024 理系女子の出生2
……実家は、裕福な方だった。先祖代々、地方で町医者を続けている間はそうでもなかったけれど。
仕事がない、じゃなくて
そんな生活が変わったのは第二次世界大戦後、私の祖父の代だった。
当時は物が本当になかった、そう聞いたわ。医療品は当然、食料すらも、まともな手段で手に入れるのは難しかった。地方だから農作物を入手することは可能だけど、軒並み物価が上がった以上、豪族や都会の裕福な家庭に対して仕事を請け負い、お金を稼ぐしかなかった。そうすることでしか、今にも飢えかねない家族を、守ることができなかったから。
……その生活は、物価が落ち着いた後も続いた。
何故自分達が金持ち相手に医術を行使したのかも忘れて、下手な豪族よりも立派な家に住み、気が向けば高額な医療費を請求して私腹を肥やす日々。
目先の金に目が
以来、私の家は典型的な、
家族は全員医者で、金持ち相手に治療してはそのお金で遊ぶような家だったから、
厳格なベビーシッターに優秀な家庭教師、給料を支払えば何でも言うことを聞く使用人。そんなものよりも、私は……って、あなたに言える立場じゃないわね。
……その後は、典型的な家出娘の
家から盗んだ軍資金も尽きた頃には、同じ立場の男の子達ととっくに『経験』していたから、援助交際もできるくらいには貞操観念も薄れていた。後は、少し危ない仕事を数回こなすだけ。ナイフの使い方も、その時に覚えたの。
……そうして、一人で生きていけると勘違いしていた。
「……で、今は金欲しさに医者になる道に戻った、ってこと?」
「あなたの考えている意味と同じかは分からないけれど……コーヒーでも飲む?」
「いらない」
結局、紗季に話せたのは、揺るがない事実だけだった。
自分が何をどう思っていようと、紗季の気持ちを稲穂に伝えることはできないし、伝わらないからだ。
感情論で相手を説得させることはできない。だから、事実を先に伝えることしかできなかった。
一区切りついたので、少し休憩しようとインスタントコーヒーを淹れる紗季。お湯を作る間、冷蔵庫に残っていた
「
「缶」
手渡された缶コーヒーに指を這わせる稲穂に背を向け、紗季はマグカップに淹れたコーヒーを取ってから戻ってきた。
「コーヒー……好きなの?」
「ペットボトルよりかは
「そう……」
次いで近くにあった除菌ティッシュで拭いてから、稲穂はようやく缶コーヒーのプルタブを空けた。
毒を警戒して、相手が差し出す飲み物に手をつけない事例は多い。犯罪者はもちろんのこと、精神的に人を信用できなくなった人間にもよく見られる
念のために除菌ティッシュを使う徹底ぶりだが、果たして毒を警戒してのことか、それとも生理的嫌悪感からか。
「……じゃあ、話の続きをしましょうか」
……妊娠したと分かっても、私のすることは変わらなかった。むしろそれに興奮する変態が多くて、逆に儲かっていたくらい。
妊娠する前と、特に生活は変わらなかった。父親も分からないから責任を取れと脅すこともできなかったけれども、変なトラブルさえなければ仲間意識の強い人間の集まりだったから、その程度なら逆に助けようと手を貸してもらっていたの。
とはいえ、胎児には悪影響しか及ぼさないことしかやってこなかったのに、あなたは私の胎内で成長を続けた。自分が痛いのや辛いのは嫌だったから中絶しようとお腹を殴ったり、冷たい水の中に入ったりはしなかったけど……あ、ちなみに私、泳げないのよ。
……って、これは関係ないわね。
実家が代々医者だったのも
だから
「……じゃあ、」
缶コーヒーの味が気に入らなかったのか、一口飲んだ稲穂は、それを近くの台の上に置いた。その後腕を組むと、紗季が話し始めた頃から腰掛けていた、患者用のパイプ椅子に座り直した。
「なんでいまさら、探していたのよ?」
「
ことっ、と飲みかけのマグカップを置くと、紗季はイスの背もたれに体重を掛けた。
「……正確には、あなたを
軽くなった身体と
仲間に迷惑を掛けたくないからか、それとも育児放棄で捕まりたくなかったのか……まあ、両方ね。
そして別の街に移動して、これからどうしようかと考えている時に……たまたま仕事で来ていた両親と再会してしまったの。
「その後、二人が何をしてきたか、分かる?」
「殴りかかった」
「私も最初、それを覚悟したわね」
けれども違うのか、紗季は自分の手を見下ろしてから、再び稲穂の方を向いた。
「でも……実際はただ、黙って抱きしめられただけだった」
大切なものは、失くした時に初めて、その価値を理解する。
それは稲穂にも、経験のあることだった。
「仕事とお金で生まれた溝を埋めるかのように、二人は私に話し続けた。それこそ仕事と両立した上で、交替で話し続けてね。……でも、ずっと相手をさせられていた私は、徐々に疲れも喉の渇きも感じなくなった」
考えるまでもない。祖父の、稲穂の曽祖父に当たる代からおかしくなっていたのだ。戦争のせいにするのは簡単だが、そこから戻れなくなってしまったのは自分達の責任だ。戦後を生き抜くためという
「そして正気に戻った、とでも言えばいいのかしらね。話をして、落ち着いてからようやく……取り返しのつかないあやまちについて、理解してしまった」
それが、今まで稲穂を探し続けていた理由だった。
別に見つけて引き取りたいわけではない。そんなことをしても、当の本人から拒絶されるだけなのは理解できていた。それでも、会って無事をたしかめたかった。
「私が医者になったのはね、もし生きていたなら、たとえ怪我や病気をしていても、必ず助けるため。お金を稼いでいたのだって、理由はあなたのため、っていう自己満足よ」
今はともかく、当時は捨て子を確実に親元へと送る手段がなかった。むしろ、他の捨て子の案件で埋もれてしまっていたのだろう。でなければ、稲穂の母親は、目の前にいる紗季のはずだからだ。
だから穂積は、拾った稲穂を引き取る形になったのかもしれない。当時の詳しいことはともかく、紗季にとっては、それが話せる全てだった。
「……正直に言うとね。出会ったらまず、あなたを抱きしめたかった。拒絶されているから、それも叶わないけれど」
「それは、ね……」
稲穂も回答に困り、視線を
もし紗季が自分を抱きしめてきたらどうしようと考え、嫌悪感を抱くか、そうされる前にぶん殴っていたかのどちらかだろうと思い、考えるのを止めた。
「でもその嫌悪感も、今ならそこまでではないでしょう?」
「まあ、ただの慣れだろうけど……」
稲穂は紗季から、缶コーヒーを
「金子さんには、あなたのお父さんにはやめてくれって言われたけど……どうする? 私をどうしたい?」
紗季にとって、今世に未練はもうなかった。患者の今後は心配になってはいるものの、
お金でも名誉でも、それこそ命すら捧げよう。
考え込む稲穂。紗季は静かに、返事を待った。
そして結論が出たのか、稲穂の口が開いた。
「ずっと考えていたんだけど……」
実際、稲穂は考えていた。
もう感情的に動くこともなく、ただ理性を持って、自分がどうしたいのかを考えていた。
しかし、その考えている
「……遠慮する理由がないから、正直に言うわよ」
「どうぞ」
そして告げられた一言は、紗季を心の底から驚かせるものだった。
「…………
「……え?」
紗季は一瞬、稲穂が何を言っているのかを理解できず、ポカンとしてしまった。
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