007 文系男子と理系女子の裏側

 蒼葉の説得が上手くいったからか、それとも単に満腹状態で気が紛れたのかは分からないが、稲穂は居間で横になっている。

「食ってすぐ寝ると身体に悪いぞ」

「ほっといてよ……今更牛みたいに太ったりしないわよ」

「いや、胃液が食道とかに逆流して癌になりやすいって、聞いたことがあるんだが……」

 稲穂は上半身を慌てて起こした。蒼葉は呆れたような眼差しでながめてから、一緒に注文したペットボトルのコーラを飲み干し、蓋を閉めた。

「しかし、この後どうするよ? 飯は食ったし、親父さんはいないし、金子は外出できないし」

「『You can't buy a second with money.』よ。さっさと帰ったら?」

「一応見張りも兼ねているから、せめて親父さんが帰るまでは居座らせてもらうよ」

 伸びてくる稲穂の蹴りをひょいとかわしてから、蒼葉はどうしたものかと部屋を見渡してみる。広い居間だが、普段は見ないのかテレビの類がない。それどころか、もの自体が少なすぎる。ちゃぶ台や飾られた日本刀があるくらいだ。

 刀立ての後ろに掛けられた掛け軸を、蒼葉はなんとなく読み上げてみた。

「……『夜桜二式』?」

「その刀の銘よ」

 蒼葉が読み上げた言葉を聞き、稲穂がそれに答えてきた。

「一応は家宝なんだけど、それ自体は結構な数が出回っているのよ。『夜桜一式』っていう真打ち以外にたれた複数の影打ちの内の一振りが、そこにある『夜桜二式』……真打ちとか影打ちとかって、分かる」

「詳しくは知らないけど、たしか一番よくできた刀が真打ちで、それ以外が影打ちだよな」

 おおむね合っていたらしく、稲穂は首肯するだけで特に訂正は入れなかった。

「どこだったか忘れたけど、剣術のある流派で、それ持って真打ちを手に入れるのが免許皆伝の条件というものがあるの。で、そこまで至らなかった弟子の一人が親父のご先祖様」

「法律上はお前の先祖でもあるだろ? そもそも人間のルーツ辿ると、全員アダムやイブだろうが」

「あんた宗教家? 私無宗教だから、猿でいいわよ別に」

 余分に買っておいたミネラルウオーターのペットボトルをそれぞれ開けながら、二人はいまだに残暑が残る縁側の木陰となっている個所に移動し、並んで腰掛けた。

「夏も終わるな……」

「夏らしいこと、なにかした?」

「親父と盆休みの墓参りくらいだな。金子は?」

「こっちも似たようなものよ。おじっ、……爺さん婆さんの墓参りしただけね」

「今更格好つけなくても、かわいいところあるのはとっくに知っているからな……下着とか」

 無言の拳が飛ぶ。蒼葉は回避が間に合ったが、哀れペットボトルは庭先に中身をぶちまけながら転がっていった。

「その話をいつまで続けるつもり……?」

「いや、それは悪かったけど、見えないところだけっていうのもアンバランス過ぎないか?」

「似合わないから、下着だけにしているんでしょうが」

「別に堂々と着飾ればいいだろうに……にしても遅いな、親父さん」

 穂積が仕事に出て、既に三時間は経過している。しかし一向に連絡が入らないところを見ると、解決にはまだ時間がかかるらしい。

「変ね。トラブルがこじれたにしても、ここまで長いのは……」

 アップルフォンを取り出して電話を掛ける稲穂。相手はおそらく穂積だろう。

 しかし、応答がないのか、すぐにアップルフォンを持っていた手を降ろしていたが。

「電話にも出ない……もう帰ったら?」

「だから帰らないっての……代わりにデートするか?」

「嫌よ。暑い中出歩くのは」

 なら長袖を止めろ、という言葉を蒼葉は口に出さず、無理に飲み込んだ。




 穂積に掛かってきた電話の内容は、仕事の話ではなかった。それどころか、掛けてきた人間は会社の者ですらない。

 穂積は自宅から離れた喫茶店まで車を飛ばし、店の駐車場に停めてから中へ入った。

 適当な席に着き、アイスコーヒーを注文する。電話してきた待ち人はまだ来ていない。

 仕事用のタブレットPCでメールチェックをしながら時間を潰していると、その待ち人は慌ただしく店内へと入ってきた。

「ハア、ハア…………すみません。待たせてしまいましたか?」

 タブレットPCを片付けながら、穂積は答えた。

「いえ、大丈夫ですよ……宮永さん」

 そこにいた人物は、稲穂の産みの親である宮永紗季だった。

 少し乱れた白髪を指でかしつつ、紗季は穂積に勧められるまま、向かいの席へと着いた。

「すみません。呼び出しておいて、待たせてしまい……」

「大丈夫ですよ。そこまで待っていませんので」

 穂積が紗季と話すのも、これで何度目だろうか。

 少なくとも蒼葉達が夏休みの間、二人は時間を見ては、こうして話をしていた。

 主に、稲穂のために。

「この度は申し訳ありません。彼女に気づかず近づいてしまったために、このようなことになって……」

「いえ、近くに住んでいる以上、いずれはこうなっていたでしょうから……」

 むしろ今までが、上手くいきすぎていた。

 注文したアイスティーが紗季の前に配膳されるが、彼女は手を伸ばすことなく、視線をただ降ろすだけだった。その眼も、眼鏡のレンズによる反射で、上手く読み取ることができないが。

「……あの娘は、今、どうしていますか?」

「蒼葉君と実家にいます。外へ出すと何をしでかすか分からないので、外出禁止にしていますが」

「そうですか……あの、これを」

「いりません」

 差し出された封筒を穂積は拒絶し、触れることなく紗季に仕舞うよう、促した。

 中身はここ数回の会談で理解している。そして紗季にその気はなくとも、受け取るということは稲穂とは親子ではなくなる。それが分かっているから、穂積は受け取らなかった。

「受け取っては、頂けませんか……?」

「ええ……あの娘は、私の・・娘なので」

 穂積には、紗季がこれまで、どのような人生を送っていたのかは知らない。

 分かっていることといえば、紗季が稲穂を、自分の娘を捨てたが、それをずっと後悔していることくらいだ。

 紗季はじっ、と顔を伏せた。よほど濃厚な人生を送ってきたのか、この場で取り乱すようなことはしなかった。それだけ、自らの心を閉ざす術を身につけられる機会が多かったのだろう。

「今更、あの娘を引き取れるとは思っていません。向こうが拒否するでしょうから」

「言いたくはありませんが……あの娘は実家の刀にまで手を伸ばしました」

「次からは止めなくても構いません。遺書の準備も、断罪の覚悟もできています」

「あなたのためではありません。あの娘の将来これからのためです」

 この会談自体、穂積は苦手意識を持っていた。

 自らが拾った娘に対して、捨てた女は引き取りも拒絶もせず、ただ近くにいることを止めようとしない。

 何をもってここから、稲穂から離れようとしないのか、それが分からないだけに、穂積は対応を決めあぐねていた。

「ところで……あの娘の父親は?」

「分かりません。それだけ……私は馬鹿なことを繰り返していたのですから」

 ある意味では、幸運なのかもしれない。

 馬鹿な若者が無責任に産み出して捨てられたからこそ、親ということを笠に着て、好き放題に蹂躙されなかったのだから。

 結果論でしかないが、そうでなければ、これ以上の不幸を稲穂に与えかねないのだから。

「宮永さん、あなたのことをどうこう言えるのは娘だけです。ですが……」

 コーヒー代を置き、穂積は立ち上がった。

「……あの娘がまだ17歳にも届かない子供だということも、お忘れなく」

 穂積が立ち去った後も、紗季は席を立たなかった。顔も上げず、ただアイスティーの入ったグラスを見つめている。

「忘れませんよ……」

 その視線は、目の前のグラスから持ち上げた自らの手に注がれていく。その手で娘を抱き、そのまま捨てた時のことを思い出しながら。




「もうすぐあの娘の誕生日だってことも、忘れたことがありません」




 それは、紗季が赤子だった稲穂を捨てた日でもあるのだから。




 そのまま車に乗って帰ってきた穂積は、最初稲穂にどんな顔をして会えばいいのかが分からず、途中で昼食を済ませている間も、いい解決方法が思い浮かばなかった。

「ただいま……」

 仕方がないのでそのまま帰宅したのだが、返事はない。

 鍵は開いていたので家にいるとは思うのだが、家のからは話し声が聞こえてこなかった。

「……外か?」

 その代わり、縁側の向こうから声が聞こえてきた。

 いまだに残暑が残っているが、庭先で何かしているのだろう。話し声以外にも水音らしきものが聞こえてくる。

「水音…………随分懐かしいものを引っ張り出したな」

「あ~、親父お帰り」

「どうも」

 縁側の下に、物置から引っ張り出してきたのか、ビニールプールが広げられていた。幼少時に稲穂が遊んでいたもので、今は蒼葉と共に足をつけて涼んでいたようだ。

「外出禁止じゃあ、これくらいしかすることないのよ。いつまで実家こっちに居なきゃいけないわけ? はっきり言って『You can't buy a second with money.』よ」

「そうだな……」

 土産に買ってきた棒アイスを振る舞ってから、穂積は空を見上げた。




「……落ち着くまではここから学校に通え。出掛けてもいいが、目的と時間と場所はちゃんと報告すること。あと一人で出掛けるな」




 これが正しいのかは、穂積には分からない。だがそれでも、必要だと思ってそう言いつけた。

 反対する要素がないのか、蒼葉は口を挟んでこない。

「『You can't buy a second with money.』だと思うけど……」

 稲穂も理解したらしく、愚痴を零すだけに留めていた。

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