第53話

「どういうこと?」

困惑した表情のまま、愛菜之は俺に聞く。離れた手の行き場は失くして宙に浮いたまま。

「聞いてたよ、会話」

一言だけそう返す。長く言葉を繋げられない。何かが喉に引っかかった感覚が嫌に残っている。

「母さんに頼まれてたよな」

「……うん。晴我くんとの関係、認めてもらえたよ」

「違う」

俺の言葉に愛菜之は怯んだように唾を飲む。困惑した表情は悲しむような表情に歪んでいく。

「頼まれたんだよ。付き合ってやってくれって。頼まれたんだよ……」

頼まれたんだ、そうだ。お願いされて付き合ってることになる、それじゃあ。


それじゃあ俺と愛菜之の関係って、なんなんだよ。


「俺は、愛菜之と対等な関係でいたい」

けど、母さんは頼んだ。愛菜之は頼まれた。

そんなの、対等な関係なわけがない。

「対等だよ。恋人だよ。私と晴我くんは」

愛菜之はこう言ってくれている。実の所、愛菜之ならこう言ってくれるとわかっていた。

けれど、それでも不安だった。もしかしたら否定してくれないんじゃないか。もしかしたら俺は飽きられているんじゃないか。

不安の連鎖はどんどん、どんどん繋がっていく。胸の奥まで伝わっていく。

「だから、大丈夫だよ。心配しないで。私と晴我くんは死んでも一緒なんだよ。いつまでも永遠に一緒なんだよ」

この言葉も、いつもなら素直に受け取って喜べたのに。不安という病が愛菜之の言葉を食っていく。

「不安? まだ怖い? 大丈夫、大丈夫だよ。私は絶対に離れないから」

愛菜之が俺の手を自分の手で包み、微笑みかける。見慣れた顔に、安心することができない。

「キスしてほしい」

自分が何を口走っているかも理解できていない。

こんなバカみたいな、場違いなことを頼んでも愛菜之は、笑顔で頷いてくれた。

唇と唇をトン、と軽く触れさせるキス。自分の乾いた唇に、彼女の柔らかい唇が触れる。

「抱きしめてほしい」

また頷いて、優しく体を包み込んでくれる。

「好きだって、言ってほしい」

抱きしめる力を強めて、彼女は言ってくれる。

「好きだよ」

不安は、次第に消えてくれる。


「俺、頑張ったんだ」

「うん」

「邪魔にならないようにってさ。一人でなんでもできるようにってさ」

「うん」

「でもさ」

それでも母さんは、愛菜之に頼んだ。付き合ってやってくれって。

「俺、まだ認めてもらえないのかな」

頼られなくても大丈夫なんだなって、もう母さんに頼らなくても大丈夫なんだよって。

そう認めてもらえないのか、まだ、まだ……。

「頑張ったんだけどなぁ……」

今まで、わがままの一つも言ってこなかった。

運動会に来れなくても泣かなかった、怒らなかった。

お弁当を作ってくれなくても拗ねなかった、物を壊したりしなかった。

ご飯を一緒に食べてくれなくても、寂しいと思わないようにしていた。

卒業式も、入学式も、来てくれなくても大丈夫だって嘘をついて。

来て欲しいなんて本音、言えなくて。

あの一言が常に胸に引っかかっていた。深く深く食い込んで、剥がれてくれない。

『あの子さえいなければ……』

今だって明確に思い出せてしまう。ああ、痛い。胸が苦しい。

全身が冷え切っていく。血が巡ってるのかさえもわからなくなって、目の前はぼやけてしまう。

目頭が嫌に熱い。熱くて熱くて、何かが溢れそうなほどに。

「俺は、いらないんだよなぁ……」

俯いて、声が震えて、喉に刺す冷気が痛い。鼻の奥がツンとする。

寒くて、寒くて寒くてしょうがない。近くを通る車の音が遠のく。世界に独り取り残されたような感覚に陥る。戻れないくらいに、遠のいて、遠のいていく。


「頑張ったね」

おもむろに言われた言葉に我に返った。

「すごいよ、晴我くんは」

顔を上げた。

「今までいっぱいいっぱい頑張ったんだね」

ぼやける視界には、俺を見てくれている人がいた。

「でも、私の前でまで頑張らなくていいんだよ」

言葉には想いがあった。

「少し休もっか」

俺に、優しい笑みを向けてくれていた。

「私と一緒に、安心できるところで」

腕を広げて、俺を迎えた。

「大丈夫だよ。私が見てるよ」

ひたすらにあたたかくて、心地が良かった。

「私が愛してる」

腕の力は強まっているのに、どこか優しさを感じた。

「好きだよ」

心が溶けていく。目にとどまっていたものが、その拍子に溢れてきた。

「ずっと一緒。私と晴我くんは、ずーっと、ずーっと一緒」

背中を細い手で、優しく叩いてくれた。トントン、と叩くたびに、その振動が体のすみまで届いていった。

「全部、全部吐き出して。私は全部受け止めるよ」

「あ、うぁ……」

「私は晴我くんの、最愛の人だよ。受け止めるくらい、簡単だよ」

「っ、まなの……」

「うん、晴我くん」

目から溢れる熱いものを、口から漏れる嗚咽を必死に止めて、彼女の名前を呼ぶ。

「ごめ、おれ……きもいよな……」

「またそういうこと言って……」

呆れたようにふふっ、と笑って、彼女は俺の頭を撫でる。

「私は晴我くんが好き。だからね、晴我くんにとって気持ち悪い部分も、私にとっては好きなところでしかないんだよ」

だからね、と彼女は続ける。

「いっぱい気持ち悪いところ、見せて」

「うあ……」

声を殺して、必死に愛菜之を抱きしめて、俺は。


愛菜之に、気持ち悪いところをいっぱい見せた。

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