『霧の中の話。』

鯰川 由良

霧の中の話。

朝五時。僕がベッドから起き上がると、窓の外は、白く霞んでいました。


テレビをつけて天気予報を見てみると、どうやら今日は、昼前まで濃霧が発生するだろう、とのことでした。



突然なのですが、僕は人と話すことがとても苦手です。人を前にすると、汗が溢れて、息が苦しくなって、何も言えなくなってしまうのです。


この症状は、小学校に上がると特に顕著に現れるようになりました。


15歳になってもそれが治らない僕は、中学校生活は、大半を保健室で過ごしています。




そんな僕はあることを思いつきました。


霧が発生している今なら、相手の顔が見えないので、色々な人と話せるのではないか。



僕は早速、コートを羽織って、外に出てみることにしました。


外は思っていたよりも寒く、僕はコートのポケットの中に手を入れました。



その時です。僕は、あることに気が付きました。


そう言えば、まだ話す内容を決めていなかったのです。


僕はあれこれ考えました。


今日は霧が凄いですね。


今日は寒いですね。


しかし、しっくりくるものはひとつも見つかりませんでした。




そんな事を考えて歩いていると、霧はさらに深さを増して、とうとう数メートル先も見えないほどになってしまいました。



僕は、危ないのでシャッターの降りた店の軒下で霧が晴れるのを待つことにしました。



そのときです。軒下に入ろうとした僕は、誰かとぶつかってしまいました。


ぶつかったのは小柄で、恐らく僕と同じ、中学生くらいの女の人だったでしょうか。


僕らはお互いによろけ、結局二人とも尻もちをついてしまいました。


一瞬、ぶつかった相手の姿が見えそうになり、僕は、謝るよりも先に、咄嗟に後ずさってしました。


しかし、どうやら、後ずさったのは相手も同じのようでした。


相手がビクッとなって気配が遠のいたのが、気配でなんとなくわかったのです。おそらく、僕は相手を怖がらせてしまったのでしょう。


僕は、はやく謝らなければいけないな、と思いました。


しかし、僕の意思に反して声は喉に引っ掛かるばかりでした。


もう、相手のいたところからの声はありません。



きっと、彼女はもうどこかへ去ってしまったのでしょう。



僕は、自分に失望しました。



謝ることさえ出来なかったのです。



僕は、自分自身への黒い気持ちと、もうどこかへ行ってしまったであろう相手への謝罪の気持ちを言葉にしました。



ご め ん な さ い



一音一音を確かめるように言いました。



僕ははやく家に戻りたい気持ちでいっぱいでした。



僕はその場を後にしようと、くるっと身を翻しました。



その時です。本当に小さな声が霧を突き抜けて、僕の耳に届きました。



「こ ち ら こ そ……ご め ん な さ い 。」



僕は慌てて振り返りました。


その声は、確かにさっきの場所から聞こえました。


僕は、恐る恐る近寄りました。


霧の中、僕の先にひとり分の小さな気配がありました。


どうやらぶつかってしまった相手はまだそこにいたようでした。


その途端、何とも表現しがたい感情が沸き起こってきました。


それは、謝れたことへの安心感か、または、情けない謝り方をした自分に向けた恥ずかしさか。


とにかく、不思議な気持ちになりました。


そして、この人と話してみたい、と強く思いました。


しかし、なかなか話題が見つけることができませんでした。


二人の間には、霧とは違う、嫌なじっとりとした嫌な空気が流れました。


なんだか、自分自身から逃げだしたい気持ちになりました。


でも、それを僕はぐっと堪えました。


そして、僕は勇気を振り絞って口を開きました。


あの……!今日は霧が、《寒い》ですね。


ん??


あれ?



すると、突然目の前から、くすくすと小さな笑い声が聞こえてきました。



「……そうですね。今日は、寒いし、霧もすごいですね。」


僕は霧の中で、うっすら赤くなりました。


「……あ、あの!…えっと、なんでこんな時間にこんな所に…?」


霧のおかげでしょうか。今ならもう少しだけ話していられるような気がします。


少ししてから、向こう側から微かな笑い声とその返事が返ってきました。


「そんなこと言ったら、あなたも、ですよ。」


その通りだと思いました。


僕は、霧の中で散歩をしてみたかったのだと答えました。

誰かと話をしたかったとは、恥ずかしくて言えませんでした。


すると今度は向こうから、私もそんなところだと返事が返ってきました。




それから、僕らは、沢山の話をしました。


ふと気がついた頃には、霧は先程までに比べて、だいぶ薄くなっていました。


ふと、彼女が「もう帰らないと。」と言いました。


よく見てみると時計の針は、既に朝の七時をまわったところでした。


僕は勿体ないという気持ちに襲われました。


しかし、相手の都合なのだから仕方がありません。



この時、話している間ずっと僕の中で渦巻いていた感情が飛び出しました。


顔を見て話せないとか、だから嫌われるんじゃないかとか、そんなことは頭のどこか端の方に追いやられていました。



「ま、また…明日!お話ししませんか?」



霧が背中を押してくれたのかもしれません。


普段の僕だったらこんなことは言えないでしょうから。


しかし、その後に待っていたのは長い沈黙でした。


どのくらい経ったのでしょう。


五分、十分、いや、もしくは、まだ一分と経ってないのかもしれません。


とりあえず、僕にとっては永遠のように長い時間に思えました。




そんな時間を経て返ってきたのは、「ごめんなさい」の六文字でした。



全身の力が抜けて、危うくその場で倒れこんでしまいそうでした。


そうでした。そもそもこんな僕が普通に話そうなんて間違ってたのかもしれません。


駆け出す力も出せず、僕は力ない足でその場をあとにしようとしました。



「あの…!…違うんです…!」



その時、僕は強い声を聞きました。

決して大きくはない、しかし、力のこもった声でした。



「実は……、私、人と話せないんです。人を前にすると、顔が、強ばってしまって、声が、出ないんです、」



この時の僕の気持ちを、なんと言っていいんでしょうか。

驚いたような、安堵したような。そうだったのか、と納得したような気もしました。

とにかく、僕はしばらくの間、硬直していました。


「ごめんなさい、本当は、今日外出していたのも、霧で、相手が見えなかったら、話せるかな、なんて。」


彼女は続けます。


「だから、多分、あなたとは、もう、話せないんです……。」



これは多分、僕にしかできないことなのです。



慰めとか、そんなものでは彼女には届かない、一緒のものを持つ僕にしかできないこと。



「ぼくも…!そうだ…!僕も人と話せないんだ!」



話せない、それがどんなに辛いか。僕は知っています。



「でも……!僕は、君となら、話せる気がするんだ……!」



辺りは静かで、ただ自分の鼓動だけが、一定の間隔で聞こえました。



「そんな…」



その小さな声から微かな迷いが見えます。



僕は続けます。



「だから────」




その時でした。



突然、僕の周りを包んでいたものが消えて無くなりました。



霧が晴れたのでした。



辺り一面がはっきりと映され、さっきまでいた世界とは全く別の世界に来てしまったみたいでした。



僕は一瞬怯みました。本当に話せるのか、不安になったのです。



しかし、それは彼女の目を見た瞬間に、霧のように消えて無くなりました。



話せないわけがなかったのです。



そう、彼女は、僕と同じ目をしていました。



僕は空気を肺いっぱいに吸い込んでから、少しだけ微笑みました。




「だから、また明日、ここでお話ししませんか?」




雲の隙間から光が差し込みました。向かいのビルの窓ガラスに付いた水滴が、輝きを放ちます。

道端に生えた緑は、そよ風に吹かれ、さらさらと音を立てて揺れます。




彼女の唇が少し動きました。



「あしたは……、明日は、もう少し長く話していても、いいですか……?」



僕は強く、丁寧に頷きました。




その帰り道、僕は、初めて澄んだ青空を見ました。


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『霧の中の話。』 鯰川 由良 @akilawa7100

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