<6>


 その廊下は誰も足跡をつけていない新雪のように真っ白で綺麗に磨きあがった床には、その廊下を歩む人間の影がぼんやりと写るほどだった。

 そのような廊下にも負けずに豪華な赤い天鵞絨ビロードの絨毯が床に敷かれており、周りの壁や窓の雰囲気も含めて、まるでお城のような建物だった。その大きな窓から昼の日の光が差し込み、廊下はいっそう煌びやかなものに見えた。


 そんな煌びやかな場所は『フィエルテア学園』と呼ばれる場所。つまりは学校の一つにあたるのだ。その華やかな光景を歩む生徒達も、その立ち振る舞いから見て、この建物に似つかわしい人間であることは理解できた。響く靴音は決して大きくすることなどをせず、大股で歩くなどもってのほか。

 そんな生徒達が談笑しながら歩いている中、一人で周りを見向きもせずに歩む一人の女子生徒がいた。背筋を伸ばし、凜としたその姿は堂々としており、周りの生徒から羨望のまなざしを受けていた。


 そのまなざしを受ける張本人は、学園内の放送で学園長から呼び出されており、今は学園長室に向かっていた。その呼び出しが始まったときは、ざわついた生徒もいたものだが、呼び出された名前を聞くと、納得したようにそれぞれしていた談笑などを再び始めた。

 呼び出された生徒の名は水無月紬みなづきつむぎ。この学園で『白絹のきみ』と称される生徒である。




 その呼び出された学園長室の前まで来て、その扉をノックする。その音に反応した、中にいるであろう学園長との応答を繰り返し、その室内へ入る。

 中にいた女性は、まるでシスターのような格好だが、修道服ではないという複雑な格好をしていた。前学園長もカソック服のような物を着ていたので、フィエルテア学園の学園長は、こういった格好をするのが決まりなのである。

 今の学園長は、晴れ晴れとした空のような青い修道服のような服装だった。修道服のようなと呼ぶのは、修道服の頭巾の下にある白いウィンプルが無くただのベールで、下の服もただのロングワンピースだからだ。


 学園長は慈しむような微笑みを浮かべて紬に視線を送り、本題である話題を話し出す。そう、湊がこの学園に絵を鑑賞しに来る時のことだ。学園長である彼女は、湊の案内役として紬を選んだのだった。

 その学園長の選択に、選ばれた張本人である紬は当然のように、浮かんできた疑問を彼女に問いただす。


「――失礼ですが、なぜ私のような生徒を選んだのですか? 私では、他校の生徒を案内する役には向いていないと思うのですが」


「……そうね。貴方は人と付き合うのが上手い方ではないとは思います」


「ーーならばなぜ、尚更私を選んだのですか」


 心の底から困惑いることが伝わるような声色で、紬は学園長に問うた。彼女がそういった人間であることを学園長は知っているのに、何故わざわざ自分のような人間を選んだのか。

 そんな彼女の様子に学園長は慈しむような瞳をさらに和らげ、そのことに関する返答を返す。この声は、とても優しい声だった。



「――それは、その子と貴方が仲良くなれるだろうと、確信しているからですよ」




◆◆◆




 ――ついに、この日がやって来た。遠目から見ても大きい校門に、割とアレな人間と例えられている図太い神経をしている湊ですら、思わず尻込みそうになる。

 その臆する心を落ち着けるためにゆっくり深呼吸をして、女性らしい歩き方を意識して歩いて、城門のような雰囲気すら持った校門へと進んでいく。

 一歩一歩近付く度に、その門の絢爛さや大きさにクラクラとしそうになる。絵になりそうな建物であるとは前々から思っていたので、その中に入れる興奮と、自分のような庶民がこんな所に入っていいものなのかという葛藤が、余計に意識をクラクラさせた。

 それでもしっかりと教わったとおりに、女の子らしく、なおかつ淑女に見えるように強く意識して城門のような校門へと歩いて行く。




 フィエルテア学園を見学させてもらえるのは、連絡した日から二週間後だった。普通の学校なら『期間長いなー』と思ったかもしれないが、なんせ見学させてもらう所が、多くのご子息・ご令嬢が通うような学園なのだ。

 全く学園に関係ないような人間が、二週間で見学させてもらえるなどと凄いことだろう。奏音の後輩と言っていたので、相当若いはずなのだ。なのに、こういったことをできてしまう辺りが、その若さでこの学園の長をつとめられる理由だろう。




 そんな中、たった二週間では『誰にも気付かれないような女装』をするには時間が足りぬと言い切った六花は、この前の買い物を行った休日に、急いで店という店を湊と諒太を引っ張り回して、駆け巡った。

 もともと目的地だったショッピングモールには、彼女がアルバイトを始めた店の店長の知り合いが集まる所だったらしく、事前に話が通っており、湊の姿を見た店員と一致団結して色々と話し合いながら、揃えていく姿は圧巻だった。

 あまりの六花と店員のヒートアップっぷりに、湊と諒太の男達は何も発することができなかった。こういう時、男は無力なものであると二人とも実感した。


 その買い物の中で化粧品売り場などに行ったまでは理解できたのだが、女性の下着売り場まで放り込まれるのは理解できなかった。しかも、そこの店の店長も、六花の店の店長と知り合いだったらしく、話は通っていた。いったい何者なんだ、六花の店の店長。男勢は揃って同じことを思った。

 湊の存在が目立たないように配慮されてもいなかったが、店内に入ると納得した。カップルで店に入っている人も、少なくはあるが存在しているのだ。諒太が入店を拒否して、六花と二人で店内に入った時点で『彼女の下着を見に来たカップル』とでもとられたのだろう。

 六花もそのことが分かっているのか、静かかつ周りに悟られないように、湊が着用するつもりであろう下着を無言で選んでいた。そんな六花の姿に、周りに聞こえないようにひっそりと、疑問に思っていたことをぶつけ、六花もそれにたいしてひっそりと答えた。



「ねぇ、六花ちゃん。なんで下着まで選ぶ必要があるの? 服とかだけでよくない?」


「服によっては、下着のラインが見えるものがあるからよ。それに、上辺だけでも女の子の格好すら極めないで、名門校に通っている淑女相手に気付かれないでいられると思ってるの?」


「それは、そうだけど……」


「因みに、腕とか足とか脇とか諸々のムダ毛は、全部剃ってもらうからね」


「え、それって下着つけるなら陰毛の方も剃らなきゃダメですか……?」


「……あたりまえでしょ? 処理の仕方は教えるから、しっかりと処理してよね」


「ーーそんな、それは、決定事項なんです!?」


「当たり前でしょ。ーー本当に極めたいんだったら、その近くについてる物を無くしたつもりくらいでいかないと! これでも慈悲がある方だと思いなさいよね」



 ――六花のお洒落に対する執着をなめていた、と股の間がヒュンとする感覚を覚えながら、湊は後に諒太に語り、諒太も『とてつもなく愉快な会話で、友人としては腹抱えて爆笑したいのに、男として爆笑できないのがつれぇ』という、笑いでなのか、その言葉に引いてなのか分からないが、引きつった笑みでそう答えた。

 さらにその後日、何とも言えない顔をした六花に『さすがに急所を無くすとか言うのは、女の子としても人間としてもダメだったわね、ゴメン』と謝られたので、その辺は気にしてはいないのだが。


 しかし『女の子に見える』手段は、ここからが苛烈を極めた。その日の格好やどんな風に化粧を施すかも決めて、男として泣きそうになりながらムダ毛諸々を処理をして、後はその日を待つだけだと湊は考えていた。

 が、六花の方はそうではなかったらしく、格好が決まった後日から、その日の格好をして『女の子らしい振る舞いをできるか』というレッスンが始まった。足の開き方や歩き方、立っている際の背筋の注意、いかにしてその日の格好を崩さないように行動できるか等々、まるでモデル化何かのレッスンのようだった。

 そのレッスンを受けている湊を見て、母である奏音は『まるで湊が立派な所のお子さんみたいなってるからすごいわねー』と嬉しそうに笑っていた。まぁ、そこだけ見れば確かだし、良いことなのだが。理由が『女装を極める』と言わんばかりの理由でなければ。




 こうして、フィエルテア学園に向かうその日までレッスンを行い、諒太も褒めるほど、女の子らしい所作はできるようになったと思われる。六花はまだ納得していなさそうだったが。その教わった所作で門前近くまで来ると、一人の少女が立っていた。この学園の女生徒の制服であるふわりとしたワンピースのような服を着ているので、確かにこの学園の生徒ではあるのだろう。

 肩まで真っ直ぐに伸びた髪は、風に揺れるとサラサラとして夕日で煌めき、一本一本が美しいと思える髪だった。同じように真っ直ぐに伸びた背筋に、しっかりと閉じられた足。まるでそれだけで一つの絵になりそうなほどしっかりとした、小柄な淑女が立っていた。

 この姿を見て、六花が立ち振る舞いに口を酸っぱくして語っていたことが、身をもって理解できた。なるほど、これが『淑女』と呼べる人なのか。

 そのあまりにも出来上がった絵のような光景に、思わず足を止めてしまったが、湊の存在をすでに視認していたのか、淑女である少女は、足を止めてしまった湊の元へゆっくりと歩いてくる。


「――月瀬湊さんですか?」


「あ、はい。私が月瀬湊です。……あの、フィエルテア学園の生徒さん、でよいのでしょか?」


「はい。私が案内を頼まれた、水無月紬と申します。よろしくお願いいたします」


 そう言って、あまりにも模範的と言える綺麗なお辞儀をされたので、不格好ではあるが反射的にお辞儀を返す。その後に、ではこちらですと言いながら、スッと案内へと行動が移される。

 そうして絵が飾られている場所まで、静かに向かい始める。その間には会話が発生しそうな気配すらなく、ピンと張り詰めた糸のような少女――水無月紬は、会話をするつもりがないらしいと思わせ、話しかけることすらためらわれた。

 夕方頃の校内には、生徒の姿すらほとんど存在を感じられず、遠くから談笑しているような話し声が聞こえてくるだけだった。それが尚更二人の間の空気が張り詰めているように感じ取れた。


 外装もそうだったが、内装もまるでどこかの城のような建物に、実に絵になりそうだと思ってキョロキョロと視線を動かしそうになるが、自身の前を歩く淑女を見ると、そんな考えが消えていく。背中にでも目がついていそうなほど張り詰めた彼女の近くで、少しでもぼろが出そうな行動をすると、一瞬でバレてしまいそうだと思ったからだ。

 まるで先生の前に立たされているような緊張感だ。その緊張感を例えるのにしっくりきた言葉を思い浮かべた瞬間、目の前の彼女の姿がゆっくりと止まる。



「――こちらの部屋に飾ってあります。ここは絵画を専攻する生徒が、学び場として使っている部屋です」



 そんな言葉を語りながら、彼女はその部屋の取っ手を握り、回す。そうしてゆっくりと開いた扉の隙間から夕日の光が見え、その眩しさに、目を塞ぎそうになってしまった。

 彼女によってゆっくりと開いた扉の先に入るように促される。部屋の中は、まるで美術室のような作りになっていたが、自身の学校の美術室とは広さも画材も、なにより全体の美しさが違った。新しいから、傷がないから。そういった美しさではなく、なんと称すればいいのだろうか。全体の作りや雰囲気が湊に『美しい』と感じさせた。

 紬はここが学び場として使われていると語ったが、ここの部屋でさえ、何かの作品のようだと湊は思った。その部屋をぐるりと見渡すと、いくつもの絵画が飾られており、その配置にすらこだわりがあるのだろうと、学のない湊でも分かるほどに『作り込まれた』部屋だった。


 思わず感心したように見渡していると、紬の方から小さく声を掛けられ、こちらに貴方様のお父上の絵がありますよと声をかけられた。その言葉に本来の目的を思い出し、淑やかに紬が待つ、父親が描いたという絵が纏められている場所へ向かう。

 そこへ足を向けると、そこにはいつも見ていた絵達と似たような雰囲気を感じた絵が飾ってあった。理由もなく、何となくだが感じ取れるのは、昔から彼の特徴だった。その感じ取った物を、言葉にするのが下手くそなのも特徴ではあるのだが。


 あらためて、単純に技術は父の方が上なのを感じ取り、思わず悔しさで手を握りしめてしまう。年月も生き方も違うので当然なのだが、一番身近な『ライバル』と言える存在である父に、完敗しているのを感じ取ってしまった。

 悔しい。こんなにも『誰かの絵』を見て、悔しいと感じるのは昔から父の絵だけだった。じっと父の絵を見つめながら、あることに気付く。『技術』で負けているのが悔しいという感情は出てくるが、『この絵を超えたい』と思う絵がここにも存在していないのだ。この絵を超えたい――そう思ったのは『花嫁の肖像』だけ。

 そのことに不思議に思っていると、考え込む時間が長かったのか、紬から『そろそろ時間になりますが、よろしいでしょうか?』と問いかけられた。その言葉に思考と感情の渦から自身を這い出して、彼女に了承の返答をした。


 ――それでは、戻りましょうか。その言葉を皮切りに紬は歩みだし、こちらの部屋へ来た道を通り、校門へと向かい始める。スランプになった理由は分からなかったけれど、あの絵は『俺自身にとって』特別な存在なんだ、ということが認識できただけでも満足だ。

 そんな風にポジティブな思考でホクホクとした気持ちで帰り道を歩いていると、歩きを止めぬまま、世間話をするように紬から話しかけてきた。



「――あの。申し訳ありませんが、お一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


「え。あ、はい。お礼と言うには傲慢ですけれど、私に答えられることならば何でもお答えしますよ」



 その言葉に一瞬だけぴくりと反応したが、歩みを止めないまま、再び世間話をするように、湊にとって衝撃的な言葉を言い放った。





「――……なぜ月瀬さんはわざわざ『女性』の格好をしているのでしょうか?」




 ――その言葉の衝撃に、湊の歩みは完全に止まった。




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