光る船
「主どの、私は、今あなたが乗っているタクシーだ」
今、乗っている、タクシー……?
この異世界にやってきた直後に俺をサンガリアの集落に導き、また今突如として車内に響き渡ったイケボ。その声が告げた言葉の意味がすぐには飲み込めず、俺とエリウは見つめ合ったまま硬直してしまった。
私は? タクシー? 『俺がガンダムだ』的な? 刹那・F・セイエイ? いや宮野真守の声とは全然違う。っつーことは、えーと、何なんだ?
「あ、あの、おまん……いや、お前は、誰なんだ? タクシー?」
つい口癖でおま〇こと言いかけたのを慌てて言い直し、俺はその声に問いかける。返事はすぐに聞こえてきた。
「いかにも。私はタクシーだ。私の燃料を気にかけてくれるのは有難いのだが、その怪しげなガスを私に入れないでくれまいか」
「え、え、ええっ? タクシー? マジでタクシーなの?」
へ? マジで? ドッキリとかじゃなく?
誰かどこかに隠れていてイタズラでもしているんじゃないかと、俺とエリウは車内と周囲を隈なく探してみたものの、人影はどこにも見当たらないし、人の気配すら感じられなかった。
エリウがいっこく堂並みの腹話術で……いや、まさか。こいつにそんな芸当があるなんて聞いてないぞ。だいいちエリウはタクシーをタクシーとは呼ばないはずだ。
「何を今更驚く? トンネルを抜けた先が異世界だったのだから、タクシーが喋るぐらい、あってもおかしくないではないか、主よ」
「そ、そう言われればそうかもしれないが……」
有り得ないなんてことは有り得ない、それがこの異世界である。とはいえ、こっちの世界に来てからこれまでに起こった超常現象といえば、俺にヒーリング能力が目覚めたことと、エリウの剣が覚醒したこと。どちらも人間の秘めたる能力が解放された系の奇跡で、ファンタジー的世界観ならありがちというか、想像に難くないものではあった。
しかし、タクシーは事情が異なる。タクシーは向こうの世界から持ってきたモノであり、ファンタジー要素は皆無の存在。そのタクシーに意志が宿り、さらに喋り出すとは。異世界転移ってそんなことも起こり得るのか?
いや、それ以前に。俺はふと疑問が湧いた。
「タクシー、お前、向こうの世界にいた頃から喋れたのか?」
「いや、私がはっきりと意思を持ったのは、この世界に来てから――正確には、あのトンネルに入ってからだ。あのトンネルに入った途端、靄のように朧げだった私の意思が急に明確な意識へと変わり、そして、主の思考が私に流れ込んできたのだ。この女を乗せて、どこか遠くへ行きたいと」
そう、確かに俺は、ヒトミを乗せてあのトンネルに差し掛かったとき、そのようなことを考えていたような気がする。向こうの世界の出来事が、なんだかもう随分昔のことのように思えてしまうな。
タクシーは続けた。
「主よ、客観的に見れば、あなたはお世辞にも褒められるような人間ではない。金もないし学歴もない。協調性がないから組織の中で働くことができないし、それを改める気すらない。また、あなたは女を穴のついた動物としか見ておらず、相手を一人の人間として尊重することを知らない」
タクシーは車の分際で、
「それに……」
「まだあんのかよ! いいだろもう! 俺がクズだってことは俺が一番よく知ってるよ! それが今なんの関係があるんだよ!」
「そ、そうか。だが、そんな主にも一つだけいいところがあった。それは、車……つまり私を大事に扱ってくれたことだ」
「……!」
「主、あなたは私に乗っている間、常に安全運転を心掛け、一度も事故を起こすことがなかった。それだけではない。あなたは私をよく洗ってくれたし、私が汚れないよう、細心の注意を払ってくれた。これは当たり前のようでいて、なかなかできることではない。私を運転したドライバーはあなただけではなかったが、あなたほど私を気遣ってくれた人はいなかった。その思いやりを何故他の人間に向けられないのか、それが最大の疑問ではあるのだが……」
散々こきおろされてから突然のベタ褒めに、気恥ずかしさのあまり、俺は何も言うことができなかった。いや、まあ、確かにずっとゴールド免許の安全運転だし、車も汚さないように気をつけてはいたんだが、それは別に、褒められるほどのことでもないっつうか……。
何しろ、この世に生を受けて三十一年、賞賛とは無縁の人生を送ってきたものだから、褒められたときにどう反応したらいいかがわからないのだ。
「だから、あのトンネルの中で突然自我に目覚めたとき、私はあなたの願いを叶えることが自分の使命だと悟り、強く願った。そして、気付いたらこの世界に辿り着いていたのだ。トンネルを抜けると異世界であった――そう、川端康成の有名な小説のように」
「そ、そうか……お前が、俺をこの世界に連れて来たのか……」
「主よ、あなたはこの世界に来て幸せか? 私の行為は間違っていなかったか?」
つうか、タクシーが何で川端康成を知ってるんだよ。
それはさておき、タクシーに問われて、俺は改めてこの世界に来てからのことを思い起こしてみた。
元の世界に比べれば、この世界は文明レベルがめちゃくちゃ低く、何かと不便なことは確かだ。空調もないし、スマホもネットも使えない。夜中にラーメン食いにも行けないし、ウォシュレットもないし――と、細かいことを挙げだしたらキリがない。向こうの世界で暮らしていたときは、それらをいちいち幸せだとは思わなかったが、いざ離れてみると、なかなか快適な生活を送れていたのだと気付かされる。
だが、もちろん悪いことばかりではない。
こちらの世界に来て最もよかった点は、やっぱり女だ。向こうの世界でヒトミと同じレベルのいい女を抱こうと思ったら、一介のタクシー運転手の安月給なんか一晩で吹き飛んでしまうだろう。いや、風俗だったらそれで済むかもしれないが、キャバ嬢とかだったりしたら一晩貢ぐだけでは全く足りない。何日か通い詰めて、ドンペリ開けてブランド物送って、それでもヤれない可能性が高いのだ。
しかし、こっちの世界では、あんな上玉を朝から晩まで、抱きたいときに無料で抱き放題。いきなりステーキどころじゃない手軽さ、出会って五秒で合体どころか目覚めて五秒で合体だ。食欲、性欲、睡眠欲。人間の三大欲求と言われる三つの欲求のうち、向こうの世界で満たされたものは一つもなかった。だが、こっちの世界では、少なくとも性欲と睡眠欲は十分に満たされていると言える。
それに、ヒトミだけじゃない――俺は横目でエリウのグラマーな肢体を眺めた。
ハーレムは阻止されたものの、その代償として、ヒトミに勝るとも劣らない上玉、ヒトミより若く、しかもまだ俺以外の男を知らないエリウまで俺の言いなりになった。エリウとヒトミだけじゃない。カルラやイリーナだって、向こうの世界では女優になっててもおかしくないぐらいの美人じゃないか。
なんかシモの話しかしてないし、まあ実際一番大きいのはその部分だから仕方ないんだけど、それ以外にもこっちの世界に来てよかったことはある。
まず、働かなくてもメシが食えること。
向こうの世界では、食うためにずっと働き続けなければならなかった。カスみたいな給料から家賃を引かれ、水道光熱費を引かれ、貰えるかどうかもわからない年金を引かれ、保健やら市民税やらなんやかんや搾り取られて、残った僅かな金でどうにか食いつなぐために、一日八時間もクソつまんねえ労働に勤しむ。
いや、八時間で済んでりゃまだ幸せな方だ。サービス残業がもはや文化として根付いてしまっている日本では、過労死なんて言葉が辞書に載るほど定着しているのだ。
雨にもマケズ風にもマケズ。ムカつく客にも文句を垂れずに頭を下げ、グゥグゥと鳴り続ける腹をコンビニのおにぎりと缶コーヒーでどうにか誤魔化し、疲れた体を押してアパートの自分の部屋にようやく辿り着いたら、安い酒をちびちび飲んで、いつの間にか眠っている、そんな毎日。生きるために働くのか、働くために生きるのか、すっかりわからなくなっていた。
だが、この世界では一日中ダラダラと女を抱いていても、上げ膳据え膳で飯が出てくる。集落で過ごしていた頃は食い物なのかどうかすら怪しいゲテモノばかり食わされていたが、カムロヌムの町を奪還してからは、向こうの世界にいた時よりも豪華なメシが食えるようになっていた。
働かざるもの食うべからずという言葉があるが、働かずに食えるんだったらその方がずっといいのだ。
そしてもう一つ。この世界で救世主として祀り上げられた俺は、生まれて初めて誰かに必要とされているという実感を得ることができた。
高度に発達した資本主義社会の中で、ほとんどの人間は一つの部品でしかない。俺みたいなタクシー運転手なんていくらでも替えが効くし、もし俺が突然職場に辞表を提出したって、会社は大して困らない。せいぜい欠員が埋まるまで人手が足りなくなる程度のことである。
金を持ってるやつがさらに金を増やすために他の人間の人生を食いつぶす資本主義というシステム。いや、本当は、金持ちですら金に付属する部品に過ぎないのかもしれない。
しかし、この世界での俺は、サンガリアの民の救世主、唯一無二の存在だ。
別に俺の人柄が支持されているわけじゃない。現にあのラスターグ王子だって俺とはロクに目も合わせないし、じっくり話したことは一度もない。他の民衆たちだって、俺に対して畏怖こそすれ、尊敬なんかはまるでしていないのだ。
まあ、俺が救世主なんてガラじゃないことは、俺自身が一番よくわかっている。異世界に転移してきて、たまたま不思議な能力が目覚めたおかげで今の地位を手に入れたってだけで、指導者とかいう器では全くない。民衆たちはむしろエリウの方に畏敬の念を抱いていて、そのエリウが俺に従っているから、仕方なく俺を救世主だと認めている。そんな感じだ。
だが、それでもサンガリアの民が俺を必要としていることは事実であり、ここ最近は、そんなサンガリアの民衆たちに愛着のようなものを感じ始めている。人を人とも思わないこの俺が。
向こうの世界で暮らしている間、俺は本当に実在する人間なのか、もしかして誰か全然知らないやつが見ている夢なんじゃないか、そう思うほど現実感が希薄で、自分の存在が透明人間のように空虚に思えることもあった。
だが、こっちの世界では違う。俺という人間は確かに存在している。そして求められている。もしも不安になったなら、女を抱いて確かめればいい。肌を合わせるということは、自分の存在を確認するために最も確実で手っ取り早い手段なのだから。
――などと、珍しくちょっぴり感傷的な気分に浸りながら、俺は隣のエリウの手を握り、そしてタクシーの問いに答えた。
「俺はこの世界に来て本当によかったと思ってるぜ。ありがとな、タクシー」
タクシーは少し間を置いて、
「そう言ってもらえると嬉しい。実は、ずっと不安だったのだ。私の一存で主をこの世界に連れて来てしまったことが、主に迷惑をかけていないかと」
と言った。その声が少し涙声になっているように聞こえたのは気のせいだろうか。タクシーが泣くかよ、というツッコミは要らん。
「光る船……いえ、タクシーさまが、救世主さまをこの世界に導いてくださったのですね。私からもお礼を申し上げます。救世主さまが居なかったら、私はゴーマ軍に殺されていた。いえ、もしあの場を生き延びていたとしても、アランサーの力を引き出せなかった私は、サンガリアの伝説を利用して民を欺いた
一連の話を聞いていたエリウも、俺の手を握り返しながらタクシーに頭を下げた。こいつはきっと電話しながら話し相手に頭を下げるタイプだな。
エリウの潤んだ両目がこちらを向き、俺たちはそのまま見つめ合った。フロントガラスの向こうの曇り空はいつの間にか宵闇を迎え、車内はいい感じに暗くなっている。エリウはそのまま目を閉じ、そして――。
「盛り上がっているところ申し訳ないが、主どの、そしてエリウどの、そこから先は町に戻ってからにしてくれまいか? 私の中でイチャつかれると、どうにも落ち着かないのだよ」
タクシーの一言で、エリウは頬を赤らめながらサッと身を引いた。
そうだ、タクシーに意思があるってことは、全部見られてんじゃねえか。いくら俺が並外れた厚顔無恥でも、監視されながら女を抱くのはどうにも居心地が悪い。
いや、タクシーは他人か? タクシーに視線があるのか……? あぁぁ、細かい事を考えても仕方がねえ。
急速に夜の帳が降り始めた広大な草原に、ヘッドライトの二筋の光が真っ直ぐ伸びてゆく。俺とエリウは少々の気恥ずかしさを感じながら、カムロヌムの町へと急ぎタクシーを走らせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます