第5話

 帰ってきたは良いものの、愛菜之はしょんぼりした顔でいた。そこまでしょんぼりされると、こっちとしては悪いことをしたんじゃないかとすら思ってしまう。

 二人で住む家についても、愛菜之は相変わらずだった。


「……なんか飲む?」

「ん……」


 制服のネクタイを緩めると、愛菜之はその瞬間だけギラリと視線を向けた。俺のサービスシーン(?)は見逃さないらしい。

 思ったよりは元気そうで良かった。話もままならないほどに思い詰められても困る。これからのことについて話したかったからな。


「あー、ミルクティー買っといたけど飲むか?」

「うん」


 冷蔵庫からミルクティーを取り出しながらそう聞くと、背中に温かい感触を感じた。

 柔らかな甘い匂い、腹に絡みつく細く華奢な腕。それがなんだか、とても頼りなく見えた。


「大丈夫だよ」


 愛菜之が何を重く考えているのかはよく分かっていない。それでも、こんなに弱々しい手つきに何も声をかけずにはいられなかった。

 声をかけながら、愛菜之の手を取る。愛菜之に向き直って、できるだけ優しく抱きしめた。


「ほら、着替えなくていいのか?」

「離れたくない……」

「そんな怖がんないでいいって。ほら、俺の服着てもいいから」

「ほんと?」

「ほんとほんと」


 なんで俺の服を着れるってだけで心変わりするのかは、イマイチ分からない。ただ、俺の服をよくオモチャを欲しがる子供みたいに見ていることが多い。

 たぶん、俺の服が洒落ているからとかじゃなくて、俺が着た服を着たいとか考えているんだろう。


「えへ……じゃあ、ミルクティー飲んだら着替える」

「口移し?」

「しないの……?」

「しますします」


 一々悲しそうな顔をするんだから、こっちは慌ててしまう。久しぶりにこんなに悲しそうな顔を見たような……いや、俺が死にかけてからはこんなもんだったか?

 

 とりあえず、ミルクティーを一口飲む。ちょうどいい甘さと冷たさに、体が生き返っていくのを感じる。

 愛菜之は餌を待つ雛鳥のように、こっちを見つめていた。早く早くとその顔に書いてあるようなもんだ。


 ミルクティーを口に含むと、愛菜之は俺の顔を両手で引き寄せる。突然のことで口のミルクティーをこぼしそうになったが、愛菜之は構わずに口を引っ付けて飲み干していく。


「……ぷはっ」

「……する時はちゃんと言ってくれよ」

「ご、ごめんなさい」


 口を離してそういえば、愛菜之はまたしょんぼりしながら謝ってくる。

 まだ、進路について悩んでいるんだろうか。先のことなんてまだまだ考える必要もないと思っていたのに、時間が経つのは思った以上に早い。

 決死のダイブを決め込んで、生きながらえた代償の半年。それは、ゆっくりと道を確かめていくための時間すら奪っていったのかもしれない。


「進路の話、まだ悩んでる?」

「……私、本当に晴我くんの隣にいたい」

「そりゃ嬉しいな」

「嘘じゃない、ふざけてもない。晴我くんの隣にいられるなら、なんだってするよ。もう、離れるなんて嫌だよ……」


 たったの半年で、愛菜之に随分と大きな傷をつけてしまったらしい。……というよりは、俺が傷ついたこと自体が愛菜之にとっての傷なのかもしれない。

 俺がいなくなるかもしれない。それが、愛菜之を不安にさせている原因なのかもしれない。


「言ったろ、俺は死んだりしないよ。ずっと愛菜之の隣にいる」

「……うん」

「だから、愛菜之はやりたいことをするんだ。俺が隣にいるのは当たり前のことで、この先も変わらないことだからさ」


 そういってもう一度抱きしめると、愛菜之は縋るように俺の背に手を回した。

 安心させられたかと思ったが、問題なのはその後だった。


「……でも私、やりたいことなんてないなぁ」


 やりたいことがない。まぁ、珍しくもない。

 みんな、雰囲気で進路を決めている。自分はこうなるだろう、こうなれれば悪くない。明確な夢を持って道を決めるほうが珍しいくらいだ。


「じゃあ、やりたいことを探すか」

「今は、晴我くんにギュッてされてたいな」

「いくらでもするから、とりあえず着替えな」

「うんっ」


 そうは言ったものの、愛菜之はまだ離れようとはしない。今、やりたいことを優先してやっているんだろう。

 温もりが制服越しに伝わる。じわりと汗をかいてしまうほどに、伝わってくる。

 それでも、今はこの温もりが心地よくて手放せない。

 蝉の声が聞こえてくる。時計の針がカチカチと進んでいく。冷蔵庫がカタリと音を立てながら、氷を吐き出しているのが聞こえる。

 

 そうしてしばらくは、暑さに浸っていたままだった。

 

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