第36話

「はぁー……」

吐く息は白く、手の先がうまく動かない。

見てみると真っ赤になっていて、頬に当ててみるとひやりとした。

十一月十一日。冬になったかと感じるが、冬至はまだ遠い。

今日の気温はいつもと比べ、かなり低い。のだが、左腕だけはぽかぽかと暖かった。

「今日は寒いね」

俺の左腕を抱きしめながら、俺の顔を見上げてふわりと笑う可愛い女の子。その可愛い可愛い女の子───愛菜之は、俺が寒いと感じているのを察してくれていたのか、そう言って抱きしめる力を強めた。

女の子特有の、甘い匂いがする。むにゅっとした柔らかい感触が俺の腕を包む。

「あったかいココア、あるよ。飲む?」

そう言って小首を傾げて聞いてくる姿が可愛くてたまらない。体温が上がったようにかんじる。

「ありがとう。いただくよ」

それを聞いて、嬉しそうに愛菜之は言う。

「じゃあ、口移しで飲ませてあげるね」

そう言って人気のない路地裏に俺を引きずり込んだ。


引きずり込んだ、なんて言い方は語弊があるかもしれない。

俺は一ミリたりとも嫌がっていないのだから。むしろ喜んでいる節まである。

「なぁ、本当に? マジでいいのか?」

「ほ、本当にするよ? ど、どうしたの?」

俺が必死の形相で肩を掴んで確認すると、顔を真っ赤にしてこくこくと頷く。

眠気が抜けていないのか、愛菜之をいつもより求めてしまう。最近は夜遅くまでスマホをいじっちゃうんだよなぁ……。

表に勧められた動画とか結構面白いんだよなぁ……。ゲームの配信実況っていうのが中々面白い。ただ、深夜に多いのが難点だなぁ……。学生には少しきつい。

まぁそうやって寝不足が続いて、理性が効かない時がある。ちょうど今みたいに。

「じゃあ、お願いします」

しっかりと挨拶して、再度肩を掴み、口と口を合わせる。

特有の粘り気のある黒茶の甘い液体が、愛菜之の口から流れ込んでくる。それを受け止め、飲み込んでいく。

口を離すと、俺の口の端から少しココアが漏れた。

それを愛菜之が、優しく舌先で救いとる。

甘くて、温かくて、今にもとろけそうになる。


いや、とろけていた。愛菜之の目が。

完全にスイッチが入っている。実のところ、俺もスイッチが入りかけた。ていうかもう入ってる。寝不足って本当に怖い。

「晴我くん……晴我くん、もっとぉ……」

もの欲しそうな顔で袖を引っ張られ、どうしよう、本当にもう一回やっちゃおうか、なんて思っていた。

そんな時、右ポケットの中のスマホが震えた。

せっかく良いところなのに……と若干の怒りと、危なかった……と安堵する気持ちでスマホを見てみると、どうでもいいどこかの企業からのスパムメッセージだった。

いや、それは本当にどうでもいいのだが。

表示されている時刻に、俺は少し胃のあたりに不快感を覚えた。

「愛菜之」

「好き、スキ……」

あらま、可愛い。いや、じゃなくて。

「このままじゃ遅刻するって」

「そんなの、どうでもいいからぁ……欲しいよぉ」

前……夏休みに見た誘うようなその表情に、興奮と焦りが波のように押し寄せる。

もうこのまま、流されてしまおう。そうだ、愛菜之と二人でなら────




となるとさすがにいろいろまずいので、愛菜之をそのまま引っ張って学校へ行った。

ただでさえ俺たちは学校でイチャついていて、やれ結婚を考えているだ、やれもう二人は大人の関係だ、などと言われているのだから、二人一緒に遅れてきたなんてことになったら、また余計なことを考えられそうだ。

しかも言われていることが二つとも合っているというのが、なんだか悔しい。


「おっはー……んん? お疲れ」

ゼェハァと呼吸を繰り返す俺に労いの言葉をかける表のおかげか、少し体力が戻ってきた。

「ああ、おはよう……」

「えへへへ……」

黙ったまま俺の腕にしがみつく愛菜之を見て周りはニヤニヤしたり、俺に嫉妬の感情のこもった視線を送ったりしていた。

もうその視線にも慣れているのでどうでもいいが。

「愛菜之、学校着いたぞ」

「……えへ、えへへ、ダメだよ晴我くんこんなところで……え? あ、あ! ありがとう、晴我くん!」

「あ、ああ……」

なにか妄想を膨らませていたのが少し気になるが、まぁいいだろうと思考を投げ出す。とにかく座らせて欲しかったのだ。全力で走って足が痛い。あと眠い。

「ねっむ……」

座って鞄を置くと一気に疲れが雪崩れ込み、眠気に襲われた。あまりの全力疾走のおかげか、始業時間まではまだ時間がある。少しでも寝ておこう。

机に顔を突っ伏す。落ち着いて考えてみると、朝からなにやってるんだろうと自分を疑った。朝からあんなことを……と、悶えていると、ツンツンと肩をつつかれた。

顔を上げて見てみると、すぐ隣に愛菜之がいた。

「膝枕」

膝枕、だそうです。膝枕してくれるらしい。

ピタリと揃えられた膝に、俺は頭を乗せる。もう安眠さえできればなんでもいい。

周りからヒュー、と高い声が聞こえたり、男どもの舌打ちや嫉妬の目が俺を見てたりしたが、眠くて、もうなにも考えられていなかった。

「あー……」

ふわふわで、柔らかくて温かい。無理だ、寝る……。




「ふふっ」

眠る晴我くんの頭を撫でながら私は微笑む。可愛い晴我くんの顔を見て。

始業時間までほんの少しだけど、こうしている間がとても幸せ。正直、このまま連れ去って二人のままで、ずっと膝枕してあげていたい。学校なんてどうでもいいもん。

私が幸せな時間に浸っていると、一人見知らぬ男が話しかけてきた。

「あ、あのさ、重士さん、ちょっといい?」

マジかよ! やるのか…!? と驚きの声や、きゃー、と甲高い声が、いろんなところから上がっていた。

「はい?」

私が晴我くんから顔を上げてその男に目を合わす。本当は晴我くんの顔を見ていたいけど、晴我くんの彼女……ううん、お嫁さんとして、礼儀正しくしていなくては。

「その、今、時間大丈夫っしょ?」

「えっと……大丈夫じゃないです」

用件はわからないけど、今は晴我くんに膝枕してあげないといけない。つまり大丈夫じゃない。

周りからゲラゲラと笑い声や、だろうなぁ、と声が上がる。なんなんだろう。

「そ、そう……いや、ちょっと大事な話があって」

「? 大事な話?」

断られた男が若干笑みをひきつらせながら、そんなことを言った。

首を傾げる。こんな話したこともない男から、大事な話?

そんなの、あるわけないのに。

「いや、ほんの五分ぐらいで済むからさ、ついてきてくんね?」

「ほんの五分で済むならここで話してもらっていいですか?」

そう言うと、その男の体が若干揺れた。なんだか汗もかいている。こんな寒い時期に汗をかくなんてとても暑がりなんだろう。

「だ、大事な話だから他の人に聞かれたくないんだ。つ、ついてきてほ……ついてきてくれませんか……?」

そんな風にお願いされて断れば、嫌な女になってしまう。晴我くんのお嫁さん……ううん、愛妻として、それは断固阻止したい。

「うん。じゃあ、行きます」

「マ、マジ……!?」

なにをそんなに喜んでいるのだろう。本当に不思議だ。それに周りも、おっ! とか、ワンチャンか…!? とか、きゃー! とか、また声を上げてる。

それはそうと、晴我くんの膝枕、どうしよう……。仕方ないから、持ってきていたタオルを畳んで、枕にしてあげた。ごめんね、晴我くん。この埋め合わせは必ずするから。

随分疲れていたのか、中々起きる気配はなかった。あとでいっぱい癒してあげなきゃ。

それと、女の配信者を見ていたことについても話をしなきゃ、ね。




「ん……」

始業のチャイムで叩き起こされた俺は頭を起こす。ほんの少しの睡眠だったが、それでもさっきよりは疲れが取れていた。

俺たちの担任は、始業になっても五分ほど遅れて来る。その間は、皆校内使用禁止のはずのスマホで遊んだり読書したり友達と話したり様々だ。

俺は愛菜之とゆっくり話したいんだが……。

「あれ?」

今更気づいたが、愛菜之がいない。俺を膝枕してくれていたはずの愛菜之が。

一旦伸びをして息を吐き、ようやく思考がクリアになった。

これまた今気づいたが、周りがなにやらニヤニヤした顔で俺を見ている。

面白いものでもみるような、からかうような顔で。

「おはようございますぅ。彼女さんの居場所が知りたいのかな?」

わざとらしい口調でそう言ってきた表に、俺は怪訝な顔でたずねた。

「ああ……愛菜之はどこいったんだ?」

「聞いて椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がるなよ?男子に連れられてどっか行った」

「はあ!?」

声を上げ、表が言ったまんま、椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がる。

男子に連れられて行っただぁ!?まさか、二人っきり!?いや、二人っきりじゃなくてもそれはそれでまずいだろうけど!

「いやぁーいつでもお前にべったりだし、彼氏のいる前で思いを伝えるなんて無理だろうからなぁ。お前が寝てる時を見計らって連れてったんだろな」

表がのんきにそう言ったが、それはとても重要なことだった。

「思いを伝える……?見計らってだぁ……?」

つまり、つまりつまりつまり。

愛菜之は今─────




「あ、晴我くん……」

「愛菜之……!」

ほんの数分がたってから、愛菜之が教室へ帰ってきた。愛菜之が入ってきた瞬間、どよどよと周りが騒ぎ始め、ほんの少しの間をおいてから一人の男子がまた教室に入ってきた。それにまた、周りはどよどよと騒ぎ始める。いや、そんなことはどうでもいい。

俺は駆け寄ろうとして、やめた。

なんて声をかけるつもりだったか、わからなくなってしまった。

本当に告白されたのか、もしされたのだとしたら、はいか、いいえ、どちらで答えるのか、気持ちが揺れたか。

色々と不安で、聞きたいことが山ほどあったが、俺はなにも聞けずに、ただ一言場違いなほどに能天気な言葉しかいえなかった。

「……おかえり」




四時間目の授業が終わり、昼休み。

それまで、俺の心を知ってか知らずか、愛菜之からは一言も話さず、そして俺も話せずにいた。

ただ二人とも、いつものように隣にいた。

チラチラとこっちを見てくる男が約一名いたが、そんなものどうだっていい。

「……お昼、食べよ?」

遠慮がちに愛菜之がそう言い、俺たちは人気のない教室へ移動する。

さすがにここで、愛菜之に色々と聞けるほど図太くない。

そんな俺たちを周りは興味津々で見ている。でもそんなの、知ったこっちゃなかった。

押し寄せる不安が、ただ怖かった。




移動してからも、どうも愛菜之がおかしい。

いつもと違う。もっと、いつもならもっと、ひっついてきてくれるはずなのに。

「な、なぁ愛菜之」

思い切って今朝、なにがあったかを聞いてみる。包みを広げようとする愛菜之の手がピタッ、と止まった。

「今朝……なにが、あった、んですか?」

また敬語。弱気になると必ず敬語になるこの癖はぜひ治したいものだ。

まぁ、今はそんなことどうでもいい。

愛菜之は、止まっていた手を再び動かし、包みを広げようとしている。

シュルシュルと音をたてて解けていく包みにずっと視線を向けて、俺の言葉に返事をしない。

だけど、震えていた。愛菜之の手が。

「な、なぁ、どうしたんだ?」

震える手に、俺が手を添えようとすると、ガシッと掴まれた。

細い指で、手で、精一杯に俺の手を握る。

ただならぬ雰囲気を感じて、俺は意識を切り替える。

「どうしたんだ? なにか、されたのか?」

真剣な声にびくりと体を跳ねさせ、恐る恐る顔を上げた。

俺と一瞬だけ目を合わせ、すぐに逸らす。まるでなにか、やましいことでもあるように。

「なぁ、本当にどうしたんだ? 言いにくいなら言わなくてもいいけど、できれば聞きたいんだ」

そう出来る限りの優しい声音で言ってみると、視線を左右に泳がせ、心底申し訳なさそうに、なにかに怯えながら、こう言った。

「……好きって、言われちゃった」


……。

いや、うん。なにか悪いことがあったもんだとばかり思っていたので、正直拍子抜けしたが、普通のことでよかった。

なんかしたのならぶん殴りに行ってたぞあの男。

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

なぜか愛菜之は悪いことをしたかのように必死に平謝りをする。

愛菜之はなにも悪いことなどしていないのだが……。

「いや、そのぉ……なんで謝ってるんだ?」

謝っているわけに、皆目見当がつかず、聞いてみる。

「他の男に、告白されて……晴我くんが、嫌な気分になったりしたら……」

嫌な気分には、正直なった。けれどそれを今言えば、責めているのと同じになってしまう。

嘘も方便。仕方がない。

「嫌な気分にはならないよ。大丈夫だ」

そう言うと、愛菜之が、あれ? という顔であたふたしだした。

「そ、その! 私は、晴我くんが誰か他の女に告白されたら嫌だなぁって思って、晴我くんもそうなんじゃないかなって思って……。そ、そっか……晴我くんは、嫌な気分にならないんだね……」

そんな悲しそうな顔しないでほしい。

俺は愛菜之の悲しむ顔にはとても弱い。好きな女の子の悲しそうな顔に弱くない男なんていないと思うけど。いたとしたら、そいつはかなり最低だと思うけど。

「いやっ! 実は、その……本当は、嫌な気分になっちゃって、る……」

慌てて本音を言う。愛菜之が告白されて俺は少し嫌な気分になりました。本当に。

なんというか、独占欲が疼いてしまった。でもそのこと言ってしまったら、愛菜之のことをまるで自分の所有物かのように言っているみたいで、そんな自分が嫌だった。

「! い、嫌な気分に、なってくれたんだ……」

愛菜之が少し嬉しそうな、でもどこか悲しそうな、複雑な顔をしている。

「あ、その……ご、ごめんなさい……晴我くんが、嫌な気分になっちゃったのに、少しだけ、ほんのちょっぴりだけ、嬉しいなって思っちゃった……ごめんなさい、ごめんなさい……」

ううん、と心の中で唸る。

今すぐにでも抱きしめたい。抱きしめて可愛いって言葉をかけまくって、好きって言って安心させてあげたい。

湧き上がる情熱は腹のあたりで抑える。愛菜之に告白してきた男のことを考えると、今俺が抱きしめてあれこれするのは、なんだか少し申し訳ないと感じた。

そう感じる必要と筋合いもないし、そもそも二人で教室を移動しているのだから今更だと思うが。

そういうわけで、俺は抱きしめて愛を伝えず、さっきから机の下で繋ぎっぱなしの手を指まで絡めて、こう言うぐらいしかできなかった。

「弁当、食べさせてくれないか?」




「今日ね! 今日ね! 晴我くんからお弁当食べさせてほしいって言われたの! 嬉しくてね! えへ、えへへへへ!」

「それは良かったですね! お二人が仲睦まじいのを聞いているととても気持ちがいいです!」

今、私の部屋に愛菜之さんがいる。

実は文化祭のあの日以来、私の家にちょくちょく愛菜之さんが遊びに来てくれていた。

そして今は、お二人の───晴我さんと愛菜之さんの間にあった出来事を聞いている。

このお二人の関係は、本当に素晴らしいものだ。信頼、絆、愛情、その他もろもろでガッチリと結ばれているお二人の関係は、他人のイチャイチャ大好き人間の私には大変、蜜である。

「ぎゅって手を握ってくれてね! 幸せって思いが胸いっぱいに広がってね! あーんしてっておねだりされたりね! ああ、大好き晴我くん!!」

そう言って自分を抱きしめる愛菜之さんを見ながら、口の端から垂れそうになっているよだれを引き止める。

このお二人の情事は聞いていて飽きない。砂糖を蜂蜜で煮詰め、ガムシロップを大量に入れたような劇的に激甘な関係。

正に、私は樹液に群がる一匹の虫だ。でもそれでも構わない。それがいい。

だって美味しいんだもの。

「お二人共幸せそうでなによりです。……ああぁ、たまらないですねぇ……」

感慨深そうに声を漏らして私はその場に寝そべる。

じっくりと愛菜之さんの話を味わい、愛菜之さんが妄想に満足するまでしばらく私は待つ。

これが、いつもの風景だ。

特別、おかしなことはない。のに、このことを先輩───要先輩に意気揚々と話すと顔をしかめる。

『君たち……いや、なにも言わないでおくよ……』

かわいそうなものでも見る目でそう言われ、なんだか癪に触ったが優しい私はなにも言い返さないであげた。できた後輩ちゃんだなぁ。

「……猿寺さん」

「? はいはい?」

妄想の旅から帰ってきた愛菜之さんが真剣な表情で私を呼んだ。一体どうしたのだろう。

「……告白されたって話、したでしょ?」

「ああ、今朝されたっていう」

愛菜之さんはどうやら、ある男子に告白されたらしい。そして、断り方を知らないのだとか。

断り方を知らない、と言われ私は内心おかしいと思った。

愛菜之さんぐらい可愛い人なら、今まで告白の一つや二つ、受けているだろうに、と。

もしかしたら、愛菜之さんのことを熱烈に慕っている人が、告白しようとする人を邪魔していたのかも、なんて。

そんなことがあるわけない。愛菜之さんにただの一度もバレずになんて、どれほどの猛者なのだろうか。愛菜之さんは、こう見えて……ゆるふわな雰囲気を纏っているけれど、色々と見ているから結構鋭いと、私は勝手に思っている。

「どんなふうに、断ればいいの?」

「うーん……断り方、ですよねぇ……」

というのも、私は今までカメラや写真やらにばかり興味を示していたので恋愛なんて全く縁がなかった。今になって少しばかり気になる人がいるけれど、その人とも進展があるかどうかもわからない。その人自身も疎そうだし。

しかし愛菜之さんが、友人が頼ってくれているんだし、張り切らなくては。

あ、と私はここで気づく。そもそも、どんな断り方を知りたいのか。

「どんなふうに断りたいんですかね?」

「ど、どんなふうに? その、穏便に済ませたいなって……」

なるほど。穏便に。

優しい人だ。やっぱりこの人は、周りの人のこともしっかりと考えられる人───

「晴我くんの永遠の妻として、大事にして晴我くんに迷惑かけたくないから」

愛する人を一番に考えられるいい人だと思う。

しかし永遠の妻、とは。本当に晴我さんのことを愛しているんだな、とまたも私は心にじわりと広がるあたたかさを噛み締める。

「穏便に済ます、ですか……だったら普通に断るだけでいいと思いますけどね」

「普通に」

普通。そう、普通に断るだけでいい。

あなたの気持ちは嬉しいけど私には好きな人がいて───という定型文の断り方。

「普通に、あなたの気持ちは嬉しいのですが、私にはすでに恋人がいます、と」

「嬉しくないし、嘘でも嬉しいなんて言ったら晴我くんに申し訳なさすぎて死んじゃう」

あ、そうだった。

愛菜之さんはこういうところは頑固だ。そこがまた私は好きなのだけれど。

「でしたら、好きな人がいるのでごめんなさい、だけでいいかと」

「好きな人、っていうより永遠を誓い合った人だから、それも伝えたい」

うーん。

自分の彼氏の素晴らしさを伝えたい気持ちは、わからないでもないけれど……穏便に済ませたいということを最優先するなら、してはいけないことだと思う。

「ならとりあえず、ごめんなさい、付き合えませんって言っとけばいいと思いますけどね」

付き合えない理由は、そりゃ既に付き合ってる人がいるから、と勝手に相手が納得してくれるだろう。というか彼氏がいる人に告白するなんて、なかなかの強者だなぁ、とテーブルに置いていたお茶を飲んで考える。

「わ、わかった。ありがとう、猿寺さん」

「いえいえ……ふふ」

思わず、笑ってしまった。

嬉しくて笑ったのだ。

「え? な、なにかおかしかったかな?」

「ああ、いえ、おかしいんじゃなくて……嬉しいなって」

「え? え?」

私の言っていることの意味がわからず、あたふたしている愛菜之さんに、私はカメラを向けたい衝動を抑えて話しを続ける。

「友達として、私のことを頼ってくれているんですから」

「……あ」

納得したのか、そう声を漏らした愛菜之さんは照れ笑いをしながら、私から目を逸らして頬をぽりぽりとかいた。

「友達……うん、猿寺さんは、友達、だよ」

「はい! 私たちは友達、です!」

嬉しくなって、強い口調でそう言うと、愛菜之さんは遠慮がちにこう言った。

「その、友達だけど……敬語、やめないの?」

確かにそうだ。友達なのに、敬語を使う。

親しい仲で、敬語を使うことはあまりないだろう。

「敬語、は……その、私のポリシーなんですよ」

「敬語が、ポリシー……」

よくわからない、という顔で首をひねる愛菜之さんに、遂に私は衝動を抑えきれずカメラを向ける。

「はい。私は、プロのカメラマンを目指しています。それも、人専門の」

「うん。前に聞いた」

ピピッ、とカメラの起動音が鳴り、私はレンズを覗いた。

パシャリ、とシャッターの切れる音が響く。

写ったのは私の部屋の壁。大したものはなに一つと写っていない。けれど中には、こんな普通の私の部屋でさえも芸術のように撮る人がいるのだろう。

私はやっぱり、風景を撮るのは下手くそなんだな、と悲しくなってしまった。まぁ諦めてるから大丈夫だけど。

「最高の写真を撮るためには、余計な肩入れは不要なんです。物事を、客観的に見ることが大切なんです」

カメラを向けられて、少し恥ずかしそうにしている愛菜之さんにお構いなしに二、三枚たて続けに撮る。

ちなみに、これは私が勝手に大切だと思っているだけだ。必ずしも全ての人に当てはまるわけではない。

「被写体に余計な肩入れをして、写真を客観的に見れなくなるのは困るんです。だから、私は被写体となる人と一定の距離を保つために、敬語を使うんです」

「……そうだったんだ」

敬語を使い始めたのはいつ頃だったかなんて、もう覚えていないぐらいに長く続けてきた。

「まぁ私すぐ人のこと好きになっちゃうんで、あんまり意味ないんですけどね!」

笑いながらそう自嘲的に言って、写真を確認する。

ブレもなく、光の加減もいい。

でもやっぱり、あの人……晴我さんがいたほうが、愛菜之さんはいい顔をする。

「そういうわけで敬語は、今すぐやめるというのは少し難しいので練習しておきます!」

「う、うん。無理にとは言わないけど……」

なんだか気まずい雰囲気になってしまった。うーん、なにかいい話題はないものか……。

「あ!」

私が突然、声をあげたものだから、愛菜之さんがびくりと肩を上げた。

「今日がなんの日か知ってます!?」

「きょ、今日?」

「今日はですね────」

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