021 文系男子の逃亡劇
喫茶店の中は荒れていた。
店長こと
事件は先程起きたらしく、指原は事情を聴くのも兼ねて、スマホ片手に通報しながら商店街の人達の方に向かっている。その間稲穂は倒れている人間の容態を確認してから店内を探り、
「で、これどういうこと?」
「その前に聞きたいんだが……クラは?」
入れ替わりにやってきた船本の方を向いた。
服が乱れ、殴られたのか顔に青
「私達が来た時にはいなかったけど、どういうこと?」
「黒桐と一緒ならいいが……悪いが、金子には関係ないことだ」
「関係ないのはあんたでしょ?」
気がつけば、後ろには指原がいた。
船本の胸倉を
しかしそちらは放置して、指原は店の横で船本に詰め寄っていた。
「黒桐から事情は聴いてたけど……変に気使って抜けといて、いまさらこんな所で何しているのよ?」
「いや、それはたしかに指原の言う通りなんだが……こればっかりは俺も無関係じゃないんだよ」
しかし、それで合点がいったのか、指原は船本を
「もしかして……クラの父親?」
「……あの男、脱走したんだ」
店内の
「え、何?
しかしその理由も分からず、思わず問いかける稲穂に、指原は首を振って応えた。
「…………
「アオバ……」
「大丈夫だから、クラ、落ち着け」
適当な路地裏にあるゴミ収集ボックスに隠れた蒼葉は、クラの頭を撫でて落ち着かせながら、そう言った。
クラの父親、
通常ならば父親が失踪、で話が終わるかもしれないが、クラが成長した頃に、由は再び現れた。
実母を連れ、自らの親権を主張してクラを奪い、その実学校にも行かせずに非合法の児童ポルノを撮り溜め、裏で売りさばこうと計画していたのだ。心配になって様子を見に来た縁が通報しなければ、経験前のイメージビデオだけだとしても、その映像が世間に出回っていたかもしれない。
それだけならば良かったのだが、警察の目を抜け、一度クラを連れて国外逃亡しようとしたことがあった。その時はたまたまいた蒼葉がクラを連れて逃げ、その間に船本が由を撃退し、ことなきを得た。
クラが
……その父親さえ、過去を
「しかしあのおっさん、意外と人望あったんだな……」
もし由一人ならば、近くで見張っていた刑事だけで取り押さえられただろう。しかし状況は多勢に無勢、後から乱入してきた仲間に襲撃され、無力化されていったのだ。
そこへ駆けつけ、仲間と喧嘩になった船本を残して、蒼葉はクラを抱えて由から逃げ回っているのだが……
「出て来いクソガキャッ!?」
そして蹴飛ばされるポリバケツ。その中身が蒼葉の視界にも入ってくるが、ただ静かにじっと、逃げる機会を
「……船本、大丈夫かな?」
「どうするの……?」
「とにかく逃げるぞ。裏道で助けを呼べない分、ここにいるのは不利だ。商店街の外へ出て
そう言ってクラの腰を抱えると、空いた手で適当な小石を拾い、遠くへと投げた。
「そっちかてめぇっ!」
「……よし行くぞ」
少し時間を置き、角にある袋小路へと走った。
奥の壁は登るのに手間だが、一度越えてしまえば簡単には追いつけない。しかも越えた先を曲がり、まっすぐ走れば商店街前の大通りに出る。そうすれば公道沿いに走っていけば診療所だ。最悪クラだけでもそこに
「脱走したから周囲に警官がいると思うけど……っと」
袋小路に到着した蒼葉は、事前に用意していた縄
「いいか、クラ。壁を越えたら俺を待たずに走れ。そのまま
「アオバはっ!?」
「……適当に時間を稼いだら、俺も逃げるさ」
早く行け、とクラを登り切らせてから、縄
問題は……
「おいっ!? 俺のモノはどうしたっ!?」
「……とっくに逃がしたよ」
クラが逃げ切ってくれることを願いつつ、蒼葉は周囲を見渡した。
袋小路の狭い通路だが、その気になれば壁を伝って逃げ切れる。問題は、目の前の男をどうするか、だ。
「いいかげん、真っ当に生きようとは思わないのかよ、あんた。クラはあんたの娘だろ」
「ああそうだよ。あれは俺の
男が両腕を上げ、構えを取った。ボクシングのファイティングポーズに近いが、足幅は狭く、拳と顔の距離が狭い。
タン・ガード・ムエイ。ムエタイ独特の構えだった。
「よく言うよ。……お前は親なんかじゃない。ただの屑だ」
「そう言うてめえは正義感気取りの誘拐犯じゃねえか」
「誘拐犯はあんただろ? ……自分が正義の味方じゃない、ってのはよく知っているよ」
でなければ、こんな所にはいない。さっさと警察を呼び、自分は関係ないとばかりに隠れていればいい。
しかし……蒼葉は逃げなかった。
たとえ船本という対抗手段がなくても、たとえこの場で殺されたり致命的な大怪我を負ったりしても、蒼葉は迷わずここに来ていたはずだ。
「自分のことを知っているから、逃げたくないんだよ。……目の前で泣いている人がいて、それを無視して後悔するくらいなら…………」
ジリ、と蒼葉は足をずらした。いつでも駆け出し、逃げられるように。
「…………さっさとくたばった方がましだ!」
「そうかよ……」
その言葉を残し、由は駆け出した。
しかし距離感を見誤り、蒼葉が後方へ飛ぼうとした時には、すでに由の
「……じゃあ死にやがれっ!」
「っ!?」
とっさに足を伸ばして牽制しようとするも、ぎりぎり間に合うかは分からない。
それでも目を開け、足を上げようとした時だった。
「……らぁっ!」
クラが登っていった壁を越えて、稲穂が由に飛び蹴りをかます光景が見えたのは。
「か、金子?」
「……悪いけど手を引いてくれる?」
しかし稲穂は蒼葉ではなく、由の方を見て口を開いた。
「この馬鹿、私の獲物だから」
「んだとこのアマァ……」
不意打ちでろくに受け身を取れなかったのか、あちこちを痛めながらも、由は立ち上がった。その間も気にすることなく、稲穂は両手を重ねて指の関節を鳴らしている。
「あの、金子さん……あなたまだ怒ってるの?」
「怒ってるわよ。だから、さっきから八つ当たりしたくてたまらないのよねぇ……」
一通り鳴らし終わるや、稲穂は掌に拳を強く打ち付けた。
「……あいつブッ飛ばしていいんでしょ? 私が相手するから、あんたはクラちゃん連れてさっさと逃げなさいよ」
「お前ね……」
正直説得している暇はない。ここで揉めていても仕方ないと諦め、蒼葉は静かに立ち上がった。
「油断するなよ。相手は……」
「分かってるわよ。さっさと行きなさい」
「……すぐ戻る」
それだけ言い残し、蒼葉は障害物に足を掛けながら、壁を登り切った。途中、由から『女を盾にするのか』等の野次も飛んできたが、気にすることなく飛び越え、その近くにしゃがみ込んでいたクラを抱えて走り出していった。
「とんだ口だけ野郎だな。おい、お前俺の女にならねえか。今なら……」
「……私の嫌いな奴って知ってる?」
稲穂は両手を持ち上げ、構えを取ってから指で挑発した。
「
「……徹底的に犯してやる。後悔すんなよっ!」
再びの
「船本っ!」
「おい指原居たぞっ!」
逃げた先には、船本がいた。恐らく合流地点にしていたのだろう。少し離れた所から指原も近づいてきている。
「クラを頼むっ! 俺は金子の所に行くから!」
「あ、待て! 黒桐っ!?」
クラを受け取った船本が止める間もなく、蒼葉は稲穂のいる袋小路へと駆けていった。
それを見ていた指原はクラを船本から受け取り、すぐに追いかけるように指差した。
「クラは私が連れていくからっ! 早く二人を助けに行ってっ!」
「分かってるよっ!
「……
その疑問に答えようと、走り出す前に船本は指原の方を向いた。
「昨日喧嘩になりかけた時に確信したんだが、あいつ……」
……普通ならば。
「……ガッ!?」
「弱……」
どこか冷静な口調のまま、稲穂は由の
「……その程度?」
「ノガキャッ!?」
防御も回避もできないならば、攻撃を打ち落とせばいい。
一歩間違えばもろに攻撃を受けてしまう。しかし、余程戦い慣れていなければ取れない選択肢を、稲穂はあっさりと選択した。
その結果が、先の肘打ちである。
「……マジで強いぞ。昔、クラの親父に勝った俺よりも、だ」
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