起こし呼びかけると反応は見せるけど、ほとんど呻きに近いような声ばかり発していて立つこともできない。

 脳梗塞じゃないか、と周囲がざわつく。その場に診断ができるような人はおらず、すぐに救急車が呼ばれた。十数分後、由香里さんの母・清美さんは担架に乗せられ、旦那さんが付き添って病院に搬送されていく。

 その様子を遠巻きに眺めながら、寒気を覚えながら、別におかしいことじゃないと私は自分に言い聞かせていた。娘の死なんてこれ以上ないストレスだろう。高齢なことを考えれば体に異常を来してもおかしくない。

 由香里さんと赤ちゃんの死も、満面の笑みの死に顔もあの夢も、通夜でお母さんが倒れたのも……普通の、普通の不幸、それらを頭の中で勝手に繋げようとする自分を戒める。

 担架に乗せられ運び出される間際、清美さんはあれこれ漏らしていた。「頭痛い」「苦しい」、他には言葉にならない呻きばかり。そんな中で、一際強い声で短い言葉を発した。


「じゃぼ」


 意味はわからない、そもそも言葉なのかも。だけどそばの旦那さんがそれを聞いて大きく身を震わせ、表情を引きつらせていた。

 何だったんだろう。清美さんの容態について通夜の終わり頃に連絡があったらしく、一命を取り留めたと伝えられた。それでとりあえずの安堵の空気が場に広がる中、私は薄ら寒い心地を拭えずにいた。

 この通夜を最後に表向きだけでも忘れて明日からは前向きに生きていこうと思っていたけど、よけいにべったりと貼り付いた感じがあった。


 帰る前にお手洗いへ行こうとして、その際廊下ですれ違った男女の会話を耳にする。前の方の席に座っていた、恐らくは親戚の二人。


「向こうのお母さん気の毒だったわね」

「由香里ちゃん一人娘でしょ。しかも孫までってさあ、ないよねホント」


 それを聞いて、また母と重ねてしまう。もしも私が死んだら、白血病で死んでいたら母は……、とその時。


「バカ親」


 呟く声がした。見ればすぐそばの、遺族が集まっているらしい部屋の前に相川さんが立っていた。私と同じで今のやり取りを聞いていたのだろうか。幸い、部屋は襖が閉じていたし周囲には聞こえていないようだけど。


「相川さん……」

「……丸屋恵那」


 向こうも私との遭遇にややおどろいている風だった。私は彼女の顔を見つめたまま小声で尋ねる。


「今の、誰に言ったの? …………その」

「倒れた母親」


 なんら悪びれた様子もなく答える。娘を亡くして悲しみのどん底にある人、ついさっき急病で倒れた人だ。清美さんと由香里さんの母娘関係がどうだったか知らないけど、今そんな非難を受ける謂れはないだろう。美奈ちゃんのことでの恩も一旦忘れていた。


「何でそんなこと言うの」


 彼女は、ひどく冷めた目で私のことを見ていたかと思うと微かに眉間に皺を寄せ、何か言おうと――。


「……っ」


 口を開きかけて、表情が変わる。私へ向ける目がかっと見開かれ、そしてやがて顔全体に強い嫌悪感を滲ませる。


「相川さん?」

「寄らないで、汚らわしい」


 吐き捨てるように言うと踵を返し、式場の方へ行ってしまう。汚らわしいなんて言われたのは生まれて初めてで、私は怒る暇もなく彼女を見送ることしかできなかった。


 北千住駅から歩いて十分強、ファミリーマンションの2LDKに、私は母と小学生の頃から暮らしている。通夜から帰ると母も少しだけ先に帰っていて、玄米ご飯と朝の残りの味噌汁にサラダ、さっと作った炒めものを二人で食べる。

 夕食の間、母は仕事先での笑い話だとか、職場の若い人の間の流行だとかについて口にする。他愛ない会話だったけど、それでよかった。私は進んでお通夜のことは話さなかったし、母も聞こうとはしない。ただ、その夜、私は枕を抱いて母の部屋を尋ねていた。

 一人で布団に入ったら嫌な想像をしてしまいそうだからというのもあるし、母に甘えたくなったというのもある。一緒に寝ようと言うと母はぷっと噴き出す。


「こんなマザコンに育っちゃって、彼氏に引かれないか心配」

「お母さんだって私が完全に親離れしたら嫌がるくせに」


 この日は前夜みたいに悪夢を見る不安はなかった。根拠は何もないけど、母が隣にいるだけで私は安心して眠ることができた。


 そこは木造の粗末な家の中。

 「私」の目の前に一人の女がいる。白髪をひっつめにした、中年で頬のこけた女。

 女は「私」に顔を近づけ、目に涙を溜め、ツバを飛ばしながら訴えてくる。


「ハナ。庄屋様の嫁になれ」


 目を覚ますとベッドの中で、隣では母が寝息を立てている。

 普通だ。何事もない、平穏な。これが現実。大きく息を吸って吐く。夢、夢だ……安堵すると同時に、さらなる不安に襲われた。

 二日前の夢の続き、そう思った。夢の中の「私」は「ハナ」と呼ばれているらしい。そして、根拠はないけど多分あの中年女は「ハナ」の――

 一人考えていると隣で母が目を覚まして、夢の女性とは全く似ていないのに、何故だか私はしばらく母の顔を見られなかった。

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