イレギュラー―2

 夜中まで森の中を彷徨い、ようやくの思いで抜け出したら小川に足をはめて転んでしまった。

 全身が水浸しになり、涼しいはずだった夜も完全に寒いものになってしまった。

 靴の中では水と靴下が不快な感触を生み出している。

 一歩踏む度にニチニチと気持ちの悪い音を奏でてゆづきの顔から色を奪っていった。


 こんな時間になってしまえば当然だが、セリ達はとっくにいなくなっていた。

 これで良いんだ。

 ゆづきの事を探しに森の中にいて、ばったり出会すなんていう都合の良い期待は脆く崩れ去ったのだ。


 グリシニアの暖かな光が見えてきた。

 あそこまで行けばみんながいて、でもゆづきはみんなに会わせる顔も無く……


 ――足が止まってしまった。


 逃げちゃえば良いんじゃない?

 そんな声が聞こえた気がした。

 だがこの場にはゆづき以外に誰もいない。


『それかさ、全部無かった事にすれば良いんじゃないかな?』


 夜の帳からぼんやりと女の子が姿を現した。

 正直今のゆづきにそれに驚いている余裕は無かった。


「また。今度は何」


 先程と違い、サニシアはゆづきの手中にある。

 だから多少は強気に出られる。


『ほんと人の話聞かないね。逃げるか、全て無かった事にするかって言ったの』


 若干呆れた様子で女の子は言う。

 無防備な姿で、サニシアをちらつかせるゆづきに恐れを見せずに歩み寄ってくる。


「来るな」


『なんでよ』


「君を信用できないから」


『ふーん、そんな事言うんだ……』


 女の子は指を鳴らした。

 サニシアがゆづきの手から抜け出そうとした。

 咄嗟に全力で握ったが、サニシアの放った魔力で手の力が抜けてしまった。

 そして女の子の手にサニシアが収まってしまった。


「来るな」


『なんでよ』


 ふざけてる。

 なぜこんなにも適当な態度の奴が優位に立つのだ。


『ゆづきがやらないならわたし達だけでやろうか?ねーサニシア』


「あたしの一部だか何だか知らないけど、これ以上邪魔をするなら子供でも容赦しないよ」


 そう言ってゆづきは魔力を熾した。

 しかしこの子と自分のダメージがリンクしているのを忘れたわけではない。

 これは脅しである。


『……え?本気なの……ねえ』


 まるで魂が抜けてしまいそうな、絶望にも近い表情で女の子はあたまを抱えた。


『やだ、ねえやだよゆづき。わたしを殺さないで!』


 まさか魔力を熾したせいで本気で勘違いをしたのか?

 いやそれならサニシアを使ってどうにでもすれば良いのに、なぜそんなそぶりを見せない。


『わたしが悪い子だから?ゆづきはわたしが嫌いなの……?』


 地べたに座り込み、顔を伏せてしまった。


「……いや、あの」


『ごめんね……わたしが全部悪かったよ』


 ゆづきの言葉を遮り女の子は自分の言葉を通した。

 直後、強烈な違和感を覚えるほどの笑みでゆづきを見つめた、


『死ぬね』


 女の子は躊躇う事なくサニシアを自らの脇腹へ深々と突き刺した。

 ゆづきの認知が間に合わない完全な不意打ちだった。

 ただひとつ、後悔するとしたらそれは初めに脅そうと思ったことだろう。

 もっと本気になるべきだった。

 しかしこんな理不尽な仕組み、一体どうすれば良かったのだ。


 ――鋭利な灼熱が脇腹を貫いた。


「ぐあぁぁぁあっ!!!」


『だからうるさいって。静かにしないと喉もやっちゃうよ?』


 土の上を必死に身悶えるゆづきを冷たく見下ろす女の子。

 なぜダメージがリンクしているはずなのにこの子はこんなにも平気でいられるのだ。


『人間の肉体は不便だよね。ほんの些細な傷ですぐにダメになっちゃうんだから』


 女の子もゆづき自身の体からも出血しているわけではないのに、みるみる血の気が引いていくような感覚だった。


『わたしね、名前を考えたの。ゆづきとはづきとお揃いの名前だよ』


 ――黒姫くろきって言うの。


 黒姫はしゃがみ、ゆづきの顔を撫でた。

 ぞくりと背筋に悪寒が走り抜けた。

 黒姫は歪んだ笑みをゆづきへ向けた。


『あはっ!苦しそうだね。痛そうだね』


 ゆづきは間接的にダメージを受けている脇腹を抑えながらのたうち回るので限界だった。


『それは死ぬかもしれないっていう恐怖心がある証拠なんだよ。せーぞんほんのーバンザイだね』


 まるで他人事だ。

 未だ自分の腹に得物が突き刺さっているというのに、そんなのに興味も関心も無いといった風な様子である。


『ゆづきはわたしのもの。だから勝手に他の人について行っちゃダメだよ』


「意味が……分からない」


『分からないの?』


 当然だ。

 いきなり現れた自分の欠片と主張する者のそんな独占欲増し増しの言葉をどう理解しろと言うのだ。

 この短時間で起きている事はゆづきが脳内で理解できる範疇を超えている。


『〈イデア〉だっけ?あんなのろまな組織には世界を救えないよ。ゆづきが本当に自分の手で世界を変えたいならサニシア、それとはづき達と一緒にいるべきなんだよ』


 黒姫が提示した世界救済の方法はゆづきの最終目標を同時に達成するものだった。

 サニシアを手に入れ、同時にはづき達と再会する。

 しかしそれは家を出た時の自らの決意を否定することになる。

 さらに〈イデア〉を抜けるとなると、まずシイナがそれを許さないだろう。


 そしてその前にだ。

 ゆづきは〈イデア〉を抜ける気は無い。

 いくら顔向け出来ない程の失態をしたとしても、黒姫の言うことに釣られるまでには追い込まれていない。


『いやって顔だね。そんなに苦しみを味わっていたいの?』


「違う、あたしは黒姫を信用できないだけだ……」


 理由はもちろんそれだけではないが、まず得体の知れない者の言葉などそう易々と受け入れられないというところからだ。


『じゃーどうすればいいのー!わたしは〈イデア〉なんて嫌だ…………あれ?』


 ――黒姫の足元でゆづきが白目を剥いている。


『……あ』


 気絶している。

 仮にも黒姫の意識の根幹であるゆづきが意識を遮断してしまったとなれば、自分が消えてしまうのはすぐだろう。


 黒姫はゆづきの全てとそれ以上を知っている。

 それは黒姫がゆづき自身と変わらない意識であり、ゆづきの知らない何者かだから。

 しかしそんな黒姫でさえ自らがこうして顕現していられる状態については知らない。

 なぜなら気が付けばそこに自分がいたから。


 ゆづきよりも世界を知り、サニシアを知る。それなのに自分は――――


 闇夜の草原にサニシアが落ちた。


 ◇◆◇


 淫魔族ユリュナ友好派の拠点の小さな作戦室に今回の件の関係者達は集合していた。


「んでまあ、ゆづきがひとりで謎の第三勢力の元へ向かったと」


「その第三勢力の正体はモエである」


「えっと、とりあえず未来視の禁忌を犯してしまったのは仕方ないとして、襲来した王族派を全滅させたのは確かです」


 禁忌、そんなものは今更怯えるものでもない。

 今はゆづきから分離した姿の見えない謎の女の子だ。

 しかしこの事をセリ達が知る必要は無い。

 まず例の子に会えたとしても、姿はもちろん声すらも聞こえないだろうから。


「私も私で勝手な事をしたのは謝るわ」


「い、いえ。本来なら人間族の猟師の方に被害が及ぶはずだったのを防いだのですから……」


 ミシュは明らかに苦し紛れな言葉でモエを擁護する。


 時にモエはミシュ達へ具体的な説明をしていないし、自身の事を偽っている。

 グリーシャから発せられる神聖な魔力によってモエの中の膨大な魔力が溢れてしまい、有り余る力で王族派に立ち向かったと。表向きはそう説明した。

 実際は逆だ。

 グリーシャの神聖な魔力により自身が制御不能に陥り、滅びの魔力を宿して力のまま暴走した。

 これが真実である。


 これを知った誰しもがグリーシャの放つ魔力がモエにとって良くないのなら、今この場にいるのすら避けた方が良いと思われるだろうが、一度グリーシャの魔力によって暴走したこの身にはある程度の耐性が付いたので今は平気だ。


「なんでも良いわよ。わざわざ褒められるような事もしてないわ」


「そ、そんなことっ」


「モエは大体こんな感じっすから、いちいちフォローしなくても大丈夫っすよ」


 困惑を極めそうになっていたミシュにマーシャがそう告げた。

 自分としてもあまり深い人間関係は築きたくないので好都合だ。


「そうよ。私に深く肩入れするのはやめなさい。不幸になりたくなければね」


「不幸ですか……?」


「ええ、私は幸を殺すわ。それが身近であればあるほどより親しい人間からね」


「それってなんだか、神話に似てますね」


 神話とは星神族グレヴィラントの歴史を短編物語にしてまとめたお伽話のようなものだ。

 ミシュが想像しているのは恐らく、不幸の星神の話だろう。

 その神は、神でありながら災厄をもたらし不幸の象徴とされた。やがてその神は救いを求める事なくひっそりと闇の中で死んだと。

 そんな感じの話だった気がする。


「確かに似てるわね。でも私は神なんて大それた存在になる気はない」


 なぜなら自分は幸福を含む様々な概念の象徴である神を殺す存在だから。

 しかしこの世界に生きる全ての生命の心の拠り所のひとつが神という存在なのは事実だ。

 だがフェリタウルに天上の神はいない。

 今の人々は存在しないと知っていながらそれでも神というものを信じている。

 愚かだとは思う。

 だがモエには一切関係ない。


「んで、ゆづきはどうしたんすか」


「軽い傷だったから置いてきたわ」


 本当の理由は違う。ゆづきの中から予想外の人格が出てきたからうかつに手を出すわけにはいかなかったのだ。

 あの時、姿は見えなかったがとても神聖な魔力を感じた。


「そのうち帰ってくるはずよ」


「無責任っすよ。軽症だったとしても、傷を負わせた責任としてモエが迎えに行くのが道理じゃないっすか」


 こういう律儀なマーシャは面倒だ。

 だが友好派の拠点で揉め事を起こす方がもっと面倒だ。

 ここは大人しく言うことを聞くしかない。


「分かったわよ」


 みんなに背を向け、無愛想な顔でモエは拠点を出て行った。

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