023 理系女子の産みの親

 無事二日目の公演も終わり、比較的静かな平日を過ごしていた蒼葉だった。公演明けの部活動はその週だけだが自由参加となり、片付けくらいしか顔を出す理由がない。

 空いた時間は脚本を考えたり、稲穂との夕食を少し豪華にしようと料理本に目を通したりと、割と優雅に過ごしていた蒼葉だった。

 しかし、その裏で稲穂が何をしているのかまでには、目が向いていなかった。

「……え、いないんですか?」

「何か知らないかな?」

 週末の夜だった。

 今日はパルクールの活動もなく、演劇部もほぼ休部状態なので、蒼葉には時間がたっぷりとあった。だから少し豪華な夕食を、とも考えていたのだが、肝心の稲穂には断られていた。予定があるとかで。

 それも今週中、ずっと断られ続けていた。

 パルクールの活動には参加していたが、その後一緒に帰ることはなかった。用事があると言っては蒼葉とは別に帰宅しているからだ。ただ、その用事が長引くものなのか遅く帰ることも多く、生活音が聞こえるのはいつも就寝前だった。

 蒼葉はてっきり、今目の前にいる稲穂の父、穂積と何かあるのだろうと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

「いえ、ただ最近はどこかに出掛けているのか……夜遅くに帰ってくることが多いみたいなんです」

稲穂あいつ、一体何を……」

 穂積が腕を組んで考え込む中、蒼葉は別のことを考えていた。

(そういえば……)

 一日目の公演の後、稲穂は紗季の気持ちについて知りたがっている節があった。そして、よく思い出してみれば、稲穂をほとんど見かけなくなったのは日曜日・・・、つまり公演の二日目からだった。

「……金子さん、日曜日に彼女と会いましたか?」

「いや、その日から仕事が忙しくて会っていない。ようやく落ち着いたから顔を見に来たんだが……」

 何か心当たりがあるのか、と穂積が目で問いかけてくる。蒼葉はまだ、正しいものかは判断しきれていないが、自分の考えを話し始めた。

「紗季先生、予定通り二日目の公演も観に来てくれていたんです。元々そうするつもりだったので、彼女は一日目に公演を観に来てくれていたんですが……」

「それで?」

「そしてその日の晩、彼女はこう言っていました」

 蒼葉の視線は、稲穂の部屋の方に向けられた。

「……紗季先生の『本気度合いを知りたくなった』、と」

 かつて、蒼葉の家庭の事情を知られたのは、ひとえに稲穂のストーキングからだった。

 つまり、考えられるのは……




「はぁ……疲れた」

 今週最後の診察が終わり、紗季は一人診断書カルテをまとめていた。

 紗季が住んでいるのは診療所にある居住スペースなので、他のスタッフが全員帰宅していても、ここから帰ること自体がない。実家も離れた場所にあるため、ここには自分一人しか住んでいない。だから買い置きと出前だけで事足りてしまうのだ。

(とはいえ……今日くらいは外食にしましょう)

 明日は診察の予約もなく、他の用事も特になかった。医者として健康面を無視するのもいただけないが、精神的な疲労を回復するには、多少の贅沢も認めなければならない。

 特にこの一週間は慌ただしかった。

 土日は昔馴染みの少年が脚本を書いた舞台を観劇し、月曜日からは診察に追われる毎日。人数の多さに受付時間外まで対応に追われ、ようやく仕事が片付いた時には夕食を作る余裕もなくてカップ麺の日々。

「お腹空いた……」

 診断書カルテの整理を終えた紗季は白衣から上着を替え、外出用の鞄を手に外へと出た。夕食を何にするかは決めていないが、診療所内に食料の備蓄がない状況では、些事に過ぎない。

「はあ……外の空気が」

 歩きながら夕食をどうするか決めようと、診療所から出て鍵を掛けようとした時だった。その背中に、粘りつくような視線を受けたのは。

 鍵を取り出そうと鞄に入れていた手だったが、代わりに取り出したのは、古びたバタフライナイフだった。

「……誰かいるの?」

 この診療所を開いてからたまに、変なストーカーにつけ狙われることがあった。その時から念のためにと、昔持ち歩いていたバタフライナイフを仕込んでいた。

 今回もまた、ストーカーの手合いかと思ったのだが……




「……っ!」

「きゃっ!?」




 ……今までとは毛色が違った。

 とっさに持ち上げた鞄でガードしたのだが、相手の拳の方が威力は上だった。散らばる中身を気にかける余裕もなく、紗季は一歩下がると、片手で握っていたバタフライナイフの留め金を外し、持ち手を回して刃を展開した。

「だっ、誰なの……?」

 紗季自身、若気の至りで喧嘩をしたこともあるが、あまり経験もない上に、稲穂を産み捨てる前までのことだ。はっきり言って、ナイフを使った喧嘩の仕方を知っているだけに過ぎない。

 それでも大抵の男は、刃物を見ればその恐怖から身を引くことも多い。だが、今回だけは話が違った。

(刃物を怖がっていない……戦い慣れている!?)

 そのことに気づいた紗季は牽制けんせいしながら逃げようと考えたが、相手に先読みされていた。逃げようとする度に攻撃を繰り出され、避けてしまえばますます袋小路に追い込まれてしまう。

 手ならばまだいい。ナイフの刃で牽制けんせいすればいいのだから。しかし足はまずかった。動作モーションが分かりやすいので避けることは可能だが、威力がありすぎて唯一の武器も弾かれてしまう。そうなればもう、紗季に防ぐ手立てはない。

「っつ……!?」

 背中が診療所の玄関横の壁にぶつかる。これ以上は下がることができなかった。

 真正面から襲ってきたのは、覆面をつけているが、体格のしっかりしただった。健康体と言うべきか、肉付きが一般的な女性よりも太く見える。服装も黒い上下でよくある市販品。通報しても、警察が人物を特定するのは困難だろう。

(女性に狙われる覚えなんて…………っ)

 また攻撃が来る。今度は足じゃなくて手の方だ。




 しかし紗季はその攻撃から目をらせず、いやらさずに、バタフライナイフから手を離した。




 その攻撃は、あまり見慣れない掌底だった。

 重ねて放たれた両のてのひらは紗季の顔の横を通り過ぎ、玄関の扉を打ち抜いていた。

 しかし紗季は気にすることなく、先程までバタフライナイフを握っていた手を相手に伸ばそうとした。けれども、結局は力を抜いて落としてしまったが。

「……逃げないのかよ」

「逃げないわよ。もう……」

 紗季はもう、自らを襲ってきた相手が誰なのか、気づいていた。

 だから、覆面をした稲穂・・から、目をらさなかった。

「それで……あなたはどうしたいの?」

「…………」

 稲穂は一度両手を降ろすと、紗季に背を向けてから、覆面を勢いよくいだ。




 この一週間、稲穂は紗季をストーキングしていた。

 日曜日に観劇に来ることは知っていたので、後は身体に聞けば、誰が自らの産みの親なのかはすぐに分かった。

 舞台が終わり、帰宅する紗季を、身体に鞭打ちながら強引に尾行し、診療所へと戻って来ていることを突き止めた。そして、診療時間に合わせて待ち伏せしていても出てこないことから、そこに住んでいることは容易に想像できた。

 だから稲穂は毎日待ち伏せし、身体が言うことを聞くように慣らしながら、紗季が出てくるのを待っていた。

 本当は不審者の振りをして適当に襲い、強引に本心を聞き出そうとしたのだが、紗季がナイフを片手に応戦してきたのがまずかった。かつて、『金剛姫』だなんだと呼ばれていた昔を思い出してアドレナリンが高まり、自身の必殺技である双掌そうしょう打突だとつげきまで繰り出したのだ。

 もし紗季がナイフを手放さず、逆に構えてしまっていれば、稲穂の手は扉に向くことはなかっただろう。

 最後の最後で、紗季は当たりを引いたのだ。それが幸か不幸かは、まだ分からないが……




 紗季は、飛び散った鞄の中身を掻き集めていた。しかし、刃を展開したままのバタフライナイフは、地面の上にそのまま放置されている。稲穂は近くに落としていた自分の鞄を取ってくると、そのナイフのそばに立ち、静かに見ろしていた。

「喧嘩、できるのね……」

「……昔の仲間に教わっただけよ。言うほど喧嘩をする機会は、なかったわ」

 おまけに、今の自分は医者だ。自衛ならともかく、無為に相手を傷つける考えはなかった。最も、たとえナイフを振るっても、稲穂相手ではあっさりさばかれていただろうが。

 鞄の中身を拾い終えた紗季は、静かに立ち上がった。稲穂の足元にある、ナイフだけを残して。

「拾わないの?」

「拾わないの?」

 互いに、ナイフを拾わないのかと問いかけ合った。

 そのナイフでどうしたいのかは、言うまでもないだろう。

 結局は稲穂がナイフを拾い上げ……両手で展開した刃を仕舞ってから、紗季に持ち手を差し出した。

「ん」

「……ありがとう」

 必要ないのか、それとも使いたくないのか、稲穂は紗季にバタフライナイフを返した。それも鞄に仕舞うと、今度は穴の開いた扉を開けて、中を示した。

「その手……手当てさせてくれる?」

「…………」

 稲穂は黙ったまま、診療所の中へと入っていく。

 双掌打突撃で扉に掌大の穴を空けたのだ。痛めているだろう手に湿布くらいは張っておかないとと思っていた紗季だが、それは稲穂がさせてくれなかった。

 後から入ってくる紗季を無視して、戸棚から勝手に取り出した湿布を手に当て、包帯で手早く固定していく。

 そんな稲穂をとがめることなく、紗季は自らの椅子に腰掛けた。

(さて……何から話そうかしら?)

 自らが産み捨てた子供が成長し、今、目の前にいる。

 こういう時に何を話せばいいのか、紗季には分からなかった。

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