第39話

 七月五日。


 いよいよ今日がほたるとの最後の日だ。


 バイトが終わった俺が急いで着替えると、


「和馬くん、頑張ってね」


 と光莉先輩が見送ってくれた。


「はい! 俺、ちゃんと伝えますよ」


「うん、和馬くんの気持ちはきっと伝わると思う。私は応援することしかできないけど、待ってるからね」


 店を飛び出そうとした俺は、光莉先輩の言葉で足を止めた。振り返らずに、声だけを向ける。


「俺、こういうの初めてなんで恥ずかしいですけど……もしフラれちゃったらなぐさめてくださいね」


「うふふ、そんなこと言わないで、当たって砕けろ、だよ」


 ははは……。光莉先輩、砕けちゃダメですよ――


 とは言わずに、俺は裏口から走り出す。手を振る光莉先輩の横では、


「けっ、やっぱり和馬に料理を教えるのはまだ早かったな」


 と冨澤さんがボヤいていた。


 二人のありがたい見送りを受け止めながら、俺は帰路を急いだ。


 アパートのドアを開けるとリビングの電気が点いている。キッチンには作り置きのスープを食べた跡があって、ほたるはちゃんと全部食べているみたいだった。


「ほたる、元気になったのか!?」


「うん、もう大丈夫。ごめんね和馬、心配させちゃったかな」


「何言ってんだよ、心配するのは当たり前だろ?」


「そうだね。あたしに勝たないと、エロゲ展開ができないもんね」


「そうじゃなくてさ」


 今日はほたるとの最後の日なんだ。いつ消えてしまうかわからないけど、俺にとってほたるに伝える最後のチャンスなんだ。


「ゲーム、出来るか?」


「うん!」


「よし。じゃあ早速勝負だ!」


 テレビを点け、マリヲカートを起動させる。これまで何度も繰り返してきた俺の得意なゲーム。ほたるの得意なゲームだ。


 俺のキャラはビビンパ。


 ほたるはマリヲ。


 コンピュータープレイヤーはいらない。俺とほたる、二台だけの舞台だ。


『Are You Ready?』


 心の準備はできてる。俺はほたるに伝えたい。このゲームに勝って、ちゃんと気持ちを伝えるんだ。


 シグナルが赤から青に変わり――


『START!』


 と同時に、ほたるの身体がまばゆく発光した。


 俺はこの『ほたるの光』を、ゲームでチートな能力が発動している証だと思ってた。鉄剣でもぷにょぷにょでも、将棋でもモグラ叩きでも、いつもほたるの光で俺は負かされてきた。


 でもそれは違うんじゃないかと気付いたんだ。


「ほら和馬、コーナリングが甘いよ」


「和馬、もっと速く、速く」


「そうそう。今のは上手いよ、和馬」


 ほらな。隣にいるほたるはとても楽しそうにゲームをしている。俺と一緒にゲームを楽しんでいるんだ。


 その光はいつもより激しく輝いていた。まるでほたるの光で、俺までも照らされているみたいだ。


 一周目をマリヲが走り抜ける。ほたるは常に俺の前を走っていた。


 ほたるのマリヲは速い。最高のスピードで、最短のコース取りで、最速で走り抜けていく。俺のビビンパが追いつけない。ほたるとの差は開くばかり。


 でも諦めないさ。俺はほたると同じ舞台フィールドに立つんだ。たった十四日間じゃほたるを知るには短すぎるけど、それでもこの十四日間は俺も一緒に輝いてた気がする。


 ほたるの光で輝けた気がする。


『マリヲ WIN』


 一戦目はほたるが勝利。俺のビビンパはほたるの背中を捉えることも出来なかった。


「もう一回やる?」


「おう、もちろんだ!」


 ほたるの光が一層輝きを増した。これ以上ない強い光で、部屋の中が真っ白に見える。まるで何もない部屋で俺とほたるだけの世界みたいだ。


「和馬くん、楽しい?」


「もちろん!」


 ほたるが今、俺のことを「和馬くん」って……。


「私も楽しい」


「だよな!」


 ほたるが今、自分のことを「私」って……。


 まるで『らぶ☆ほたる』の望月ほたるみたいだ。そういえばゲームの中での俺は「和馬くん」だったな。で、ゲームの中でのほたるは「私」だった。


 もしかしたら俺のヒロインのほたるから、みんなのヒロインの望月ほたるに戻っていってるのかもしれない。


『マリヲ WIN』


「もう一回やる?」


「当たり前だ!」


 ほたるは今、最後の輝きを放っているんだ。俺との最後の勝負で手加減なんてしない。ほたるは本気でゲームをやってる。本気で楽しんでくれている。


 何度も走って、何度もほたるに追いつけない。ほたるはずっと輝いている。強く、強く輝いている。まるで最後の光を力いっぱい輝かせているように。


「ねえ和馬くん」


「ん?」


「ゲームの『らぶ☆ほたる』を、憶えてる?」


「ああ、憶えてるさ」


 俺はコーナーギリギリを攻める。裏技はなし、アイテムも使わない。ただほたるの後姿を追いかける。


「私と過ごした夏を、憶えてる?」


「もちろん、憶えてるさ」


 あれはとても短い夏だった。たったの十四日間、俺はほたるに恋をした。ゲームの望月ほたるに恋をした。


「いや、違うか」


「何が?」


 ほたるの光が次第に弱まっていった。薄く、弱く、ぼんやりと明滅していくのがわかる。


 最後のコーナーを曲がった。ほたるとの差は僅か。ラストの直線で俺のビビンパが加速する。


「俺は……」


 最高速度になった。スピードはビビンパが上、ほたるのマリヲが横に並ぶ。


「俺は『今ここにいるほたる』が好きだ」


 二台が並んでゴールイン、チェッカーフラッグが振られた。


「あたしも――」


 際どいゴールに写真判定が流れる。コマ送りで映るゴールシーンは、俺のビビンパがほんの少しだけ速く、ゴールラインを割っていた。


「――和馬が大好きだよ」


『ビビンパ WIN』


 俺はコントローラーを静かに置いた。ビビンパのウィニングランに、通算成績が重なる。


『1勝 999敗』


 はっと振り向くと、ほたるは俺を見ていた。嬉しそうに、楽しそうに、そして悲しそうに。


 ほたるの光は今にも消えそうで、それはほたるが俺の前からいなくなってしまうのだとわかっていても、俺にはそれを止めることができないのもわかっていた。


「最後の最後に負けちゃったね」


「俺、やっとほたるのことが見えた気がするよ」


「うん。私はずっと和馬くんが見えていたんだよ」


 隣に座るほたるはじっと俺を見つめていた。


「和馬くんはゲームの私に、完璧な選択肢を選び続けたの。私の望むことを、私の望む会話を、私の望む答えを、すべて選んでくれたの」


 ほたるの身体が淡い光に包まれた。それはいつものゲーム能力を発揮する光じゃないのはすぐに気付いた。


「だから、嬉しかった」


 ほたるの身体がどんどん薄くなっていく。透明になっていく。


「和馬くんは私を見てくれてる。ゲームのキャラとしてじゃなく、本当の私を見てくれてる。私と同じ舞台に立ってくれてる」


 ほたるの向こう側が透けて見える。俺が見えていたほたるが消えていく。


「ねえ、和馬くん」


 音もなく、正体もなく立ち上がったほたるは俺の手を引いた。その手のぬくもりが、しっかりと感じられる。


「私に勝ったら、してくれるんだよね」


「ああ」


 手を引かれて立ち上がった俺は、今にも消えてしまいそうなほたるの肩を抱いた。この手にその感触があるのかどうかも、もうわからない。


 それから俺は目を閉じて、ゆっくりとほたるの唇に自分の唇を重ねた。たしかにふたりの唇は重なった……気がした。


「またゲームで会おうね」


 その声に目を開けた俺の前に、もうほたるはいなかった。

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