<3>
――その絵のことを話すときの母は、いつも優しく微笑んでいた。ベール越しで完全に見えることはないけれど、その絵の時と同じような優しくて、柔らかな――まるで嬉しいことを話す子供のような笑みで語っているのだ。
それを幼い俺が伝えると、母は一瞬きょとんとした表情になったけれど、そのすぐ後に顔を赤らめながら、照れくささを隠すような笑みになった。
母は周りから美しい人だと思い、そう評して語る人は多い。けれど自身からすれば、それは造形的な美しさというよりも、どこか不思議な雰囲気があるから、人を惹き付けるのだと思う。
顔の造形的な話をするのならば写真で見る、亡くなった父の方が美しい方に当てはまるのだろう。母が暖かみのある美しさであるのならば、父は彫刻のような冷たさの美しさとでも言うのだろうか。
自身と似た色素の薄さが、父の彫刻のような印象を強くしたのだと思う。俺は、暖かさを持っていた時の父を知らないから。
そんな父が母を描いた、最初で最後の絵。俺の始まりの絵。
厚い雨雲が空を覆い隠し、その雲から小さな雨粒が線のようにぽつりぽつりと落ちている。けれどそんな雨雲の合間から日の光がその場に差し込み、明るさと暗さの両方が合わさった不思議な空。
それが狐の嫁入りと呼ばれる空模様だと後に知ったが、その呼び名は色々あるのだという。
そんな不思議な空模様の下は、咲く季節がまばらな花々が地面を彩り、描かれた季節がいつなのか分かりにくい風景。そんな全てが不思議な風景の中に、一人の女性が立っていた。
滑らかで光沢のある絹の白いドレスを身に纏い、長いベールで顔を隠しているが、そのベールの上からでも分かる花嫁の嬉しそうな笑み。
その全てが不思議な風景は、その花嫁を彩るためだけの舞台のようで、ひときわ花嫁の姿が引き立たせる為の物。美しい花嫁の肖像。それが、その絵の全てだった。
◆◆◆
『スランプなんじゃないか』という諒太の言葉に対して、思うところがあった湊は、家に帰った後、始まりの絵である『花嫁の肖像』を見ようと、アトリエに片付けてあったその絵を出してきて、じっと見つめた。
絵を描くことを始めようと思ったきっかけに触れれば、スランプを脱するためのきっかけを見付けられるのではないかと考えたからだ。
空いていたイーゼルの上に肖像画を載せてから自身は椅子に座り、絵を見つめ続ける。しばしそうしてから、そっとその絵を慈しむように、その絵を壊さないように優しく撫でた。
その絵を見て唇から零れる声は、いつも言葉にならない。感動と称すれば良いのか、雷が落ちたような衝撃を受けたというべきか、湊には分からなかった。描き手の魂が離れていないと感じ取り、その感じ取った魂の感情を上手く形容できない自身が悔しくて、この絵を超えたいとそう思ったのだ。
そんな考えを持って改めてこの絵を見ると、自身がこの絵から遠のいたという感覚が強くなる。結局の所、月瀬湊は他者の評価など知ったことではない。描きたい物、超えたい絵はハッキリしている。
ならば後は技術を学び、行動あるのみだと思った。だからこそあらゆる画材による経験を積み、その技法を学べば自身の描きたい絵に近づけると考えたのだ。
なのに、今の有り様は何なのだろう。才が無いと言われることはなく、そしてあらゆる事を学ぶ姿勢を常に忘れない。常に真っ直ぐに道を歩んでいる筈なのに、その道は目的地に届かない。
ペンキ缶の中身を頭からぶちまけられたような。その中身でどんどん視界が染まっていき、道が見えなくなる感覚に陥る。
(……何故、俺の絵はこの絵から遠いと感じるのだろう)
視界が真っ暗になり、ドロドロとしたものに沈んでいくような意識に苛まれていると、意識外から誰かが湊の名前を呼びながら、優しく肩を揺さぶった。自身の身体が揺れた体感で、意識が現実に戻っていく。
アトリエに置いてある古びた時計の秒針の音が、ゆっくりと耳に入ってくる。そうして意識が現実に戻ってきたのか、意識の風景が現実のアトリエに染まる。
肩に置かれた手の方を向くと、そこには湊の母、奏音が顔をほころばせながら立っていた。外にも自宅にも直接繋がる場所であるアトリエの入り口が開いている事から、そこから入ってきたのだろう。
その開いた入り口から、何か食べ物の匂いがした。匂いからして、カレーか何かだろうか。昔から鼻が利く方だが、流石に距離が遠くてハッキリとは分からない。
エプロンを着けたままでこちらに来たのを考えると、丁度夕飯を作っている途中なのだろうかと、母の姿を見てからそんな事をぼんやりと色々考え、視線を絵の方へ戻していた。
惜しむように一度目を伏せた後、そっと触れていた指を離して、ゆっくりと腕を下ろした。
それでもなお、ぼうっとしたまま動きが緩慢な湊に対して、奏音は呆れたように息を吐いた。彼の背後から自身の腕を回して湊の目の前に手を持ってきて、パンと静かなアトリエに大きな手拍子の音を鳴らす。
流石に目の前でその音を響かせたのには驚いたのか、身体をびくりと振るわせ、大きな音の元に首を回して目線を動かした。
「やっとこっちに意識を戻したのね。まったく、六花ちゃんの声だとすぐに反応するって言うのに、この子は私の声だと鈍いんだから……」
回した腕を振り解きながら、ぶつぶつと不満そうに文句を言い出した。本当に困った子だわと言いながら、入ってきたであろうアトリエの入り口へ戻っていく。
一体何のようでアトリエに来たのだろうと疑問に思いながら、入り口に戻っていく奏音を見つめていた。あ、と言葉に出しながら、奏音は言い忘れた事があったかのように一度立ち止まり、湊の方へ振り返った。
「今日は南雲さん家で夕ご飯だから、南雲さん家で待っててねー」
奏音はそう言い残すと湊の返事も一切聞かず、楽しげな声を反響させながら、二階の住宅の方へ戻っていった。そんな母の行動に呆れながら、今日は南雲家メインの夕食かと期待をしながら、南雲家へ向かった。
それは昔からの習慣であり、両家の予定やタイミング合うと、食事を一緒にすることが多々ある。双方の家からそれぞれ料理を持ち込み、それを一緒に食べる。
それは月瀬家の事情を
南雲家の玄関からでは無く、庭の方に続く道から裏口に回る。普通ならば玄関からインターフォンを鳴らして伺うものだが、最早勝手知ったる他人の家である南雲家に対し、そんな配慮はいらなかった。
アトリエから出ると丁度日が沈みかけている時間で、沈み掛かっている日の光がチカリと目に入り、思わず目を瞑った。その日に光が目に入らないように目線を反らしながら、勝手口への道を歩く。
勝手口付近になるとカレーの香辛料の香りが鼻にツンときた。どうやらこのカレーの匂いの発生源は我が家では無く、こちらの家からだったらしい。それならば距離的に考えても、匂いの元はハッキリと分からないはずだと納得した。
しかしながら、相変わらず美味しそうな匂いだと湊は感じる。母が学校以外で料理を習ったのが、南雲家直伝の料理のみで、湊の家庭の味は奏音と南雲家の物と言えた。
湊がアトリエの入り口から南雲家に向かうのには、裏口の方が距離的に近いことを昔から知っているから。故に両家が一緒に食事をする際は、いつも勝手口から入っていく。小さな頃はまるで抜け道を見つけてそこを通るかのように、ウキウキしながら勝手口への道を通ったものだと思い起こす。
また六花も同じようにそうしてアトリエへやって来ているので、月瀬家は南雲家にアトリエの合い鍵を渡し、南雲家も湊がこちらにやって来るのを知っているときは、勝手口の鍵を開けておくようになった。
勝手口の扉の目の前に立ち、いつも通り鍵が開いている勝手口の取っ手を回して、おじゃましますと一言声を掛けながら中を覗く。目線を南雲家のキッチンに向けると、六花が鍋に入ったカレーをお玉で回していた。
学校でしていた薄い化粧は落とし、肩よりも長い髪を後ろで一つに束ねている。エプロンまで着けているところを見ると、今回の夕食は彼女がメインで作っているのだろう。勝手口のドアの取っ手を回した音で、湊が家に上がって来たのに気付いたらしい。
湊の気配に反応して
湊は南雲家の室内を迷わず歩き、洗面所へ進む。そこで手洗いを済ませた後はキッチンへ戻り、挨拶代わりの世間話を始める。
「今日は六花ちゃんが、夕飯を作ってるんだ。俺、何か手伝うことありそう?」
「そうよ。……手伝うことはないかな。ほとんど出来上がってるし――ていうか、ちゃん付けで私を呼ばないでって言ってるでしょ!」
「あ、ゴメン。家の中だから、つい」
互いに最小限の会話の
湊の六花の呼び方は、彼の母親由来である。彼女は六花を娘のように可愛がっており、それこそお姫様のように可愛らしく、ちゃん付けで呼んでいた。子供が親の呼び方を習うのは当然と言え、彼も舌が上手く回らずに名前を呼べない年齢から、彼女を六花ちゃんと呼んでいた。
六花の方も同じように湊くんと呼んで笑い合ったものだが、変化は思春期に入った頃くらいに起きた。成長して大きくなった自分が、小さな子供のように呼ばれる恥ずかしさが出てきたのか、ちゃん付けで呼ばないで欲しいと六花が言い出した。
湊は当初、そう言った六花の感覚が分からなかった。当時二人はまだまだ子供と言える年齢であったし、今でもその感覚が理解できているとは言えない。
彼の中で六花は『六花ちゃん』であり、それ以外の何者でもなかった。けれど、彼女が必死にその恥ずかしさを必死に説明するものだから、流石に不憫に思い、学校では『南雲さん』、家や家族内の会話では『六花』と呼ぶようにしていた。
彼女も同じように学校では『月瀬君』と呼び、家や家族内の会話では変わらずに『湊君』と呼ぶことはあっても、声色や口調が変化していた。純粋で可愛らしいものだけでは無くなったのだ。
二人が成長するにつれて、二人ともそもそも名前で呼ぶという行為を避けるようになっていった。
これが思春期特有の恥ずかしさなのか、成長と呼ぶべきものなのかは分からない。けれど大きくなっていくにつれて、少しずつ彼女との関係性が変化していくことが、寂しいと感じているのは事実だった。
彼と彼女の関係性が変化していっても、周りの大人たちは変わらない。奏音は今でも小さな頃と変わらぬ声で六花ちゃんと呼ぶものだから、時折何も変わっていないように、六花ちゃんと幼い頃のように呼んでしまう。
自身のわがままを通した自覚があり、それに対する申し訳なさがあるのか、その呼び方に戻った時は怒ったように注意しても、六花はそれ以上何も言わなかった。
今も呼び方が戻った事に怒ってはいるようでも、そこまでではないと感じ取れた。それが分かるのは、口調や声に怒りの色が乗っていても、同時に困惑の色も乗っているからだ。
何処か微妙な空気になってしまった中、六花は小さくため息を吐いて、コンロの火を止める。出来上がったカレーの鍋に蓋を被せて、側にあるシンクで自身の手を洗い、改めて湊に向き合う。
「ーーで? 私に何か言いたいことがあるんでしょ。しかも頼み事の類いで」
それはまるで確定だと言うように、断定した口調で湊に問いかける。その言葉に湊は驚いたと言わんばかりに目を見開いた。何故言いたいこと――しかも頼み事があるのが分かったのかと疑問に思っていると、六花はやれやれと言わんばかりに腰に手を当てながら、小さく首を振る。
「だって、アンタが何か頼み事をしようとするとき、いつも先手で相手に何かしてから頼もうとするもの」
――わざわざ手伝うことがないか聞いてきたのも、その一環でしょ?
にやりと不適そうな笑いを浮かべながら、六花は湊に言う。月瀬湊が誰かに頼むことは少ない。それは自身の興味範囲が狭いのもあるし、自身で出来ることなら即行動して済ませてしまう。つまりは手伝えるかどうか相手に聞くこともなく、自身の出来る範囲で最初から行動する。
相手をぞんざいに扱っているようで、そうではない。寧ろ相手をよく見て、自身が手伝うべき所を手伝うのが彼という人間だった。
そして彼が頼み事をするときは、彼が出来ないことだと判断したときであり、興味を引かれるもの――つまり自身の好きなことに関する。
相手に手伝わせたと言う意識を強く持たせるために、事前に相手に問い、相手の望み通りに動き、相手のお礼を待つ。
絶対に頼みを断らせたくないから、出来るだけ相手が断りにくい空気にそうやって持って行く。月瀬湊が多くの人からアレであると言わしめる一面の一つでもある。
そんなことを言われている間、それが図星と言わんばかりに、湊は徐々に視線を反らしていく。何せ、その頼み方は
そんな気まずそうに視線を反らす湊を逃がさぬと言わんばかりに、逸れていく目線に追従するように、自身から離れていく彼の視界へ六花は移動する。
そんな六花の行動に、小さなため息が漏れた。そうして意を決したように、漏れた息を吸い込むと同時に話し出す。
今から頼む内容が、常識から外れている事も自覚していたので、覚悟を決めて話さなければならない程度の常識は持っている人間ではある。
――そう、確かにそこまで凄い奴ではないとは言われている。けれど彼は同時にアレな人間であるとも言われているのも確かなのだ。
それを改めて理解させるような頼み事に、六花は頭を凄まじい堅さと重さを誇る鈍器で、殴られたような衝撃を受けた。
余りの内容に彼女の頭は話の内容を処理しきれなくて、長い沈黙の後、短い一言を返事をするのが精一杯だった。
「……六花ちゃん、俺を女の子にしてくれないか?」
「――…………は?」
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