沖縄に残る太平洋戦争の傷跡は大きい

 さて、考え事をしている間に沖縄へ到着した。


 ざざっと京都嵐山美術館に関しての問題点などをメモ帳へ書き込んで、北条先輩に声をかける。


「北条先輩。

 やっぱり、谷津遊園でも知覧特攻平和会館のような、旧日本軍の飛行機や船舶などを展示しよう。

 もともとスターライナーがおいてあったわけだしね。

 で、知覧特攻平和会館はともかく、今年開館しているはずの京都の嵐山美術館の展示物は結構雑な扱いをされているみたいだし、なんとかこっちで引き取れないかな?」


 ”前”では嵐山美術館は昭和61年(1986年)に開館し、5年後の平成3年(1991年)には閉館していて、展示物の管理がずさんで部品が盗まれたり、閉館時のドタバタで展示品が散逸したりもしていてちょっともったいない。


「嵐山に博物館が?」


「うん、個人で集めたものを展示しているみたいなのだけどね。

 部品を盗まれたりしているみたいで、疾風を売り渡したマロニー博物館もそういった事を咎めだてしているみたいだし」


「なるほど、では早めに手を打つべきですわね」 


 実際閉館時に国内唯一だった大発動艇は破棄され、三式戦闘機飛燕の残骸も所在がわからなくなったりなどをしていてちょっとありえない扱いの悪さなのだ。


 無論本来は盗んだ者が責められるべきであるのだけども、開館当初は兵器に直接手に触れることができたほか、戦闘機のコクピットに座ることができたが、劣悪な管理状況から、戦闘機の部品や戦車のパーツが来訪者に盗まれる事件が相次いで起きたというのはちょっとありえないよな。


 まあそれはともかく沖縄本島へ到着した後は、首里城公園で首里城跡を見る。


 首里城の創建年代は明らかではないが、13世紀末から14世紀頃に創建されて、尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。


 何度も焼失しているが、そのたびに再建をされてきていた。


 明治12年(1879年)の沖縄県設置以降は日本陸軍の熊本第6師団の軍営として使われたりしたが、太平洋戦争中の沖縄戦において、日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、昭和20年(1945年)5月25日から3日間に渡りアメリカの戦艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる、宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。


 戦後しばらくして一部は返還されたが、殆どのものは戻ってきていない。


 アメリカの正義なんて言うのはその程度のものだ。


 昭和54年(1979年)に琉球大学が首里城跡から移転し、ことし昭和61年(1986年)に国営公園として復元整備することが閣議決定された。


 実際の再建が始まったのは平成元年(1989年)11月からで平成4年(1992年)11月2日に首里城公園が開園した。


 というわけで現状ではほぼなにもないのではあるが、アメリカの戦艦ミシシッピなどから砲撃を受けて焼失したことを説明されたりするわけだ。


「日本に対してアメリカの攻撃は爆撃機による空襲ばかり取り沙汰されるけど、沖縄だけじゃなくて北海道の室蘭や茨城県の日立、岩手県の釜石や静岡県の浜松や清水などにも行われているのだよな」


 俺がそう言うと斉藤さんがうなずいた。


「ええ、そうなのよね」


 俺たちの会話を聞いて皆複雑そうな表情だ。


「そうだったですか……」


 そして、その後はひめゆりの塔のある、ひめゆり平和祈念資料館に行き過去に起こったことを聞くことになった。


 沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員の総計240名は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍させられた。


 そして戦局が絶望的になると、学徒隊は解散を命じられたがそのときには、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。


 そして第三外科壕の学徒隊は黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡し、壕の生存者8名のうち教師1名と生徒2名は壕脱出後に銃撃され死亡した。


 これに限らずアメリカ軍は地下壕を見つけては、火炎放射器で中を焼き尽くすことを繰り返したが、その中には軍人ではない住民たちも数多く、沖縄での戦闘における被害は軍人軍属よりも民間人のほうが多かったくらいだ。


 これは後にベトナム戦争で同じように民間人を巻き込むことをアメリカ軍が繰り返してベトナムの傀儡政府に国民がそっぽを向いてベトナムは一旦社会主義化したが、結局はソ連が崩壊してベトナム戦争はなんのために行ったのかよくわからない結果になった。


 取り敢えず米国にとってベトナム戦争での敗戦以降には東アジアや東南アジアでの戦争行為はタブーになったとは思うけどな。


 それはともかくひめゆりの塔の小説が書かれ、それが戯曲化や映画化されたことで「沖縄戦の悲劇」は世に知られるようになったが、その一方でその他の学徒隊や慰霊碑などは殆ど知られなくなるという弊害もあったりするのも問題だよな。


 その次に行くのは美ら海水族館。


 昭和54年(1979)年8月にオープンしたばかりなので、まだ結構新しく水量1,100トンの水槽は開館当時世界最大でもあった。


「うわあ、ジンベエザメっておおきいのですねー」


 浅井さんが感心したように水槽を眺めているな。


「本当に大きいやつは10メートル近くになるらしいからな」


 ナンヨウマンタやウミガメなども展示されているが、たしかに南洋の海っぽい水族館だと思う。


 そうやって沖縄本島で過ごしたらホテルで一泊だな。


 明日は石垣島に移動して海水浴なんかも楽しむ予定だ。

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