あなたの返事をずっと待っている

@end_roll

あなたの返事をずっと待っている




コンコンコン。

「おはよう、今日はいい天気だよ」

コンコンコン。

「おはよう、今日は朝ごはんのフレンチトーストが上手く焼けたんだ」

コンコンコン。

「おはよう、今日は雨だから洗濯物が干せないな」

コンコンコン。

「おはよう、聞いてくれよ、今日は植木鉢の花が咲いたんだ!」

コンコンコン。


がちゃり。






あなたの返事をずっと待っている






 今日も彼はその部屋の扉の前に立つ。深呼吸。ノックを三回。コンコンコン。「おはよう」朝の挨拶。決して扉を開くことはしない。

「今日は冷え込むから暖かいスープを作ったんだ」

 扉の向こうに語り掛ける。彼の言葉の通り、出来たてのスープの香りが廊下まで広がっていた。部屋から返事はない。廊下の奥のキッチンから女がひょっこり顔を出して顔を顰めた。

「もうその辺にしておきなよ」

「美味しくできたから君と食べたいと思って」

「ねえ」

 彼女に構わず彼は言葉を続ける。

「君の好きな味付けにできたと思うんだけど」

「そりゃあ好きだよ、君が作ったんだから」

「………また、来るよ」

 彼は悲しそうな顔をする。扉から踵を返す。彼女がため息をついた。

 返事は、無い。




*




 ただ一言、なんでもいいから返事が欲しかった。おはようとか、へぇそうなんだとか、適当な相槌でもいいから、君の声が聞きたかった。

 人の記憶は、声から消えていくんだって。彼女がいつかそう言っていた。快活な彼女が珍しくふわふわした様子で、困ったように笑っていたのを覚えている。あの時の自分は、なんて返事をしたんだったか。

 どんな話をしたんだっけ。どんな顔で笑って、驚いて、哀しんで、どんな仕草が癖だったんだっけ。自分の中の彼女が薄れていく。そうやって薄れていくくせに、ぼんやりと残ったものはぼんやりとしたまま、今も脳裏に酷くこびりついている。忘れたという事実は忘れないから、忘れたことに気がついて苦しむなんて皮肉にも程があるなと少し笑った。

 もう一度、彼女の笑顔を思い浮かべる。下がってしわのできた目尻と口元の笑窪、大丈夫、まだこれは忘れていない。大丈夫。

「……大丈夫」

 来るはずのない返事を待って、明日もきっと僕はあの扉の前に立つ。




*




 普通の人だった。人並みに笑うし泣くし怒るし、人並みに人を愛せる人だった。だから私も彼を愛すことが出来たし、その愛を受け入れられたのだ。

「もう諦めたらいいのに」

 今の私は普通ではない。手足は透ける。声は誰にも届かない。姿は誰にも見えない。普通でない私を彼は愛す必要は無いと、私は思っている。見えない幽霊を愛す必要なんて、どこにも。

 コンコンコン。

「おはよう」

 それでも彼は今日も。




*




 バチバチと目の前に火花が散った。それで消えた。そんな最期だった気がする。ぱっと光って花開いて消えて煙になる花火のような一生は、私から見て普通の彼には理解できなかったのだろう。

 死んでもいいと思っていた。自分を愛してくれる人がいて、自分の愛する人がいて、それだけで最高に良い人生だったと。そう思える私にとって死は思想であり、人生においての最高傑作だった。それでも自分から死のうとしたことは無かった。きっとそれは彼には理解されないから。それがわかるくらいには私は彼を愛していた。


 気がついたら彼の隣で浮いていた。誰も居ないはずの部屋に向かっておはようと声をかける彼は何を見ているんだろうと思った。だって私はここにいるのに。

「おはよう、今日は植木鉢に花の種を埋めてみたんだ」

 扉も開けないで話すのはどうしてだろう。

「おはよう、何の種?」

「君が好きだって言っていた赤いポインセチアが咲く予定だよ」

 視線が合わない。こちらを見ない。扉の向こうの誰かを見つめて、自分と目が合う気配が無い。

「覚えててくれたんだ」

「花言葉はなんだっけ」

「『私の心は燃えている』ね」

「思い出せないな、後で調べてみようかな」

「……えっ」

 何より高い価値があると思っていた命を失う瞬間のことを覚えていないことよりも、彼に声が届かないという事実が、私にはより深く刺さった。

「わかったら答え合わせをしてくれると嬉しい」

 彼が扉から踵を返す。私がいる方向とは逆に足を向ける。彼が遠のく。待って、の一言すら出なかった。それでも手は伸ばした。届くはずだった手は、彼の肩をすり抜けて空を切った。触れられない。愛しい人を引き留めるすべはもう無くなった。


 初めて「死」を後悔した。




*




「おやすみ」

 ベッドに横たわる彼を見つめる。死んだような顔で眠っている。本当は今、彼は自分と同じ状態なのではないかと錯覚する。そんなことはありえない。そっと呼吸を確認する。彼は生きている。

 ふと顔を上げた先にあった姿見は、カーテンの隙間から差し込む月明かりを反射して虚を映している。幽霊の私は鏡にも映らないから、今自分がどんな顔をしているかもわからない。

「話し相手がいないというのは存外寂しいよね」

 見えないからしょうがないのだけれど。

「私は君の言葉にいつも相槌を打ってるんだけど、君は気が付かないよね」

 聞こえないからしょうがないのだけれど。

「返事を待っているのは君だけじゃないって、そろそろわかって欲しいなあ」

 返事はない。起きる気配もない。そろそろ夜の三時を回りそうだ。触れられない頬をひと撫でする。

「また明日」

 来るはずのない返事を待って、明日もきっと私は貴方の隣に立つ。



*

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