新世界
黒部雷太郎
第1話 新世界
そしてホテルでのフロントの仕事は勤務時間が長く、夜勤明けで帰宅するとぐったりしている。しまわれていないままの蒲団へ寝そべり、目を覚ました時には午後になっているのもいつものことだ。
近所には牛丼屋がある。彼は少し寝ぼけたままマンションの階段を下り、電柱近くのごみ置き場にごみを出しその店で食事をすることにしていた。
ある日
「ねえ、
彼は動物が喋るようになった、という噂は知っていたが実際にそれを聞くのは初めてだった。
「えっ、お前みたいなカラスがどんな挑戦をしたいんだ!」
将棋の駒はなく木製の正四角形のその盤に、大きな字で対局は1年後だと書かれている。
「うちらはねえ、あんたと将棋で勝負しようとしているのさ。もしそれに勝ったら世界中を無期限で旅行させてやるよ。しかも、宿泊施設と3食付けて全て無料だ」
とカラスはふてぶてしく言った。
「俺が負けたらどうなるんだ」
「うちらの側に所属してもらうぞ」
カラスは、頭の中にICチップを埋め込まれていると言った。また人工知能の組織に仕えていることもわかったのだ。今回その団体を拡大するために、ホテルから
「なあカラスくん。いきなりそんな話をされて俺が了解すると思うのかい」
「でも、受けて立った方がいいぜ」
「俺はなあ将棋を趣味でやっているんだ。そんな人間が人工知能の側と競うなんて負けるに決まっているじゃないか!」
カラスの嘴が開き、グァーガーアーという不吉な鳴き声が響き渡る。
「もし、やらなかったらこの町から外には出られなくなるよ」
「しょうがない、やろうじゃないか。それなら対局の詳細を教えてくれ」
よし、と頷いてカラスは
「メモの用意をしなよ。対局はちょうど1年後の今日の日付だ。ボーリング場の隣にあるカラオケ店で、午前10時に開始するから10分前にはそこへ来てくれ」
「相手はどのくらいの強さなんだい?」
「アマチュアの4段さ」
と言ってカラスは2・3回軽く飛び跳ねた。
「あんたは今アマチュアの2段だから、あとプラス3段くらい強くならないと負けちゃうぞ」
「要するに俺に勝ち目はないってことか」
「間違いなく、そうだろうな。1年で急激に棋力が上がるとも思えないし」
「もう少し、弱い相手にしてくれないか」
「だめだよ、そんなの」
カラスの大きな丸い、ガラスみたいな目玉が緑色に光った。どんなにお願いしても、アマチュア4段と対局させるのだろう。
「なあ、そんな俺にとって不利な条件ならハンディキャップをくれよ」
「上司に相談しておくよ」とカラスは事務的に言った。
カラスはくるりと半回転して後ろ向きになった。それからふわりと宙に浮き、誇らしげに羽ばたくと外の電線に着地している。
カラスが西の空へ飛翔すると、いつもより大きな月が何かを告げるように黄色く輝いていた。いつの間にか世の中は一変したようだ。
ベランダから室内に入り、彼はどうしたら将棋がもっと強くなるのかを考えながら眠った。
翌日
「
「ええ。1年後にやるんです」
「それなら、今日から将棋の勉強をしよう」
将棋の精霊は賢そうな目を細め、
「あなたと練習対局するのですか?」
「いや違う、この駒を使って9手詰の詰将棋を解くことを勧めに、本と一緒に持ってきたんだ」
「そんな物まで用意してくれるなんてありがたい。俺は多少強くなりますよ」
「なに、多少だと、アマチュア4段に勝たなきゃならんのだぞ!」
「そうでした。相当に腕を上げて臨まないとだめですね」
「その調子で、精進しなさい」
本に出ている通りに、将棋の精霊は部屋にあった将棋盤の上へ駒を配置した。
「毎日これをやればいいのですか?」
「ああ、勉強中は孤独になるが本番で勝つために続けなさい」
近くの窓を
2日後の休日に、
「ちゃんと問題を解いているようだな」
「ええ、1問に1時間近く考える場合もありますけど」
「そうだろうな。難問も入っているんだ」
「1年間続けるのは大変ですよ」
「1年なんてあっという間だ。詰将棋だけでなく、中盤も強くなるための実力を磨こう」
将棋の精霊は、テーブルの上にあった携帯電話の電源を入れ、手をかざした。その画面には将棋の対局途中の図面が出ている。
「携帯電話で中盤を鍛えるのですか?」
「そうだよ、これは次の一手の問題だ。それを解くことで、本番の勝負でも不利な状況を打破するような、好手を指せるようになるぞ」
「この問題は▲8三飛が答えですか?」
「残念。正解は▲8一飛だ」
それからも
「わしはこれで帰るが、遠く離れた所からでも君のことを応援しているよ」
将棋の精霊は肩を左右に揺らして歩き出し、自分の手で窓を開き出て行ってしまった。それから
1週間後、
「最近、疲れているように見えるけど大丈夫なの?」
と
「実は、人工知能の組織と将棋で勝負することになったんだ」
「でもどうして、そんなに疲れたようになるの?」
「うん、このところ毎日夜中まで将棋の勉強をしていたんだ」
「そんな相手とどうしても対局しなきゃならないの?」
「ああ、それをやらないとこの町から外には、出られなくなると言われたんだ。そんなことはさせないよ」
「相手は強いんでしょ、勝ち目はあるの?」
「今は勝てないけど、対局まであと1年あるから、諦めたりしないよ」
「私が役に立てることってあるかしら」
と
「もし相手の戦略がわかれば教えてほしいんだ」
その後将棋の精霊が
やがて対局まで半年となったある日、
「
亀は長い首を上に伸ばしたまま親しげな挨拶をした。喋り方は少年みたいに素朴ではっきりしている。顔は小さくて宇宙人のようだ。首に付いた縦に長い皺はかなりの年輪を重ねた証だろう。
「どちらさんだい」
「私は将棋の精霊の知り合いで、ガラパゴスゾウガメです」
「そうだったのか」
「あの方からあなたのことはよく聞いています」
「どこから来たの?」
「ピンタ島ですよ、ガラパゴス諸島にあるんだけど、将棋の精霊の力で瞬間移動したんです」
「だからそんな遠くから、いきなりこの部屋に入れたのか!」
「ええ、僕のことはガラポンと呼んで下さい。今年の12月で3回目の還暦を迎えたので180歳です」
桂三は亀の重みで、少しへこんだ畳の損傷に視線を向けた。
「俺にどんな用があるんだい」
「恩返しをしたいんです。あなたのお父さんに救われたので」
「父にも会ったの?」
「いいえ、将棋の精霊の世界に掟があって、恩人には会ってはいけないのです」
「でも俺には会えるのか?」
「はい、それも決まりで恩人の子孫には、会って恩に報いることが許可されていますから」
窓際に亀が移動するとほのかに潮風の匂いがした。元にいた島での影響も亀の体に染みついているようだ。
彼は後で畳の掃除がかなり面倒くさくなる心配をした。そして、
「父はあんたにどんなことをしたんだ」と彼が尋ねると、亀は伸びきった首を一度引っ込め、口に雑誌をくわえて再び顔を突き出した。
亀の話では、その雑誌に掲載されたある記事に感謝しているとのことだった。それは父の書いた亀の密漁に関する見解が出ているものだ。
亀は希少価値の高い種類のものほど狙われ、捕らえられると金に換えられ、やがて酷い扱いを受けながら絶滅に近づいていく、と書かれている。
「それが多くの人に読まれたことで、世の中で亀に救済措置を取ろうとする動きが始まったんですよ」
と亀は言った。
「それで、ガラポンは俺にどんなことをしてくれるんだ?」
と彼は率直に尋ねた。
そして亀は、
「どこにあるの、そのパソコン?」
「ハワイ島付近の海底です」
「そんな所に隠されてるなんて!」
亀はそのノートパソコンにUSBメモリーを差し込めば、対局時に相手の持ち時間だけを少なくできると説明した。
「それは市販のUSBメモリーでいいのかい?」
「いいえ、私自身が変身して、3センチのUSBメモリーになるんです」
と亀は
彼は目の前にいる亀が、縮小されたことを想像してそんな物を壊れないように、海底で使うのは不可能だと思った。だが
「私が変身しても、専用のケースを付ければ壊れずに機能しますよ」
と言った。
「それは、ガラポンが持っているの?」
「はい、今出します」
と答えて亀は、ゆらゆらと腰を揺らし後方から、小さな透明のケースを落とした。亀の説明によると、海底にあるノートパソコンへケースを付けたまま、USBメモリーを差し込めるとのことだ。
「やり方はわかったけど、よく考えたら、俺にハワイ島へ行くだけの休みはないよ」
「大丈夫です、今日中に出発しましょう」
「だってもう夜の9時になるところだぞ、飛行機の予約も取ってないし、3日後には仕事があるんだ」
「この家の浴槽が、ハワイ島の海へ繫がるのですぐに行けるんです」
と亀は言った。
それから
「照明をつけた時、私はUSBメモリーになっています。そうなったら、それにケースを付けて手に持ったまま、浴槽の中へ入って下さい」
「わかった。それで海へ行けるんだな」
と
亀はそれを肯定してから、海中の様子を彼に詳しく教えたのだ。やがて、1時間が経ち
彼が部屋の照明を入れた時、テーブルの上に亀の形で、3センチ程のUSBメモリーが置いてあったのだ。
彼の頭が水に浸かると、そこはもう海の広がりになっている。そしてすぐに、10頭のイルカが、一つの大きな円を描くようにして近づいて来た。
やがてくす玉程の直径の渦ができて、そこへ
彼はそんな状況でも、呼吸を地上にいる時と過不足なくできていたのだ。
幾つかの筋となった、光とイルカの影は揺らめき、彼はそれを眺めながら下へと向かう自然の力に身を任せていたのだ。
その後足元を花びらで白く埋め尽くした海底にたどり着き、間近に現れたバルセロナのサグラダ・ファミリアを、細長くしたような建物に囲まれた。
彼は海底にいると遠近感をつかめないようになってしまった。そしてその建物の入り口から黒い着物姿の少女が、何かに運ばれるみたいに接近して来るように見えた。
彼は少女の切れの長い、美しく涼やかな目を見て遠い昔へ、タイムスリップした気がした。その桜色の唇に、ほっそりとした顔は高貴な輝きに包まれていて、どこからともなく胡弓の切ない旋律が漂っている。
「この辺にノートパソコンがあるか知ってる?」
と
「
と言って彼女は身を屈め、周囲の花びらを手でかき分けた。小石のある海底の表面が見え、砂埃が舞っている。
「ちょっと、どいていてくれ」
と言って
「それです、早く左側にUSBメモリーを挿入して下さい」
と彼女は
「これでいいのかい」
と
水分の失われた場所で、取り残されたように立ち尽くした二人は、切り離れた波と共に空高く跳ね上がる竜を凝視している。
やがて地響きが轟き渡り、二人を囲んでいた建物の先端部分が、狙いを定めたみたいに落下してきた。
「アパートの廊下で倒れてここに運ばれたのよ」
と看護婦は
「俺はずっと眠っていたのか」
「そうよ、でも意識が戻ってよかったわ」
と言って、彼女は熱を測るため彼に体温計を渡した。
「汗でびしょ濡れだ」
「そう言えば寝ている間に、海の中のことを口にしていたわよ。あと『亀』とか『竜』のことでうなされていたの。悪い夢を見ているようだったわ」
「今見ていることの方が夢みたいだ」
「暫くは、体を休めることだけを考えて下さいね」
その後彼は医者と話し合い、精密検査を受けることになったのだ。そして2日間入院することが決まり、会社を1週間休んだ後で仕事に復帰できるようになった。
やがて突風が通り過ぎるように時は流れていった。
彼はこれまでにできる限りの、情報収集を行ったが敵の作戦はわからないままだった。だが
「海外にいる超一流のプログラマーが、遠隔操作をして人工知能の組織のプログラム内容を変えたのよ」
と
また彼はなんとか、アマチュア4段まで実力を付けていたが、その日の夜になかなか眠ることはできなかった。
対局当日になり
そして店員立会いの下、予定通り
「よろしくお願いします」
という機械音声が響いた時、彼の背筋にぞくぞくと悪寒が走った。
「▲7六歩△3四歩▲6六歩・・・・・・」
激闘の末、113手で先手
翌日職場で
「これで町の外に出て、世界中を好きなだけ旅することもできるわね」
と
2週間後パスポートを更新するため、
「手続きはこれで一旦終わりますが、もうこの町から外へ出ることは諦めて下さい」
とその男は言った。
「うっ・・・・・・なんだって、何か非常事態でも起きたんですか?」
「ええ、もうこの世界は、人工知能に支配されているんですよ。それに人間は、あなたと私だけしか生き残っていません」
と言ってから、白髪の男は両目を見開いたまま蝋人形のように、ぴくりとも動かなくなっている。
やがて将棋の精霊が来て「早くここを出て新しい世界へ行こう」と叫んだが、
暫くして彼が、歩けるようになると将棋の精霊は消えてしまっている。部屋を出てエレベーターで1階へ降りると、館内放送から「これから来る高速バスに乗りなさい」という指示が聞こえた。
また外は人が消えてしまったように、その影すら見つけられなかった。ただ灰色の空に、全身が真っ白く変色した、数羽のカラスが旋回している。
彼が一番前の席で、勝手に左右に動くハンドルを見ていると、機械音声の案内とともに高速道路に入った。
いつの間にか眠っていた
車内の通路には、獣の足跡のような泥が散乱している。彼が外へ出て現在地がどこなのかを知るために、人間を探しても誰一人発見できず、ずいぶん前にこの地は無人島になったことを示す資料が残っていた。
彼は山道でやっと拾うことのできた
その見かけは、円形から扇形になり上部まですっぽり消えると、辺りは闇に覆われている。
新世界 黒部雷太郎 @bookmake
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