新世界

黒部雷太郎

第1話 新世界

 桂三けいぞうの唯一の趣味は将棋だった。1年前に一人暮らしを始めてからは、部屋にテレビも置かずラジオを聴いたり本を読むことが多い。

 そしてホテルでのフロントの仕事は勤務時間が長く、夜勤明けで帰宅するとぐったりしている。しまわれていないままの蒲団へ寝そべり、目を覚ました時には午後になっているのもいつものことだ。

 近所には牛丼屋がある。彼は少し寝ぼけたままマンションの階段を下り、電柱近くのごみ置き場にごみを出しその店で食事をすることにしていた。

 ある日桂三けいぞうが買い物から戻り、西日の残る夕暮れにベランダで煙草を吸っているとカラスが近づいて来る。

「ねえ、桂三けいぞう。うちらの挑戦を受けないか」

 彼は動物が喋るようになった、という噂は知っていたが実際にそれを聞くのは初めてだった。

「えっ、お前みたいなカラスがどんな挑戦をしたいんだ!」

 桂三けいぞうは視線をカラスに向けた。いつの間にかその大きな嘴の先に薄い将棋盤をくわえている。桂三けいぞうはそれを落っことして傷めないように取った。

 将棋の駒はなく木製の正四角形のその盤に、大きな字で対局は1年後だと書かれている。

「うちらはねえ、あんたと将棋で勝負しようとしているのさ。もしそれに勝ったら世界中を無期限で旅行させてやるよ。しかも、宿泊施設と3食付けて全て無料だ」

 とカラスはふてぶてしく言った。

 桂三けいぞうは質問をしようとしたが言葉に詰まっている。カラスの黒々とした羽根は、幾つか抜け落ち風に吹かれて舞っていった。

「俺が負けたらどうなるんだ」

に所属してもらうぞ」

 カラスは、頭の中にICチップを埋め込まれていると言った。また人工知能の組織に仕えていることもわかったのだ。今回その団体を拡大するために、ホテルから桂三けいぞうを引き抜く計画が立てられている。カラスは、その組織の手先として将棋の勝負を持ち掛けてきたのだった。

「なあカラスくん。いきなりそんな話をされて俺が了解すると思うのかい」

「でも、受けて立った方がいいぜ」

「俺はなあ将棋を趣味でやっているんだ。そんな人間が人工知能の側と競うなんて負けるに決まっているじゃないか!」

 カラスの嘴が開き、グァーガーアーという不吉な鳴き声が響き渡る。

「もし、やらなかったらこの町から外には出られなくなるよ」

「しょうがない、やろうじゃないか。それなら対局の詳細を教えてくれ」

 よし、と頷いてカラスは桂三けいぞうの手前へ移動した。

「メモの用意をしなよ。対局はちょうど1年後の今日の日付だ。ボーリング場の隣にあるカラオケ店で、午前10時に開始するから10分前にはそこへ来てくれ」

「相手はどのくらいの強さなんだい?」

「アマチュアの4段さ」

 と言ってカラスは2・3回軽く飛び跳ねた。

「あんたは今アマチュアの2段だから、あとプラス3段くらい強くならないと負けちゃうぞ」

「要するに俺に勝ち目はないってことか」

「間違いなく、そうだろうな。1年で急激に棋力が上がるとも思えないし」

「もう少し、弱い相手にしてくれないか」

「だめだよ、そんなの」

 カラスの大きな丸い、ガラスみたいな目玉が緑色に光った。どんなにお願いしても、アマチュア4段と対局させるのだろう。

「なあ、そんな俺にとって不利な条件ならハンディキャップをくれよ」

「上司に相談しておくよ」とカラスは事務的に言った。

 桂三けいぞうはやっと自分の意見を聞いてもらえたことにほっとした。

 カラスはくるりと半回転して後ろ向きになった。それからふわりと宙に浮き、誇らしげに羽ばたくと外の電線に着地している。

 カラスが西の空へ飛翔すると、いつもより大きな月が何かを告げるように黄色く輝いていた。いつの間にか世の中は一変したようだ。桂三けいぞうは人工知能が、人間の情報を完全に掌握しているように思えてきた。

 ベランダから室内に入り、彼はどうしたら将棋がもっと強くなるのかを考えながら眠った。

 翌日桂三けいぞうが仕事を終え、キッチンで夕食を作っていると、窓をコツン・コツンと叩く音がした。カーテンをどかして窓を開くと、将棋の精霊が内側へ入っている。全長1メートル程で、将棋の駒の形をした体に、丸い顔と短い手足があった。

桂三けいぞう君、人工知能の組織と将棋で勝負することになったそうだな」

「ええ。1年後にやるんです」

「それなら、今日から将棋の勉強をしよう」

 将棋の精霊は賢そうな目を細め、桂三けいぞうに将棋の駒を差し出した。

「あなたと練習対局するのですか?」

「いや違う、この駒を使って9手詰の詰将棋を解くことを勧めに、本と一緒に持ってきたんだ」

「そんな物まで用意してくれるなんてありがたい。俺は多少強くなりますよ」

「なに、多少だと、アマチュア4段に勝たなきゃならんのだぞ!」

「そうでした。相当に腕を上げて臨まないとだめですね」

「その調子で、精進しなさい」

 本に出ている通りに、将棋の精霊は部屋にあった将棋盤の上へ駒を配置した。桂三けいぞうがそれを動かして玉を詰ますと、将棋の精霊は正解だと言った。

「毎日これをやればいいのですか?」

「ああ、勉強中は孤独になるが本番で勝つために続けなさい」

 近くの窓を桂三けいぞうに開けさせてから、将棋の精霊は夜の闇へ姿を消したのだ。

 2日後の休日に、桂三けいぞうがベランダの洗濯物を取り込んでいると、隣部屋との仕切り付近に将棋の精霊が現れている。そして将棋の精霊は指で示して、室内へ入れるように指示を出した。

「ちゃんと問題を解いているようだな」

「ええ、1問に1時間近く考える場合もありますけど」

「そうだろうな。難問も入っているんだ」

「1年間続けるのは大変ですよ」

「1年なんてあっという間だ。詰将棋だけでなく、中盤も強くなるための実力を磨こう」

 将棋の精霊は、テーブルの上にあった携帯電話の電源を入れ、手をかざした。その画面には将棋の対局途中の図面が出ている。

「携帯電話で中盤を鍛えるのですか?」

「そうだよ、これは次の一手の問題だ。それを解くことで、本番の勝負でも不利な状況を打破するような、好手を指せるようになるぞ」

「この問題は▲8三飛が答えですか?」

「残念。正解は▲8一飛だ」

 それからも桂三けいぞうは、将棋の精霊の出題する次の一手の問題に、なかなか正解することができなかった。やっと10問目で答えが当たると、午前の12時になってしまっている。

「わしはこれで帰るが、遠く離れた所からでも君のことを応援しているよ」

 将棋の精霊は肩を左右に揺らして歩き出し、自分の手で窓を開き出て行ってしまった。それから桂三けいぞうが後を追って探しても、その姿はどこにも見当たらなかったのだ。

 1週間後、桂三けいぞうは仕事中に目眩めまいを起こし、倒れそうになりながら休憩時間になるのを待った。彼は同僚の20代の女性から心配され、鏡を見て顔色が悪くほほもいくぶんせこけているのに気づいた。

「最近、疲れているように見えるけど大丈夫なの?」

 とかおりという名前の同僚は言った。彼女はまつ毛が長く、時折笑うと10代のように若く見える。

「実は、人工知能の組織と将棋で勝負することになったんだ」

「でもどうして、そんなに疲れたようになるの?」

「うん、このところ毎日夜中まで将棋の勉強をしていたんだ」

 桂三けいぞうがそれを打ち明けると、かおりの表情が一瞬歪んだ。また彼女の眼つきは哀しい運命を背負った者を、やるせない想いで見ているようだった。

「そんな相手とどうしても対局しなきゃならないの?」

「ああ、それをやらないとこの町から外には、出られなくなると言われたんだ。そんなことはさせないよ」

「相手は強いんでしょ、勝ち目はあるの?」

「今は勝てないけど、対局まであと1年あるから、諦めたりしないよ」

 桂三けいぞうはそう答えたが、仕事の後に将棋に取り組むのは、あまりにもしんどいと思った。仕事の時間を減らして、将棋の勉強量を増やしたくても生活費が、不足してきているのでこれまでの条件で働くしかない。

「私が役に立てることってあるかしら」

 とかおりはパソコンのキーボードを入力しながら言った。

「もし相手の戦略がわかれば教えてほしいんだ」

 桂三けいぞうがそれを頼むとかおりは知人を通じて、人工知能の組織を調査すると言った。

 その後将棋の精霊が桂三けいぞうの家を訪れることはなく、彼の孤独な将棋への取り組みが続いた。桂三けいぞうはどうしても序盤を上手に指せなかったが、プロ棋士の指し手を新聞から学ぶうちに、なんとかその苦手意識も消えている。

 やがて対局まで半年となったある日、桂三けいぞうが蒲団で横になり、うとうとしていると畳の擦れる音がした。彼は何者かの、突然の侵入を感じ焦って部屋に照明をつけたのだ。

 桂三けいぞうがギシギシという音の方へ顔を向けると、巨大な亀が這っていた。その4つの手足が畳みの上で動いている。体長は1メートル程あり甲羅もでかい。ぶつかり合う前の、力士のような亀の格好を見た桂三けいぞうは、面食らってしまった。

桂三けいぞうさんこんばんは」

 亀は長い首を上に伸ばしたまま親しげな挨拶をした。喋り方は少年みたいに素朴ではっきりしている。顔は小さくて宇宙人のようだ。首に付いた縦に長い皺はかなりの年輪を重ねた証だろう。

「どちらさんだい」

 桂三けいぞうは見覚えのない亀に尋ねた。彼は以前カラスと話したことで、動物との会話に違和感がなくなっている。まじまじと見ると甲羅は、ずいぶん干からびていたが所々に、緑の地の色を残していて身を守るのに充分頑丈そうだ。また顔から首までと両手足は、象と同じような色をしていた。

「私は将棋の精霊の知り合いで、ガラパゴスゾウガメです」

「そうだったのか」

「あの方からあなたのことはよく聞いています」

「どこから来たの?」

「ピンタ島ですよ、ガラパゴス諸島にあるんだけど、将棋の精霊の力で瞬間移動したんです」

「だからそんな遠くから、いきなりこの部屋に入れたのか!」

「ええ、僕のことはガラポンと呼んで下さい。今年の12月で3回目の還暦を迎えたので180歳です」

 桂三は亀の重みで、少しへこんだ畳の損傷に視線を向けた。

「俺にどんな用があるんだい」

「恩返しをしたいんです。あなたのお父さんに救われたので」

 桂三けいぞうはそれを聞いて、若い頃の父親が動物愛護団体に所属していて、幾つかの爬虫類を保護していたことを思い出した。

「父にも会ったの?」

「いいえ、将棋の精霊の世界に掟があって、恩人には会ってはいけないのです」

「でも俺には会えるのか?」

「はい、それも決まりで恩人の子孫には、会って恩に報いることが許可されていますから」

 窓際に亀が移動するとほのかに潮風の匂いがした。元にいた島での影響も亀の体に染みついているようだ。桂三けいぞうは亀に親しみを感じたが、床のタイルみたいな形をした、亀の爪の下は泥で汚れている。

 彼は後で畳の掃除がかなり面倒くさくなる心配をした。そして、桂三けいぞうは亀がどんな恩返しをしてくれるのか知りたくなっていった。

「父はあんたにどんなことをしたんだ」と彼が尋ねると、亀は伸びきった首を一度引っ込め、口に雑誌をくわえて再び顔を突き出した。

 亀の話では、その雑誌に掲載されたある記事に感謝しているとのことだった。それは父の書いた亀の密漁に関する見解が出ているものだ。

 亀は希少価値の高い種類のものほど狙われ、捕らえられると金に換えられ、やがて酷い扱いを受けながら絶滅に近づいていく、と書かれている。

「それが多くの人に読まれたことで、世の中で亀に救済措置を取ろうとする動きが始まったんですよ」

 と亀は言った。

 桂三けいぞうは、子供の頃連れて行ってもらった動物園で父親から珍しい動物について解説された記憶が蘇った。

「それで、ガラポンは俺にどんなことをしてくれるんだ?」

 と彼は率直に尋ねた。

 そして亀は、桂三けいぞうが半年後に人工知能の組織と将棋で勝負することに、貢献しようとしていることがわかった。またその組織が本番で使用する、ノートパソコンを発見したと言ったのである。

「どこにあるの、そのパソコン?」

「ハワイ島付近の海底です」

「そんな所に隠されてるなんて!」

 亀はそのノートパソコンにUSBメモリーを差し込めば、対局時に相手の持ち時間だけを少なくできると説明した。

「それは市販のUSBメモリーでいいのかい?」

「いいえ、私自身が変身して、3センチのUSBメモリーになるんです」

 と亀は桂三けいぞうの思いつかないことを教えた。

 彼は目の前にいる亀が、縮小されたことを想像してそんな物を壊れないように、海底で使うのは不可能だと思った。だが桂三けいぞうがそれを口に出す前に、亀は心配ないという感じで手を振り、

「私が変身しても、専用のケースを付ければ壊れずに機能しますよ」

 と言った。

「それは、ガラポンが持っているの?」

「はい、今出します」

 と答えて亀は、ゆらゆらと腰を揺らし後方から、小さな透明のケースを落とした。亀の説明によると、海底にあるノートパソコンへケースを付けたまま、USBメモリーを差し込めるとのことだ。

「やり方はわかったけど、よく考えたら、俺にハワイ島へ行くだけの休みはないよ」

「大丈夫です、今日中に出発しましょう」

「だってもう夜の9時になるところだぞ、飛行機の予約も取ってないし、3日後には仕事があるんだ」

「この家の浴槽が、ハワイ島の海へ繫がるのですぐに行けるんです」

 と亀は言った。

 それから桂三けいぞうは、1時間後に亀がUSBメモリーに変身することを知ったのだ。そして亀は、午後10時になったら、部屋の照明を1分間消すように指示を出した。

「照明をつけた時、私はUSBメモリーになっています。そうなったら、それにケースを付けて手に持ったまま、浴槽の中へ入って下さい」

「わかった。それで海へ行けるんだな」

 と桂三けいぞうは問いかけた。

 亀はそれを肯定してから、海中の様子を彼に詳しく教えたのだ。やがて、1時間が経ち桂三けいぞうは言われていた通り、室内の照明を切り1分間待った。

 彼が部屋の照明を入れた時、テーブルの上に亀の形で、3センチ程のUSBメモリーが置いてあったのだ。

 桂三けいぞうはそれにケースを付けて風呂場へ持って行った。彼が浴槽の中を覗くと、その底の材質は無く、どこまでも深い水に変わっている。桂三けいぞうは茶色のシャツに、ブルージーンズの格好で浴槽から下へと、身を潜らせて行ったのだ。

 彼の頭が水に浸かると、そこはもう海の広がりになっている。そしてすぐに、10頭のイルカが、一つの大きな円を描くようにして近づいて来た。

 やがてくす玉程の直径の渦ができて、そこへ桂三けいぞうの体がはまった。傍にいたイルカが、踊るように回転し始めると、渦と共にみんなで降り続けている。

 彼はそんな状況でも、呼吸を地上にいる時と過不足なくできていたのだ。桂三けいぞうは亀が海中では、イルカが充分な酸素を分けてくれる、と説明していたのを思い出した。

 幾つかの筋となった、光とイルカの影は揺らめき、彼はそれを眺めながら下へと向かう自然の力に身を任せていたのだ。

 桂三けいぞうは直立した姿勢で移動している。やがて全てのイルカが離れてしまい、視界に白い花びらが増えていった。それが顔の近くを横切るとシナモンの香りがしている。

 その後足元を花びらで白く埋め尽くした海底にたどり着き、間近に現れたバルセロナのサグラダ・ファミリアを、細長くしたような建物に囲まれた。

 彼は海底にいると遠近感をつかめないようになってしまった。そしてその建物の入り口から黒い着物姿の少女が、何かに運ばれるみたいに接近して来るように見えた。

 桂三けいぞうは相手が立ち止まってから傍に寄った。彼女は海底に積もった、花びらのような白い肌をしていた。そして儚く海中で消えてしまいそうだった。

 彼は少女の切れの長い、美しく涼やかな目を見て遠い昔へ、タイムスリップした気がした。その桜色の唇に、ほっそりとした顔は高貴な輝きに包まれていて、どこからともなく胡弓の切ない旋律が漂っている。

「この辺にノートパソコンがあるか知ってる?」

 と桂三けいぞうは少女に尋ねた。

桂三けいぞうさんですね。私はあなたと話したガラパゴスゾウガメに仕える者です。ノートパソコンは私の足の下に埋められていますよ」

 と言って彼女は身を屈め、周囲の花びらを手でかき分けた。小石のある海底の表面が見え、砂埃が舞っている。

「ちょっと、どいていてくれ」

 と言って桂三けいぞうは少女の立ち位置を変えさせて、その場所を両手ですくうように掘った。すると横幅30センチ程の黒いノートパソコンが見つかったのだ。

「それです、早く左側にUSBメモリーを挿入して下さい」

 と彼女は桂三けいぞうの脇から指で示して言った。彼がUSBメモリーを、ズボンのポケットから出しノートパソコンに差し込むと、自動的に起動している。

「これでいいのかい」

 と桂三けいぞうが確認すると、背後から巨大な赤い竜が突進して来た。二人の手前で急停止した竜は、猛スピードで上昇し始め海が二つの崖のように裂けていった。

 水分の失われた場所で、取り残されたように立ち尽くした二人は、切り離れた波と共に空高く跳ね上がる竜を凝視している。

 やがて地響きが轟き渡り、二人を囲んでいた建物の先端部分が、狙いを定めたみたいに落下してきた。桂三けいぞうが、少女の体をかばうために腕を掴むと、建物の鋭い一部分は頭上に達している。

 桂三けいぞうは叫び声を発し目を覚ました。彼は暫くの間天井を眺めていたが、そこが病室であることをなかなか理解できなかった。そして中に入って来た看護婦から、話かけられると遠くの空から声が、降りてくるように聞こえた。

「アパートの廊下で倒れてここに運ばれたのよ」

 と看護婦は桂三けいぞうに教えた。

「俺はずっと眠っていたのか」

「そうよ、でも意識が戻ってよかったわ」

 と言って、彼女は熱を測るため彼に体温計を渡した。

「汗でびしょ濡れだ」

 桂三けいぞうは自分の発汗で、シーツも湿っているのに驚いた。

「そう言えば寝ている間に、海の中のことを口にしていたわよ。あと『亀』とか『竜』のことでうなされていたの。悪い夢を見ているようだったわ」

「今見ていることの方が夢みたいだ」

「暫くは、体を休めることだけを考えて下さいね」

 その後彼は医者と話し合い、精密検査を受けることになったのだ。そして2日間入院することが決まり、会社を1週間休んだ後で仕事に復帰できるようになった。

 桂三けいぞうは再び、将棋の勉強を再開したが入院していた間に、これまで向上してきた実力が失われてしまったような不安を覚えている。

 やがて突風が通り過ぎるように時は流れていった。桂三けいぞうには、1ヵ月程度しか経っていないような感覚でも、既に対局の前日になっている。

 彼はこれまでにできる限りの、情報収集を行ったが敵の作戦はわからないままだった。だがかおりの人脈を活かしたスパイ活動によって、対戦相手の指し手を一手10秒以内とすることには成功したのだ。

「海外にいる超一流のプログラマーが、遠隔操作をして人工知能の組織のプログラム内容を変えたのよ」

 とかおりは説明した。

 桂三けいぞうは持ち時間を2時間与えられたので、じっくりと考えながら指せることは心理的に安心できる。

 また彼はなんとか、アマチュア4段まで実力を付けていたが、その日の夜になかなか眠ることはできなかった。

 対局当日になり桂三けいぞうが会場のカラオケ店へ行くと、2階の大部屋を案内された。ドアを開けると将棋盤に、駒が定位置に並べて用意されている。室内の奥には頭の禿げ上がった、面長で丸い縁の眼鏡をした老人が椅子に腰かけていた。

 そして店員立会いの下、予定通り桂三けいぞうが、持ち時間を2時間の条件で勝負は開始されたのだ。相手のパソコンが起動すると、人間のように見えていた老人は人型のアンドロイドだとわかった。

「よろしくお願いします」

 という機械音声が響いた時、彼の背筋にぞくぞくと悪寒が走った。

「▲7六歩△3四歩▲6六歩・・・・・・」桂三けいぞうは序盤に守りを固め、駒損を防ぎじわじわと敵陣を制圧した。一方相手は、せわしなく一手10秒以内に応戦する。終盤になると、彼は成り駒を増やし敵玉を取り囲んだ。

 激闘の末、113手で先手桂三けいぞうの勝利。

 桂三けいぞうはこれまでの緊張から解放され、全身から力が抜けたような状態で店を立ち去った。

 翌日職場でかおりを中心として、盛大な彼の祝勝会が催された。

「これで町の外に出て、世界中を好きなだけ旅することもできるわね」

 とかおりは嬉しそうに言った。

 2週間後パスポートを更新するため、桂三けいぞうが駅前の旅券事務所を訪れると、その中は職員一人いるだけで他に誰かが来る気配はいつまでもない。

 桂三けいぞうが受付にいる職員の白髪の男に書類を提出すると、

「手続きはこれで一旦終わりますが、もうこの町から外へ出ることは諦めて下さい」

 とその男は言った。

「うっ・・・・・・なんだって、何か非常事態でも起きたんですか?」

「ええ、もうこの世界は、人工知能に支配されているんですよ。それに人間は、あなたと私だけしか生き残っていません」

 と言ってから、白髪の男は両目を見開いたまま蝋人形のように、ぴくりとも動かなくなっている。

 やがて将棋の精霊が来て「早くここを出てへ行こう」と叫んだが、桂三けいぞうは両足が固まってしまい、その場を離れられなくなった。

 暫くして彼が、歩けるようになると将棋の精霊は消えてしまっている。部屋を出てエレベーターで1階へ降りると、館内放送から「これから来る高速バスに乗りなさい」という指示が聞こえた。

 桂三けいぞうは言われた通り、数分後に正面玄関前へ現れた、高速バスに入り口側のドアから乗車したのだ。運転手もいないその無人バスは、すぐに動き出し町中を縫うように走行している。

 また外は人が消えてしまったように、その影すら見つけられなかった。ただ灰色の空に、全身が真っ白く変色した、数羽のカラスが旋回している。

 彼が一番前の席で、勝手に左右に動くハンドルを見ていると、機械音声の案内とともに高速道路に入った。

 いつの間にか眠っていた桂三けいぞうが、目を覚ますと高速バスの中での位置は運転席に変わっている。スクリーンみたいに大きな、フロントガラスから海岸一帯が視界に入った。

 車内の通路には、獣の足跡のような泥が散乱している。彼が外へ出て現在地がどこなのかを知るために、人間を探しても誰一人発見できず、ずいぶん前にこの地は無人島になったことを示す資料が残っていた。

 桂三けいぞうの所持金の残高は底をついている。また手持ちの小型通信機器も通常に機能しなかった。廃墟と化した、店や家屋の中に食料はかけらさえ見当たらない。

 彼は山道でやっと拾うことのできた蜜柑みかんと海水で空腹をしのいだ。歩き疲れ、翌日になるまで動くのを諦め夕暮れの海岸へ戻ると、えんじ色の太陽が生き物のように海中へ沈み始めた。

 その見かけは、円形から扇形になり上部まですっぽり消えると、辺りは闇に覆われている。

 桂三けいぞうは高速バスの中へ入り、足がもつれたまま、運転席へ腰を下ろした。そして誰かに、ここがなのか、尋ねたい衝動に駆られたのだ。何も見えないはずの暗闇で、彼の目から床に落ちた涙が、真珠の粒に変わり小さな輝きを放っている。

 桂三けいぞうはそれを拾う前に、二度と起きることのないような眠りへと、意識が薄れていくのを感じたのだった。



       












 









 

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