第43話 団欒
一人寂しく小さな庭の手入れをしていたネイサンは、玄関に何者かが訪れた事に気づくと家に戻ってから手を軽く水で洗った。薄暗いリビングを素通りして、玄関に繋がる廊下を歩いた後に軋む扉を開くと、見慣れた人物が立っている。
「よう」
ウィリーが軽く手を振って久しぶりだと挨拶をしてから、彼に折りたたまれた紙を渡した。開いてみれば、汚い字でウィリーの店に夜の九時に来て欲しいという趣旨の内容が書かれている。ネイサンは確かにその筆跡に見覚えがあった。
「これは…?」
「お前が知っている奴からだ。それじゃあ、店で待ってるからな」
ウィリーは質問に一切答えようとせずに帰っていった。残ったネイサンは玄関に突っ立ったまま、見覚えのある字で書かれた伝言を見ながら一人葛藤を繰り返していたが、家に戻って軽く体を洗ってから普段着に着替える。時間を確認しようと壁にかかっている時計を見たが、六時十二分で止まっていた。壊れているのをすっかり忘れていたのである。
しまったと思いながら、ネイサンはテーブルに置いていた腕時計で時刻を確かめてから、どんな会話をすればいいのかとソファに腰を下ろして考え続けた。
――――時刻は夜の八時二十分、仕度を終えたジーナはネスト・ムーバーから重い足取りで外へと出る。自分から言いだした事ではあるが、やはり気持ちは重いままであった。
「ごめんね、急にこんな事を言い出して」
後ろで呑気に食事をしていた面々にジーナが謝ると、誰一人として嫌な顔をせずに彼女に微笑んだ。
「善は急げ、後悔先に立たずだ。手遅れになる前にちゃんと和解しとくべきだぜ」
パンを齧りながらシモンはそう言った。周りからも気を付けるようにと励ましを受ける。ジーナは人気が無くなって陰鬱とした夜の空気を体で感じながら、街の通りを歩いていった。
待ち合わせの店へ着いてからカウンターへ座ると、ウィリーがグラスを渡して来た。
「好きな物を頼め」
気前よくウィリーは彼女に言った。まだ幼かった頃、自分が店に遊びに来ていた際もいつもこうして景気よくふるまってくれていたのをジーナは思い出す。少しは成長したところを見せたいと、ジーナは度数の強い蒸留酒をストレートで入れて欲しいと頼んだ。ウィリーは角ばったボトルを取り出して、その中に入っている琥珀色の酒をグラスに注いでからジーナに渡す。ジーナはそれを軽く呷ってから一息つくと、何も喋らずにひたすら黄昏ていた。
――――覚悟を決めたネイサンが、僅かしかない街灯に照らされた路地を歩いて行く姿を地べたに座っていたみすぼらしい老人は眺め続けていたが、やがて懐から似つかわしくない通信機を取り出すと、周波数を調整して連絡を取り始めた。
「…アメリア・クリーガァの邸宅から男が出かけた。恐らく夫のネイサン・クリーガァだろう」
とある車両の中で、諜報員からの連絡を聞いたサッチの側近は一度サッチの方を見た。サッチが「予定通り」とだけ言うと、側近はそのまま諜報員に追跡をするように命じた。
ネイサンはウィリーの店に到着すると、気持ちの整理を付けようと少し立ち止まる。もし、娘が戻ってきてくれたのだとしたらなぜなのだろうか、今の自分を見てどう思うのだろうかと突如として不安が生じた。だが今更引き返すわけには行かないと、ネイサンはゆっくりとドアを開ける。ドアベルが軽い音を奏でて人の来店を告げると、酒が入って少し心地よくなっていたジーナは静かに後ろを振り返った。
「…久しぶり」
日中に鉢合った際には言えなかった再会の言葉をジーナはようやく振り絞って言った。ウィリーが隣に座る様に伝えると、ネイサンも黙って彼女の隣の席に着いた。
「さっき出くわした時はまさかって思ったんだが…やっぱり…お前だったんだな」
ウィリーに酒を手渡されたネイサンは、様変わりした自分の娘を見てオドオドしながら言った。自分達の後を追いかけてはハグをしてきたり、悪戯をしてはアメリアに抱きかかえられて悪戯をされ返されていた無邪気な少女の姿はどこにもなかった。
「…心配してたんだぞ。どこで何やってるんだろうって」
話を切り出した最中に、ネイサンは「しまった」と心の中で思った。まずは彼女に謝罪をしたかったのではないのか?あれほど家で考えていたというのに、父親面している場合ではないだろうと後悔してしまう。
「心配だったのに探そうとしなかったの?」
唐突にジーナはネイサンに対して切り返した。率直な疑問ではあったが、せめてオブラートに包むべきだったと、ジーナもまた心の中で猛省する。
「し、したさ勿論…!でも結局警察もこれ以上は無理だって事で捜査を止めてしまってな…どこにいたんだ?今まで」
「…フォグレイズシティにいた。この間まではね」
連邦政府によって経済的な意味でも重要な都市にとして認定されている場所とはいえ、決して安全な街では無かった。そんな場所に娘がずっといたのかと思うと、ネイサンの頭の中では良からぬ推測が飛び回っていた。ウィリーも少し興味があったのか、視線を一瞬だけ二人に向ける。
「…仕事はしていたのか?」
「してたよ。あまり人に言いたくない様な物だったけど」
「言いたくないって…何をしていたんだ?まさかお前…」
「多分想像しているのとは違う。マフィアの構成員だった…下っ端だったけど。街で絡んできた奴を殴ってたら、スカウトされて…そのまま成り行き。」
「怪我は…しなかったか?」
「親に似て体は丈夫だったから。それに…体を動かしている時は、しがらみやら嫌な事を全部忘れる事が出来た」
マフィアを職業として扱うのはどうなのだろうかと少しだけ思ったものの、なぜかネイサンは安堵していた。どうりで逞しい体つきになっていると納得さえした。それを差し引いたとしても女性とは思えない厳つさであったが。
「なる…ほど…だとしたら、ここには何で戻って来たんだ?その…仕事は良かったのか?」
「もう構成員でも無いから…今は別の目的があってこの街に来た」
流石に自身を拾ってくれた恩人やそれなりに親交のあった同僚たちが皆殺しにされてしまった事を言うのは避けたかった。
「ただ、その目的を済ませる前に…やらないといけない事はちゃんとやっておこうって思ったの」
空になったグラスを両手で持って眺めながらジーナは言ったが、やがて静かにグラスを置いてからネイサンの方へと顔を向けた。
「マフィアにいた頃、仕事仲間は皆「お前はもう家族みたいなもんだ」なんて言ってくれたけど、正直心のどこかで引っかかるものがあった。挫けそうになっている自分の本当の家族すら助けようとせずに…逃げ出した…そんな私みたいな奴と仲良くしても何も良い事は無いって…」
彼女の内側から段々と様々な感情が溢れて来たのか、声が次第に何かを堪えるように震え始めた。
「…ごめんなさい」
言葉に詰まり、喋ろうと思っていた事を全て忘れてしまったジーナは、か細い声と共に頭を下げた。ネイサンがふと床を見ると、ポタポタと大粒の雫が止めどなく落ちていくのが目に留まる。娘が泣いているのに気づいたのは、それからすぐであった。
「父さんを今日久しぶりに見たら…自分が取り返しのつかない事をしたんだって…すぐに分かった。家族が傍にいて…支えてあげないといけない時に…私は……その場の勢いに任せて…」
娘の必死な姿を見ている内に、自分の不甲斐なさと彼女の人生を変えてしまった責任がネイサンの心を痛めつけた。
「…お前が…謝る必要なんかない」
ネイサンは彼女の肩を掴んで、感極まったのか涙目になりながら語り出した。
「分かってはいたさ…お前は悪くないって…!だが…心に空いた穴を、すぐに塞げるほど…俺は強くなかった。試練と、遺された者としての責任を受け入れられずに…とにかく何かのせいにしようとして…お前に酷い事を…」
ネイサンはそうやって自身の過ちに対する告白をしていたが、しまいには耐えられなくなって泣きながら自分の娘を抱きしめた。両腕が回りきらない程に逞しく育った娘の体を精一杯力を込めて包み込もうとする。
「許してくれ…!」
抱きしめられていたジーナは、父のすすり泣く声に釣られて泣き始めた。両者の泣き声が静かだった店に響き渡り、ウィリーは仕事の手を止めて二人に背を向ける。少しばかり目頭を抑えていたが、ある程度すると二人の方へ向き直った。両者にとっては積もりに積もったものが溢れ出ているのだろうか、ネイサンは情けない声で泣き続け、ジーナは年齢不相応にぐずっていた。互いにごめんと呟きつづけ、ようやく落ち着いてから二人は静かに体を引き離した。
「びしょ濡れになっちゃった…」
「…私も」
二人は湿ってしまった服を見合いながら笑みを零した。頃合いかと思ったウィリーはいきなり、メニューを二人の間に置いて見せる。
「…泣いて疲れたろう?出血大サービスだ、全部タダにしといてやる。腹も減ってるだろうし食え」
「…父さんが好きな物を頼めば良いんじゃない?痩せたみたいだし」
「そうだな…マスター、メニューに書いてる物を片っ端から頼む」
二人が遠慮なく注文をすると、流石に一人じゃ面倒だと感じたのか、ウィリーは二階の自宅で眠っていたフィリップを叩き起こして手伝う様に言った。寝間着姿で欠伸をしながらフィリップが降りてくると、ジーナがネイサンと座っているのが目に入る。
「上手く行った?」
「今のところは」
フィリップに尋ねられたジーナは笑顔で答えた。彼も安堵したような顔でウィリーの隣に向かうと、早速準備を始める。
「そういえばジーナ、喧嘩していたところをスカウトされたらしいがマフィアに入る前は何をやってたんだ?」
「えっと…その日暮らし…」
「ちょっと待ってくれよ!?ジーナ、お前マフィアにいたのか?」
わだかまりが取れた二人を中心に会話が弾んでいく。全員が話に耳を傾け、知る由も無かった多くの話題に驚き、笑いながら騒いだ。
その頃、ネイサンが留守にしている邸宅の前では、一仕事をしたと思われるみすぼらしい老人が再びサッチ達と連絡を取っていた。
「とりあえず準備は出来た。念のために色々と持ち込んでいたから良かったが、こういう無茶を言うのはほどほどにしてくれ」
「どうも。じゃあ後は予定通りに頼むぞ。しかし、よくバレなかったな」
「推測通り標的の女の家族だった…話し込んでいるみたいでしばらくは戻らなそうでな、おかげで時間はたっぷりあった」
「なんにせよ助かったぜ、じゃあな」
サッチは無線で連絡を終えると、再び床に敷いた毛布の上で居眠りをしようとしたが、側近に足で小突かれて渋々起き上った。
「邪魔です。他の兵士の事も考えてください…それで、どうでした?」
「準備万端だよ。アイツが手筈通りに事を進めたら、後は俺達でやる」
愛想のない側近に対して、不機嫌そうにサッチは言った。
「ネイサン・クリーガァを人質にでも使うつもりですか?」
「あいつらが俺の元へ来る動機を作らないといけねえんだ。人質じゃあ、こっちが解放したら「戦う理由が無くなった」とか言われて逃げられる可能性があるだろ…まあ、見てろって」
「…嫌な予感しかしない」
サッチから考えがあるとは言われたものの、詳細までは教えてくれなかった事を少々腹立たしく思いながら側近は元の席に戻って行った。サッチはというと、ようやく邪魔がいなくなったと思ったのか、気まずそうにするほかの兵士達をそっちのけでそのまま床に倒れこむようにして眠った。
――――結局その日の夜に戻って来なかったジーナの様子を見に行こうと、シモンとセラムは待ち合わせ場所になっていたウィリーの店を訪れた。
「おう、あんたらか」
準備中と書かれている表札を無視して扉を叩くと、寝ていたらしいウィリーが目を擦りながら顔を出す。
「ジーナはどうなった?」
「フフ…見てみな」
シモンからの問いに答えるようにウィリーがどいた先には、カウンターに突っ伏していびきをかくネイサンと、対照的に静かな寝息を立ているジーナがいた。それなりに長い付き合いにはなってきていた二人にとって見た事無いほどに優しい顔をしている。
「結局、夜通しで喋り続けてしまってな…だけど、何とかなった」
「そうみたいだな」
どことなく嬉しそうに伝えるウィリーに対して二人も口元が緩み、ジーナを起こそうと店の中へ入って行った。
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