バウンダリーズ・イン・ザ・バビロン

シノヤン

第1章

第1話 凶獣注意

 小雨が降り続け、空に暗雲が立ち込める夜であるにも関わらず街では人々が往来し、喧噪とした雰囲気に包まれていた。客を呼び込もうとする者や、どの店に入ろうか友人達と談義をする者達でごった返す大通りはこのフォグレイズシティと呼ばれる都市にとって夜の名物ともいえる歓楽街である。そんな街の路地の一角に佇む小汚い酒場を向かいのビルの入り口に立っている二人の男が睨んでいた。


「ジーナさん…武器も持たずに行ってしまったけど大丈夫ですかね?」


 ムンハ族の若い男が隣にいた初老の男に話しかける。その顔はどこか不安を感じているようだった。


 初老の男はザーリッド族の特徴ともいえる爬虫類の様な顔を若い男の方へ向け、そして鋭い眼光で見つめながら言った。


「リー、この仕事で俺たちと組んでから何か月経ったと思ってるんだ。お前はあいつの何を見てきたんだ?」


「確かにそうですけど…カルロさん、この酒場は噂によればギャングたちがケツ持ちやってるって話じゃないですか。俺たちが来るのは事前にバレてるはずですから、抵抗しないだなんて思えなくて…」


 リーは気を紛らわすように辺りを見回しながら言い返した。心配そうな顔をしつつ反論してきたリーを、カルロは鼻で笑うとコートに隠していた拳銃を取り出して準備をし始めた。


「ムンハ族の男ってのは随分弱気なんだな。あいつが交渉するって言ったんだから俺たちはどっしり構えて待ってれば良いんだよ。だがもし、決裂した時には…こいつの出番だ、そうだろ?」


 カルロはそう言うと拳銃を取り出し、リーに見せつける。その直後、酒場から怒号や大きな物音が聞こえ始めた。二人はそれが交渉の決裂を意味しているとすぐに悟り、急いで酒場へと向かった。


 ――――話はリーとカルロが店の前で待機していた頃へと遡る。酒場のカウンターでは、一人の大柄な女性が獣のような眼光で店主と思われる男を睨みつけていた。灰色のジャケットを着こんでいるが、かなりの筋肉質で茶色の体毛が体を覆い尽くしている事が分かる。棘のある目つきや、薄っすらとピンクの混じった黒い鼻、その周りに生えている髭、そして口元から見え隠れする牙。ネコ科の生物を彷彿とさせる顔付きは、彼女がノイル族であることの証明だった。


 その女性は少しイライラしたそぶりを見せながらテーブルを指で叩いていた。一方の店主はどこか落ち着かない様子で彼女とテーブルに置かれた一枚の紙を交互に見ると、「私にどうしろというのか」とでも言いたいかのように苦笑いを浮かべている。


「…簡単な話でしょ?ここにサインを書けば、利益の一部を貰う代わりに経営を助けてあげる。商品の仕入れも出来るし、必要なら用心棒だって寄越す。難しい事は言ってない。それともまだ何か不満があるの?」

痺れを切らしたのか先に口を開いたのはカウンターに座っていた女性だった。


「いや~そう言われてもね…ジーナさんでしたよね…?我々にも人付き合いっていうものがあって、その…申し上げにくいんですが、マフィアがスポンサーになるっていうのは近所の評判にも関わりますから…」


 彼女の苛立ちを察したのか、慌てて男が口を開く。男はどこか落ち着きがなく、しきりに裏口と思われる扉へ視線を向けていた。扉が少し空いているのが見えたジーナは、呆れたように小さい溜息をついた。


「合図を送るんならもう少し上手くやった方がいいんじゃない?その扉の向こうにいるんでしょ?あんたのケツ持ちが」

ジーナはそう言いながら扉を見つめた。


「な…何を急に」


 男が言い終える前にジーナは男が来ている服の襟首を掴むと、凄まじい力で自分の元に引き寄せた。


「とぼけないで。最近この辺りで薬の密売をしてる連中がいるって聞いた。正義の味方ぶってやめろだなんて言わない…ただ、商売をするんならうちの組織に話を通してもらわないと困るの。あなたで間違いないわね、密売人たちに場所を提供してるっていうのは」

「ヒィ…!クソめ、薄汚いノイル族が…!」


 男は怯えながらも、捨て台詞のようにそう言うと彼女を睨んだ。裏口と思われる扉が勢いよく開き、6人ほどの屈強そうな男達が入ってくる。全員の手にはナイフやバール、そして銃が握りしめられている。彼らの得物や場の雰囲気から、ジーナはチンピラ達からこれ以上話し合うつもりは無いという意思を感じ取り、静かに席を立った。男達は彼女をジロジロと見ながら移動し、彼女を囲うようにして円を作った。


「ハハハッこりゃ驚いた。ただの作り話かと思ったが、マジでノイル族なんて獣臭い奴まで構成員にしてるのかよ!マフィアでも人手不足に悩まされてんだな」


 チンピラの一人、恐らくリーダーと思われる顔にタトゥーをしている男がそう言った。


「あんなトカゲ面に場所を借りてまで小遣い稼ぎしているあんた達に言われる筋合いはないんだけどね」


ジーナは切り返しながら、店の端で縮こまっている酒場の店主の様子を少し見た。店主は震えながらもどこか勝ち誇ったように愛想笑いを顔に浮かべている。


「言うねえノイル族…今ここで帰るんなら俺達の大事な“お友達”を脅した事については忘れてやるよ。それとも、ご自慢の腕っぷしで何とかしてみるかい?」


 タトゥーの男は不敵に笑いながらそう言うとジーナの背後にいる拳銃を持ったスキンヘッドの部下に目で合図を送った。タトゥーの男の合図を見た部下は、静かにジーナへ拳銃を向けると、わざと音がするようにしてセーフティを解除した。それが自身への最後の警告であり、二度目を言うつもりは無い事を表している事は素人目に見ても分かりきった事だった。


 辺りを静寂が包み、その場にいる誰もが沈黙したままという異様な光景が暫く続いたが、不意にジーナが両手を上げた。


「降参、いきなり銃なんか突きつけられたらなんにも出来ないや。」

ジーナはそう言いながら周りを囲っている男達を諦めたような顔つきで見回した。


「今までずっと殴り込みぐらいしかやってなかったもんだから、こういう交渉って今回が初めてだったの。もっと勉強しないと無理ね…ねえ、帰る前にそこにある分だけ飲んで帰ってもいいかな?金は払ってるから」

ジーナは申し訳なさそうに言いながら、カウンターに置かれた飲みかけのグラスを指さした。


「飲んだら失せろよ」


 タトゥーの男はにやけながら彼女に伝えた。ジーナは周りの男達を軽く押し退けながら歩き、カウンターに向かった。途中、後ろを振り返ると銃を持っていた部下がどこにいるかを確認する。無用心な連中だと彼女は思いながらカウンターの椅子をどかし、グラスを掴むと残ってた酒を一気に飲み干した。最初は笑っていたタトゥーの男だが、ジーナの一連の動作を見ていく内に彼女がまだ諦めていないという事を感じ取った。なぜ彼女がグラスを握ったままなのか、なぜ椅子をわざわざ動かしたのか…


 「しまった」とタトゥーの男がそう思った直後、ジーナは急に振り向き、動かしておいた椅子を拳銃を持っていた男に目掛けて蹴り飛ばした。男は椅子を避けきれずぶつけられ、その拍子に拳銃を手放してしまう。ジーナは手に持っていたグラスをすかさずタトゥーの男に投げつけ、頭に命中させる。他のチンピラ達もようやく事態を把握し、得物を再び持ち直すと、彼女に襲いかかった。ジーナはそんな彼らに対して武器を持っている腕をへし折り、殴り飛ばし、首を掴んではテーブルへと叩きつけた。叩きつけられたテーブルがバラバラに砕け散る。


 気がつけば、辺りは破壊された店の備品の破片だらけになってしまっていた。倒されたチンピラの一人が床に転がっていた拳銃を手にしようともがいているのを見かけたジーナは、拳銃を拾い上げると銃身を折り曲げた。ノイル族の規格外さに呆然とするタトゥーの男は、自分だけでも逃げようと立ち上がろうとしたが、すぐに首根っこを凄まじい力で掴まれ持ち上げられてしまった。


「ジーナ、やりすぎだ」


 駆けつけたカルロは、店の有り様を把握すると呆れつつも少し誇らしげに彼女を見ながら言った。その後ろでは、リーがチンピラ達の反撃を警戒しているのか辺りを見回している。


「…すみませんカルロさん」

「いやいや、良いんだ。お前のこういう所を俺は気に入っているんだからな」

申し訳なさそうにするジーナとは対照的に気さくな笑顔をカルロは返しながら言った。


「それよりそいつはどうします?」


 リーは店主を見ながら二人に聞いた。カルロは店主の方へ振り向くとカウンターにジーナが置いていた書類を手に取り、意気揚々と歩いていった。そして、書類を店主の顔に付きだしながら説明を始めた。


「さあ、オーナー。どうしようか?まだ助けが来る事に賭けてみるか?…まあ、それまでお前さんが無事でいられる保証は無いんだがな」


 その言葉が脅しではなく予告だというのは誰の目にも明らかであり、店主は自分に残された選択肢は無いと悟ると、ただ黙って頷く事しか出来なかった。すっかり意気消沈した店主を見たカルロは笑みを浮かべながら続けた。


「よろしい。ではサインを書いて貰うが、改めて確認だ。ウチはあんたの店にスタッフや品物を融通する。その代わりあんたはウチに金を払う。まあ、額に関してはそうだな…利益の内の四割を毎月払ってくれ。勿論、薬物取引の場所代も含めてだぞ」

「よ…四割!? そこの女が言っていた話と違うじゃないか!」

店主は驚くとジーナを見ながら叫んだ。


「ああ…申し訳ない。大人しく契約してくれてたのなら、我々としても多少は譲歩してやりたかったんだが…見てみろ。私の可愛い部下があんな野蛮で、粗暴で、武器を持った連中に襲われたんだぞ?寧ろ四割で済ませてやってる寛大さに感謝して欲しいものだな。」


 そう言いながらカルロは、ジーナを見るとウィンクをしてみせた。可愛い部下なのだとしたらこんな目に合わせないだろうとジーナは思い、ルシオに対して渋い表情を返した。


「無茶苦茶だ…そもそもあんたらがここでの薬物取引まで仕切ろうとしたからこんな事に…」

「ジーナ、やれ」


 煮え切らない店主に少し苛ついたのかカルロはジーナに指示を出した。ジーナは合図を聞くや否や、怯えてへたり込んでいる店主に目掛けてパンチを放つ。放たれた拳はわざと店主をはずし、顔の隣にあった壁に叩きつけられると巨大なヒビを作り出した。


「さあ!これが最後だ。まだごねるようなら、しまいにはお前さんの頭蓋骨が粉々にされてしまうかもな」

「わ…分かったよ!契約成立だ!」

カルロの躊躇いを感じない冷徹な雰囲気を含んだ視線と、ジーナから向けられている殺意とも取れる威圧感に気圧された店主は、震えながら悲鳴に近い声で言った。


 店主は黙々とサインを書くと恐る恐るルシオに差し出した。受け取ったルシオは、書き漏らしが無い事を確認すると満足げに懐にしまった。


「確かに受け取りましたよ。では、ここらでお暇させてもらいます」

カルロはそう言うと指を鳴らし、帰るぞとジーナに知らせた。


「リー、帰るみたいだけど探し物は見つかった?」

ジーナはリーに聞いた。


「もう少し待ってくれ…やっぱりだ。場所を貸すだけな上に金しか取らないなんてあるわけ無いとは思ってたが、中々の上物だな」


 リーは他の床とは明らかに違う材質の床板が使われている床を壊すと、隠されていた箱を取り出した。中には大量の白い錠剤が入っており、かなりの額になる代物である。


「ほほう、場所貸しだけじゃなく取引もしていたか。よし…今後の売上次第ではみかじめ料も上乗せ決定だ。」


カルロは店主に聞こえるようにわざと大声で言った。


「は…はい」


 先程の脅しが余程効いたのか、店主は無気力に、そして全てを諦めたかのように頷いた。そんな店主の様子を見たカルロは、少し早足に店を出た。リーもその後に続いて店を出ていった。


「何で…何で俺がこんな目に…」


 ジーナが店を出ようとした時、背後から店主の泣き声混じりの愚痴が聞こえた。それを聞いたジーナは、面倒くさそうにしながら振り向き、店主に向けて言い放った。


「奪われる方が悪いのよ」

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