第2話

 本来は、私はずっと子供が欲しかったはずだ。


「子作りってのは人類社会、というか生物の根幹だからね。自分たちの共同体に新たな生命を生み出す……「死」と並んで、一番身近な神秘なわけです。なので日本でもそれこそ縄文時代から子宝や子の安全を神や精霊に祈願する、呪術的な風習が続いてきました」

 古畑教授はそう語ると手元のノートパソコンを操作する。スクリーンには講義の資料だろう画像がいくつか映し出された。

 四月下旬の水曜日、私は午前中を大学で過ごしていた。二限の教養科目『日本の民間信仰』。その名の通り、毎回テーマ別に国内の民間信仰を取り上げる民俗学系の内容で、今回のテーマはずばり「出産」。

 スクリーンに映る画像は、そういった信仰の対象になった物たちだ。女性的なフォルムの土偶、やや恐ろしげな鬼子母神像、対して優しい表情の慈母観音など。女性器男性器の像なんて直接的過ぎる物もあったけど、やっぱりというか「母」を思わせる物が多い。

 それをじっと眺めて、何だか背筋が伸びるのを感じた。

 私の専攻は幼児教育で、この講義は教養の残り単位を埋めるのに手頃だから取っただけ、宗教や民俗学に特別な興味はない。だけど今回のテーマは別だ。

 私は子供を持つことに憧れていた。小学校の頃、作文に「将来の夢はお母さん」と書いたくらいに。

 白血病治療の説明にあたって、抗がん剤投与や放射線治療の副作用で自然妊娠は難しい体になる、卵子の凍結保存も今回のケースでは危険が伴う、だから将来子供を産むことは諦めたほうがいいと言われ、死んじゃいたいと泣き喚いたくらいに。 

「子宝の神様を祀った神社やお寺がたくさんある他に、庶民に馴染みのあるものを挙げると『胞衣えな信仰』ってのがあってね。胞衣はへその緒や羊膜、胎盤なんかのことで、つまり胎内で赤ちゃんを守ってくれる器官は、赤ちゃんと一緒に排出された後も不思議な力が宿ると考えたわけ。へその緒を取っておく、ってあるでしょう、あれも胞衣信仰の一例です。他にも代わりにするとか、土に埋めるだとか、食べちゃうなんて地域もあるんですよ」

 母にもらったへその緒のお守りを、私は入院中、退院後もしばらくは肌身離さず持っていた。

 副作用でやはり排卵機能を失っても、寛解後も数年は再発や合併症に怯えることになっても、お守りが、それ以上に母がそばにいてくれたから生きてこられた。

 私の下の名前は恵那えなという。この名前も胞衣が由来――正確には、母の地元にある天照大御神の胞衣をまつった恵那神社から取ったのだとか――だそうだ。

 手元のレジュメには資料として、都内に数多くある子宝祈願の神社やお寺、そこに参拝する人の写真も掲載されている。

 手術を終えて退院した日、母とお参りした。入院先の国立がんセンター近くにあった、子宝祈願で有名な水天宮。

『また赤ちゃんを産める体になりますように』――未だに叶っていないし、さすがに当時ほど絶対に子供が欲しいとは思わないけど、この先、好きな男性と巡り合えて、その人も子供を望んでいたら、とは今でも思う。

 日本の出生率は低下の一途を辿っている。先細りの経済だとか子育て支援の不備とか、子供を持つことに積極的になりづらい社会なのも大きいだろう。誰もが子育てに向くわけじゃないのも、不幸な事例が多々あるのも知っているつもりだ。

 だとしても、私はお母さんみたいになりたいから。それで私はまたあの時のように、冗談半分に、いつか私に子どもを授けてくださいと、レジュメに祈りを捧げる――それくらいにこの時までの私は、子供を持つことを願ってやまなかった。


 変わってしまうきっかけは、この日の午後。

 学食でお昼を済ませると大学最寄りの御茶ノ水駅から電車でアルバイトに行く。西新井にある児童養護施設。去年実習でお世話になったのをきっかけに非常勤指導員として働かせてもらっていた。

 北千住で乗り換える際、同じ電車に乗り込む女性に私の視線は吸い寄せられる。

 見た目は三十代半ばくらい、アップにした髪型でデニム地のワンピース、そして臨月も近いだろう大きなお腹。優先席に腰掛けた彼女は私や他の乗客としばらく電車に揺られ、次に私が注視したのは西新井の二駅前、五反野で彼女が降りようとした時だった。

 さっきの講義や、母とのことを思い出し、無事に赤ちゃんが生まれますように、ひょっとしたら数ヶ月後には赤ちゃんを連れた彼女とまた乗り合わせるかも……なんて考えながら見送ろうとした。

 彼女の肩から下ったバッグが乗降口にぶつかって斜めに傾き、口からなにか小さな物が零れるのが見えた。他のお客さんも、彼女自身も気づかないまま降りていく。

 床に転がるそれを拾おうとして一瞬迷う。間もなくドアが閉まる。後を追ったら電車は行ってしまうな、と。でも、追うことを選んだ。薄緑色の、「安産祈願」と印字されたお守り袋だったことが背中を押した。

 入院中、へその緒のお守りを失くしたと思って大泣きしたことがある。結局布団とベッドの間に挟まっていて見つかった時は赤面したけど、ただでさえナイーブになる妊婦さんにあんな不安を味わわせたくない。

 背後でドアが閉まり、電車が走り出す。十年以上使っている路線でも、五反野で降りるのは初めてだった。数秒前に降りているはずの彼女はホームに見当たらない。すぐ近くの、改札階へ降りる階段を覗くと……いた。

 ちょうど中段あたりを、お腹が重いのかゆっくりと降りている。


「あの、すいません」


 上から呼びかける。私の声に反応したのか、足を止めてくれたので続けて尋ねた。


「お守り! 電車に落とされま――」


 びしゃしゃしゃしゃしゃっ


「えっ」


 血。

 大量に、滝みたいな勢いでワンピースの裾から噴き出していた。裾も黒く染まり、足下に血溜まりができて、下の段まで流れ落ちてゆく。

 あまりのことに反応が遅れる。多分、二、三秒固まったままだった。


「……へ、あっ、だ、大」


 大丈夫ですか、と聞きかけた。大丈夫なはずない。それにこの人は赤ちゃんを――。

 あわてて階段を駆け下りる。それとほとんど同時、女性の体は小刻みに震えながら前に倒れ、階段を転げ落ちていく。その際、翻った裾から、今度は血に濡れた赤黒い塊が零れるのが見えた。


「……い゛ゅっ」


 ごじゃっ、と嫌な音がして、同時に自分の喉の奥からも変な声が漏れる。彼女は一番下の段に頭を打ち付け、仰向けで倒れていた。ぴくりとも動かない。

 ポケットのスマホにやりかけた手は半端なところで止まったまま、私はギクシャクした動きでさっき女性が立っていたあたりまで降りる。視線は階段下にいる彼女の頭部から上半身、脇に転がるバッグ、下半身――裾から覗く赤黒い塊へ移る。

 見ちゃいけない。そんな気がした。心臓の鼓動は激しさを増し、ぞわぞわと背中で産毛の逆立つ感覚があった。それでも私は、見てしまっていた。

 血に塗れた、裸の赤ちゃんだった。

 身動きもせず声一つ発さず、そして。

 笑っていた。

 満面の笑みが私を見上げていた。


「ひっ! ……あっ」


 その笑顔を目にした途端、反射的に後ずさり、ぬめった血に足を滑らせてしまう。ヒールだったのもあって大きくバランスを崩し、今度は私が前のめりに宙へ投げ出された。

 階段に頭を強く打ち付け、さらに転げ落ちる。痛みと共に意識は遠ざかり、そんな時なのになぜか、最後まで赤ちゃんの笑顔から目を離すまいとしていた。

 そして私は、奇妙な夢を見た。


 まずは、大量の赤ちゃん。何十、何百という数が集まって泣き喚いている。

 激しく泣いているのに、皆一様に生気がない。でも、それぞれの赤ちゃんに個性があった。

 顔に大きな傷のある子もいれば、息が詰まった風に泣くことができずにいる子、肌の焼け爛れた子、首に紐の巻き付いている子、頭部が歪に変形した子。

 痛そうだ、苦しそうだ、

 その子たちがかわいそうで、助けてあげたくて、でもわかっている。これはどうにもできない。

 そして、泣き声にもかき消されることなくどこからか聞こえてくる声。女性の声で、どうも歌っているらしい、民謡みたいな歌い方だった。


ててーーはぁーーはいいーーかにーぞたぁーーねまぁーーーーくやぁーーーー


 突然、さっきまでと全く別な光景が広がった。

 田畑や野山、ぽつぽつと見える、茅葺屋根の家、地面は土が剥き出し、そんな景色の中、すぐ眼前に三人の人影。

「化け物」「来るな」「呪われる」

 三人は七、八歳くらいの男の子だった。裸足にひどく粗末な着物、前髪と頭頂部だけ髪を生やし結んでいる。同じような格好の彼らは同じように私を睨みつけ、罵った。強い嫌悪、それに恐れのこもった視線。知っている。「私」はいつもこんな目で見られている。

 景色は切り替わっても、歌はBGMみたいに切れ目なく流れ続けている。


いいーーづれーーはかーーるみでーーたぁーーねをーーまくーーー


 今度は、冬。寒い。空気が肌を刺すようだ。曇り空からは雪が降っていて、遠くに見える山の木々も雪化粧している。けれど「私」が視線を向けていたのはその山のさらにずっと遠方に臨む高い山。山頂から勢いよく黒煙を噴き上げる。


いいーーづれーーはかーーるこーーのをーーたぁーーねをーーまくーーー


 どこか屋内。足の裏にはざらざらした、でも濡れた感触。鉄っぽい臭いと生臭さ。蝋燭の火でぼんやり照らされた暗がり、足下に髷を結った男性が倒れていた。開けた着物から覗く上半身は血まみれらしく、そして短刀を握った「私」の右手も生暖かく濡れている。わかっている、「私」が殺したのだ。

 人を殺したという現実に、満足感だけがあった。そんな心地のまま、私は畳の上に腰を下ろすと大きく股を開く。「私」は全裸だった。

 胸は私より大きいし髪は腰まで届くほど長い、明らかに自分とちがう「私」の体。

 男を殺すのに使った短刀を両手で握る。毛の薄い陰部、膣に切っ先をあてがい、そして微塵の躊躇もなく突き入れた。肉が裂けて血が噴き出す、激痛。なのに全く嫌じゃない。いい。これでいいのだ。「私」は短刀を持つ手を緩めず、どころかさらに力を込めて、突き刺した刀を垂直に立てる。陰部を骨ごと真っ二つにしても、手は止まらず縦に自分の体を切り裂いていった。

 胸元まで刃が達すると、ようやく私は手を止めて、笑った。気持ちいい。本当に気持ちいい。絶頂の中、間もなく息絶えるはずの私は大きく息を吸うと――


「えっちゃん! よかったぁ」

「……もう、外では『恵那』」


 警察署のロビー、待っていた母は私を見つけるや否や人目もはばからず駆け寄り、私を抱きしめた。男性並みの体格の母に力いっぱいハグされるのは割と痛いし、付き添ってくれた刑事さんが脇で笑っていて顔が熱くなる。

 病院に運ばれ、意識を取り戻したのが三時間ほど前。検査が済み、施設に無断欠勤の理由の説明と謝罪の電話を入れ、その後はついさっきまで、警察署で事情聴取を受けていたところだ。

 頭を打ったと聞いて心配していた母に、CTスキャンの結果脳に異状も、その他打撲の類も一切なし、という診断書を見せると安心して私の頭を撫でようとする。やはり恥ずかしいのだけど、たしかに喜んでいる自分がいる。

 父は私がお腹にいた頃に仕事中の事故で亡くなり、母は一人で私を育ててくれた。忙しいのにいつも私を優先してくれた母に、私は敵わない。子供を持ちたいと思った理由の多くが、多分母の影響だろう。お母さんみたいなお母さんに、私はなりたかった。

 ただ今は、こうやって母に甘えるのもどこか不謹慎に思える。

 中尾由香里、という名前らしい妊婦さんと赤ちゃんは駅員さんの発見時点――倒れて一分も経っていないらしい――で死亡していた。

 私は同じ電車に乗り合わせ、落としたお守りを届けようと後を追い、倒れる瞬間を目撃した、しか言うことはなかったし、実際下車してからの一部始終は駅の防犯カメラにもほぼ映っていたとのことで、事情聴取はすぐに終わった。


 私と母は駅まで警察の車で送ってもらえることになった。車を出す直前、運転手さんが協力へのお礼を言ったけど、私は何の役にも立っていないし、遭遇した出来事は重すぎた。

『生きていればいいことは絶対あるのよ。死んだら損』――子供を持てなくなると言われた私を、母は慰めてくれた。妊娠機能が戻る可能性はゼロじゃないし、子供のいない人だって幸せになれる。お母さんがついてるから。

 由香里さんは死んでしまったし、赤ちゃんに至っては生まれることさえできなかった。

「無限の可能性」があるはずだったのに。

 午前にあの講義を受けて、「安産祈願」のお守りを届けようとした結果がアレ――何て皮肉だろう。あのお守りは遺族に届けられたそうだけど、そんなの見たくなかったにちがいない。

 ただ。


「えっちゃん?」


 その赤ちゃんの、満面の笑みの死に顔を思い出すと、寒いわけでもないのに体が震えた。

 赤ちゃんが笑うことを覚えるのは生後二か月ほど経ってからのはずだ。それもあの子は苦しんで死んだだろうに。

 そして、気絶している間に見た夢。あれも一体。

 夢は脳が記憶を整理するために見るというけど、私が見たものはどれも古い時代の光景だった。夢の中では「私」と思っていたけど目覚めてみると私自身の経験ではあり得ないし、その手の映画やドラマを見た覚えもない。ただ異常にリアルで、今も鮮明に憶えている。

 あの歌も、そう。


「て……」

「早く忘れられた方がいいですよ」


 思わず口ずさみかけたところにお巡りさんが言った。赤ちゃんの笑顔や夢のことまでは話していないけど、凄惨な死の場面を目撃したことに配慮してくれているのだろう。

 たしかに、忘れた方がいいとは思う。赤ちゃんの笑顔は、顔の筋肉が弛緩してたまたまああいう顔になっただけ。夢もただの夢。

 ただ、それで済ませていいのか、ということもあった。由香里さんの死因だ。

 出産で死亡することが未だにあるのは知っている。年間三、四十件、一番多いのは子宮からの大量出血――でもあんな、陣痛やなにか苦痛を覚えている様子もなくいきなり血を噴き出すなんてあるだろうか。    

 一体何の症状か、事情聴取で聞いてみたけど、刑事さんも首を傾げていた。

 忘れた方がいいと言われて、かえって考えてしまう。奇妙な突然死と、目にした、夢に見た不気味なモノ。頭の中で二つを繋げてしまいそうになる。オカルトじみた、悪い何かが憑いていて、ひょっとしたら「安産祈願」のお守りを落としたからこそ亡くなったんじゃないか、なんて馬鹿なことを。

 駅前ロータリーで降ろしてもらい、改札口に歩く間、母が言う。


「今日、一緒に寝る?」

「一人でいいです」


 からかい半分な口調にちょっとむっとする。

 私は入院中に一時帰宅した時は毎晩母と一緒に寝ていたし、その後も年に一回くらいそういうことがあったし、実際その夜もやっぱり母のところへ行こうかと少し考えてしまったけど……何だか妙に熱っぽくて、風邪ならうつしてはいけないと一人で寝ることにした。






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