第91話
「おはよう、晴我くん」
今日も挨拶。また顔を見れて嬉しいな。
朝起きると、不安になるんだ。今日が無くなっちゃうんじゃないかなって、晴我くんと一緒にいた全部が、嘘になっちゃうんじゃないかって。
目を覚ますたびに安心するんだ。晴我くんとの日常が、ちゃんとあるんだって。
きっと晴我くんも、私と同じだと思うよ。怖いなって、嘘なのかもなって、不安になっちゃうよね。
全部本当で、全部受け止めるから。
……準備ができたら、目をあけてね。
「大好き、大好きだよ」
愛菜之のことを思い出してから、ずっとこれだ。
いつものように、二人の家でソファに並んで座って、イチャイチャしているのだが……。
「晴我くん可愛いカッコいい。大好き、大好きすぎるよぉ」
「ありがとう」
いつもの愛菜之と違うような……いや、いつもこんな感じだったかな?
まぁ、どっちだとしても幸せだからいいか。愛菜之がこんなに好きだって言ってくれるのも久しぶりな気がするな。
……なんで、久しぶりだなんて思うんだ。愛菜之はいつも好きだって言ってくれたじゃないか。
「晴我くん?」
俺の顔を見た愛菜之が、心配そうに声をかけてくれる。愛菜之に心配かけちゃいけないな、変なことを考えるのはよそう。
「今日はクッキー焼いたんだよ。一緒に食べよっか」
「お、ありがとう」
愛菜之が焼いてくれるクッキーは美味い。どんなに手間暇をかけたかは分からないが、俺はいつもそんなに手間のかかったものを、ドカドカ食ってしまう。そんな俺を見るのが好きだって言ってくれる愛菜之、良い彼女。
「はい、どうぞ」
愛菜之が、皿にこんもりと盛られたクッキーを持ってきた。美味しそうな匂いと、いい焼き加減。今からこれを食べていいのか……なんか、物を食べるのも久しぶりな気がするな。
「召し上がれ」
「……え?」
愛菜之が皿をテーブルに置いて、笑顔を向けてくれる。特に間違ったことも、異常もないのに……。
「口移し、してくんないの?」
「……え?」
そういってみると、愛菜之は驚いたような顔をしていた。まるで、そんなことを言われるとは思っていなかったような、そんな顔を。
いつもしていたのに、愛菜之からしてくれていたのに。この反応は、なんでだ。
「そんなこと、したことないよ?」
「え?」
「他の女のことを言ってるの? 私以外に、付き合ってた女がいたの?」
「違う、違うよ。愛菜之がしてくれたんだよ」
「そんなことしない。私は晴我くんとそんなこと、した覚えないよ」
なんで、なんでだ。愛菜之がしてくれたじゃないか。愛菜之がしてくれるから嬉しかったんじゃないか。
愛菜之以外に付き合ってる女なんていないのに、なんでそんなこと言うんだよ。
「私だけじゃなかったの? 私以外に興味ないんじゃなかったの?」
「愛菜之だけだよ。愛菜之が一番に決まってる」
なんでそんな、疑うようなこと言うんだよ。愛菜之はそんなこと言わない。愛菜之はいつだって俺のことを信じてくれる。
俺の知っている愛菜之じゃない、俺の記憶の中の愛菜之じゃない。
……お前は、愛菜之じゃない。
「お前は誰だ……?」
口に出してみれば、愛菜之はひどく狼狽えていた。
愛菜之の顔が、みるみるうちに悲しい顔へと変わっていく。俺の言葉は間違っていたのか、俺は愛菜之を傷つけたのか。
「バレちゃった」
そんな悩みとは裏腹に、悲しみに満ちた顔は、ゆっくりと笑顔へ変わっていった。
「愛菜之……?」
「うん、私だよ。重士愛菜之、晴我くんの恋人のね」
愛菜之、俺の恋人の愛菜之。
見た目も声も仕草も、甘える時に出していた猫撫で声も、艶のある黒い髪も。全部、俺の記憶の愛菜之も同じなのに。
目の前の物体は、愛菜之とは違う『何か』?
「もうちょっとで一緒に行けると思ったのになぁ。こんなことでバレちゃうなんて、やっぱり晴我くんはすごいな」
そういって、愛菜之は俺に笑顔を向ける。いつもの笑顔なのに、なんだか怖くて、それでも優しい顔が安心させてきて、頭がおかしくなりそうだ。
それに、一緒に行くとかなんとか。どういうことだ。
「なんだよ、一緒に行くって……」
「えっとね、死んだ後の世界かな?」
死んだ後の、世界。
なんだよ、それ。まるで俺が死んだような……。俺は元気だし、身体の痛みも全くない。喉が痛いとか、ちょっと身体がだるいとか、そういう軽いものだってないんだ。
「本当は、死んだ後なんて何もないけど、そういう言い方のほうが分かりやすいでしょ?」
何もない? じゃあ、俺と愛菜之が歩んできたものは? 紡いできたものは? 見てきたもの、話したこと、聞いたこと、全部なくなるのか。
そんな世界、願い下げだ。
「行かないよ……そんなところ」
「いいの? 私といかないと、身体中が痛くなったりするし、しばらくは動けないよ?」
「それでも、愛菜之との全部が無くなるくらいなら……!」
「どっちにしても、無くなるんだよ?」
愛菜之はキョトンとした顔で、説くように言いかけてくる。まるで何も知らない子供に言い聞かせるように、いたって冷静に。
「歳を重ねて、時間が経てば、薄れて消えていくの」
「消えたりなんかしない!」
「どうしてそう言い切れるの? 現に晴我くんは忘れてたでしょ?」
そう言われて、ドクンと心臓が裏返るように跳ねた。
思い出したとはいえ、大切なものを忘れていた。大切な人との、大切な約束。
向こうは信じて手を伸ばしてくれていたというのに、自分だけが何も知らないままに幸せを享受していた。
「消えたりなんか、しない……。記憶が霞んだってどこかに欠片が残る。そうして積もっていくものに、俺は幸せを感じるんだよ!」
「忘れられる側のことは? 大切なことを忘れられた私のことは?」
「それっ、は……」
それについては、俺はただ頭を下げて謝罪の言葉を口にするしかできない。
ただ、ここで謝ることが最善なのか。なにか上手い言い訳があるのか。
俺には、分からなかった。
「ね? 忘れるってことは、その程度なんだよ。だったら、今さら戻って苦しい思いをしないで、私と一緒にお昼寝しよ?」
「……」
愛菜之の声と表情、だからこそ苛まれる罪の意識。
目の前の『何か』は愛菜之じゃないのに、愛菜之だ。
このまま誘いに乗ってしまえば、俺は何も感じずに済むのか? 痛みなく、苦しむこともなく、全てを終わらせられるのか。
だとしたら、きっと幸せなことかもしれない。失う苦しみも、忘れる焦燥も、忘れてしまった罪への意識も。
全部、楽になるのかもしれない。
「……戻ればさ、また愛菜之に会えるのか?」
「保証はないよ」
質問にはちゃんと答えてくれるんだな。一体全体、どういうつもりで動いているんだろう。
とはいえ、その戻るとやらをすれば本物の愛菜之と会えるらしい。どこに戻るかも知らないが、俺は目の前の『何か』とは一緒に行かない。
「戻るよ。俺は愛菜之がいる世界にいたい」
「そっか。じゃあ、バイバイだね」
「……今度会う時はさ、またクッキー食べさせてよ」
「うん、焼きたてのを用意するね」
きっとあのクッキーを食べていたら、オレは戻ることはできなかったろう。そんな気がする、気がするだけで、確証はない。
だから、今度会う時は。必ず、食べることになると思う。
「それじゃあ、またな」
「うん、バイバイ」
手を振る愛菜之に、俺も笑顔で手を振る。
きっともう、本当のことを忘れない。大切なものは忘れない。この約束だって、忘れたくない。
もう何も、失わない。もう何も、忘れない。
「……おはよう、晴我くん」
無機質な機械の音が響く。それは晴我くんの生きる証。そう思えば、この音すらも愛おしく思えてくる。
今日のおはようにも、晴我くんは寝息で返してくれた。優しい晴我くんは、お返事もちゃんとくれる。
「今日はね、学校サボっちゃった。行くのも嫌だし、知らない男が話しかけてくるし、楽しくないんだ」
愚痴なんてこぼしたら、晴我くんはきっと心配する。だから、できるだけ小声でぽつぽつ話す。
聞こえてたとしても、全部嘘だって、笑顔を向けるんだ。そうしたら晴我くんは、きっともっと心配するかもしれないけれど。
「晴我くんのお部屋ね、掃除してたんだ。ベッドに入ったら、良い匂いがしたんだ」
勝手に人のベッドに入るなんて、ダメかもしれない。でも、晴我くんの匂いがしたんだ。薄くなっても、感じられたんだよ。
「……今日はね、晴れてるよ。雲もないよ。こういう日は、外でご飯食べたりしたいね」
お弁当、作ったら喜んでくれるかな。サンドイッチ、また作ったら嬉しそうに頬張ってくれるかな。
窓の外は、すごく陽の光が照ってる。晴れの日は、晴我くんのことを思い浮かべちゃうんだ。名前に晴って入ってるから。
晴れの日は気分が良くなるの。晴我くんのことを思い出して、思い浮かべて、幸せになる。
「……今日も、一緒にいさせてね」
手を握る。だいぶ細くなったように感じる晴我くんの手。元々、そんなにお肉がついてなかったからしょうがないのかもしれないけれど、やっぱり心配だな。
いっぱい、ご飯作らせてね。いっぱい、食べてくれると嬉しいな。
「大好き」
この気持ちも、言葉も。
私のちっぽけな命を守ってくれたあなたのために、捧げるもの。
あなただけのためのもの。晴我くんだけに捧げる、私の全て。こんな言葉じゃ、分かりづらいかもしれないけれど。
「……大好き」
全部をあげるって意味の、大好きなの。
「……」
ボヤけた視界、乾いた唇。張り付いた喉。
自覚していく、身体中の鈍い痛み、直前の記憶。逆さまの空、靡く黒髪、恋人の匂い、赤と黒の火花の散る視界。
手の方を見ると、見慣れた黒髪の美人がいた。
俺の手を抱えるようにしながら、ベッドに突っ伏して寝ている。生きていてくれたことに、涙すら流しそうだった。
張り付いた喉も、乾いた唇も、うまく動かせない。それでも、一番最初に言いたかった。
「おはよう」
それが言葉としての形を取れているのかも分からない。服の擦れる音に似たような、掠れた声だったかもしれない。
それでも、愛菜之にそう言えることが。言えた幸せが。
生きていく意味を、教えてくれた。
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