Early spring flowers

<1>



 俺がこれを超えたいと願い、行動を始めたのはいつだったのだろう。その感情の始まりは、今でもハッキリと思い出せる。

 けれど、その時は魚が元気に跳ねているような、太陽で水面がキラキラして澄んだ川みたいな感情だったと思う。

 なのに何故、ここまで熱量でドロリとし、ギラついた感情となったのだろう。

 超えたいと思うこと自体が変わったわけではないのに、まるでそれとは別物になってしまったような、凍える感覚に陥るのだろう。


 ――それを超えること自体が、目に見えて遠のいて、そのことで水が濁っていったと思えたのは。

 まるで自身が、超えることという血を求める飢えた獣のようだと、嘲笑うようになったのは。本当にいつからだっただろう。




 ◆◆◆




 冬を越え春の到来を感じ取れる風景が、外出したら見えだしてきた時期。倉庫のような外観をした一室に、一人の少年が朝からずっと、キャンバスに対し視線を注いでいた。

 元々あった倉庫のような建物を、まるで学校の美術室の様にして自身のアトリエ化とさせた部屋で――月瀬湊つきせみなとは只ひたすらに、目の前のキャンバスに向けて熱情的に色を載せていた。

 絵具が無くなれば、チューブ状の入れ物から絞り出し、またキャンバスに載せていく。他者を寄せ付けないような、熱量を持ちながら冷たく感じる視線で。

 その熱量をひたすら繰り返しているだけの状態であるのが、どれほど彼が集中して作品作りをしているのかが判断できるだろう。


 今の彼には、どれだけ騒がしい音や声が聞こえようとも耳に入らず、それに気付くことはないだろう。ただ“幼少期から続く習慣”である、彼女の声以外は。



「……もう、また引き籠もって絵を描いてんのね! 本当に、途中で休憩するだとか考えないんだから!」



 その声は没頭していた湊の耳に入ったようで、描くために動いていた身体をぴくりとさせ、その手を止めた。

 声のした方へ身体ごと向けると、部屋の入り口に居た少女は怒っているような表情を浮かべ、自身の息を荒くして話しながら、ずんずんと歩みながら湊の元へやって来る。

 そして湊が腕を伸ばせば届きそうな距離で止まり、少女は言葉の返答を求めるように、湊の顔を覗き込むように見た。

 そんな少女の一連の行動に、湊は何でもないような表情のままで疑問に答える。


「全て描き上げようと思って描き始めたのに、その途中で止めてしまうのは、何となく気持ち悪いだろう?」


「ーーアンタの場合、そんな大層な理由じゃなくて、ただ単に忘れていただけでしょう!? 奏音さんが『一応その時間に声を掛けたのだけど、答えてくれなくて』って言って困ってたのよ!」


「母さんが? ここに来てたのか。何の用事だったんだ?」


 きょとんと、まるで初めて聞いたような湊の反応に、少女の怒りのボルテージが上昇していったらしく、それを精一杯押さえるかのように腕を組み、その手の指をトントンと叩いた。

 器用に眉を歪ませながら、口の端をピクピクと動かす彼女の表情は、周りから見ても恐ろしい。

 湊が絵を描いている時に他の事で気を取られるなど、ほとんど存在しないと言っても過言ではないのだ。

 それを理解している少女は、怒ることよりも話を進めるのが先だと考え、抑えた怒りを一つのため息に変え、再び会話を始める。


「今、何時だと思ってるの? 奏音さんに『昼飯食べに、一度は戻ってくるから』って言って、アトリエの方に来たんでしょ?」


「ああ、言ったな。母さん、食事を抜こうとすると五月蠅いからな」


「……で? 今は何時ですか、湊クン」


 怒りから呆れたようなジト目に変えた彼女は、湊を見つめながら、壁に掛かっている時計を指して問いかける。その指先を追うように視線を動かし、時計を見てから一瞬不味いことをしたと言わんばかりの表情を浮かべた後、思わずと言った感じで吹き出した。

 壁に掛かった時計が示す時間は三時十二分。とっくにお昼ご飯を食べる時間など過ぎているし、何なら人によってはおやつを食べる時間だろう。

 つまり湊は、母との連絡事項を破ったのだ。今日は家で食べると母に言いながら、友達と外で食事を済ませてきた子供のように。


 不味いことをしたなと思いつつも、休憩する時間としては丁度良い時間だ、などと思ってしまい、湊は思わず吹き出してしまったのだ。

 その瞬間、どこからか手の平で頭をはたく音が響いた。どこか軽い音だったが、はたかれた張本人である湊は条件反射でイテッと言ったしまった。そこまでの痛みはないのだが。

 はたかれた部分をさすりながら、その衝撃でずれた目線を彼女へ戻す。

 彼女は案の定、怒っているであろうことが傍からでも感じ取れた。どうやら抑えきることが出来なくなったらしい。


「そんな『まぁ、いつものことだよね』って思いながら笑うの止めなさいよー! 昔から沢山の人たちが言ってるし、私も言ってるから何時ものことだけど、何でも『こうだから、しょうがないよね』で終わらせるんじゃないの!!」


「いや、確かにそんな風には考えたけど。今笑ったのはそのことじゃないからさ」


「分かってるわよ、そんなの! 大体私の声かけで作業を止めるのは知ってるし、確かに今おやつ時だから丁度良いけども! ――私が、言いたいのは! 言ったことを守らないことについてよ!」


 今も息を荒くして、彼女は色々と言い続けているが、湊はそれを怖いと思うことはなかったし、鬱陶しいと思うことはなかった。

 それは二人の関係性を表しているとも言えるし、何よりも言っている彼女の人間性を知っているからであろうか。


 豊かな言動で怒っていることを、全身で表現している彼女“南雲六花なぐもりっか”は、今もなお彼女に怒られている月瀬湊とは、生まれたときから繋がりがある――いわゆる幼なじみの関係性だった。

 元々生まれる前から双方の両親がお隣さん同士で仲良くしていたのが、同じ年に子供が発覚したことにより、その仲の良さはヒートアップ。

 その後、湊が生まれる前に月瀬家の父親が亡くなってしまい、そんな不幸があったのを南雲家がそれを放っておくことなど出来ず、その絆は限界突破。

 今では月瀬家・南雲家と名字は分かれているが、もはや一つの纏まった家族と言っても過言ではないほどの関係性となった。


 そんな関係性の家で育った湊・六花の二人は、幼い頃は『何で家族なのに別々の家に暮らしているのだろう?』と思ったものだった。

 ある程度成長した今ならば、どれだけ仲が良かろうとも他家の人間であると理解する。が、今までの関係性はそんな簡単に変わるはずもなく、ズボラな弟を叱るしっかりした姉のような関係性は今も健在している。

 湊の方はともかく六花の方は、思っていた時のことを問われると、顔から火を噴き出しそうなほどに顔を真っ赤にし、そんな自分を隠そうとしてテンパる。

 そんな様子の六花には、双方の親たちだけでなく、湊ですら穏やかな気持ちになるのだった。


「それに関しては、勿論どっちも俺が悪いと思ってるよ」


「ーーそれならいいわ。で、奏音さんが作ったお昼ご飯は、アンタが食べに来ないから取っておいてる訳だけど、それは夕ご飯に回すの?」


「まぁ、うん。今の時間に食べて、夕飯までにお腹空くかと言われたら、さすがに無理。朝は軽くとはいえ食べてきたし」


「ーーまぁ、そうよね。……そもそもそんな格好なのに、食べに行けるようにするまで時間かかりそうだし」


 六花のため息と共に漏らした言葉に、湊は改めて自身の格好を見てみる。油絵を描こうと思い、絵具が服に付かないように前掛けをしていたので、服は無事だった。

 問題になっているのはそこではなく、描く手段として素手を選んだため、服は無事でも手の平は絵具で染まっていた。


 そう言えば最初は筆で描こうとしていたのに、いまいち絵具の伸びが悪いと思ったのが最初だったと湊は思い返す。

 意気揚々と絵を描こうとしていたので、そのせいで一気に不愉快な気分になり、ため息を一つ吐いた。

 画材置きに使っているすぐ側にある机に、他に描く物がないかと探しながら筆を置いた時に、己の手が見えた。その瞬間、湊に雷に打たれたような衝撃が襲った。

 落ちていた気分が一気に上昇し、パレットに置いた絵具を指で伸ばし始めた。そしてキャンバスに色を載せた瞬間、『これだ!』と思い、そのまま描き始めたのを思い出した。


 ノリに乗っている気分で集中して描いていたからか、湊は最初は思い出せても、こうなってしまった経緯を一切思い出せない。

 手がキャンバスに載せたあらゆる色で染まりきり、そのまま手形でも取れそうな勢いになったまでの過程が頭になかった。

 この手では何も食べる事ができないので、その手を綺麗にしたり、アトリエをある程度片付けようとしたら時間も掛かる。それではより夕飯の時間に近づいてしまうだろう。

 そうなってしまうなら、初めから夕飯に回すことに考えて、行動した方がよほど良い。そうならば、今日は制作作業は止めた方が良いかもしれないという考えが過ぎった。


 そんな風に食事のことを考えたからか、身体の疲れが湊に来襲した。作品を作るということは思うよりもエネルギーを使うので、神経を研ぎ澄ましていた反動で一気に気が抜けてしまったらしい。

 そのまま机に俯せてしまいたいと思ったが、絵の具まみれの手を綺麗にしなければいけない。そして次に絵を描く時のことを考えれば、ある程度片付けておかなければ、面倒臭い事になる可能性が高かった。



 湊が絵を描くこと以外を気にしなくなるということは、出した画材をそのまま出しっ放しにし、次に使う可能性と片付ける時間が惜しくて、手近なところに置いておくのだ。そうして物が積み上がっていく。

 本人が良いのならば、そうでも良いのではと答える人も多そうだが、彼が積み上げていくのは画材である。つまり同じ物ような物を積み上げるだけではないのだ。

 片付けるべきと、多くの人に注意されていたが、自分がやりやすいように配置してるのだからと、まさに片付けるのを嫌がる人間と同じような台詞を吐いて、作業を続行していた。

 ある日、絵を描くために身体を揺らしている湊の振動で、無造作に置いてあった画材が揺れ始め、一つが耐えきれずに崩れたら、連鎖的に多くの物がそのまま崩れた。

 突然起きた大きな音に、月瀬家の二階で雑談していた母親と立花、立花の母親が何事かと慌てて一階へ来た。

 そこで皆が見た光景は、思わず口を閉じてしまう様な状態になっていた。


 上に乗った物の重量により、潰されたチューブの絵具の中身は床を染め上げ、筆やパレット、液体を入れていた物等の画材は、折れるし壊れるし割れている。

 それだけでは飽き足らず、あらゆる液体は零れ、完成した物と未完成の物で混じっていたスケッチブックは絵具や液体に染まり、紙が折れるし破れる等々の大惨事が起きた現場だった。

 ――適当に物を置いて積み重ねていくのにも程度が必要で、ちゃんと整理しなければならないことを、湊は身をもって学んだ。



 以前起きた事が脳内に過ぎり、湊は仕方なしに片付け作業を始める。自身が使いやすいように配置できるようにするには、自身の感覚に頼らざるを得ない。適当に配置してあったりするのが、実は家主にとって使いやすい様になっていたりするようなものだ。

 何よりこのアトリエは湊のテリトリーとも言え、誰もそこを侵すことはしなかった。学校生活を除けばほとんどアトリエに籠もり、それ以外は絵の題材がないかと外を彷徨うのが常の生活である。

 自宅とアトリエが繋がっているとはいえ、ほとんど生活拠点をアトリエ側とするのならば、湊の本拠地はアトリエであるといえる。


 そんな本拠地を、せっかくの休みなのに部屋の掃除をしなければならなくて、嫌な気分になりながら掃除を始めた人のように、のろのろと動き始める。

 そんな湊の姿をチラリと見て、一つため息を吐きながら六花はぼやく。ぼやくと言っても独り言のような話し方ではなく、あからさまに返答を期待しているような話し口調だった。


「……あーあ、せっかく奏音さんがおやつにって、ケーキを用意してくれてるのになぁ」


 その言葉に湊はピクリと反応した。別に甘い物が好物なわけでは無いが、今の疲れた全身は即エネルギーになりそうな、糖分であるお菓子をを求めていた。何せ朝から一切休憩もせずに、ぶっ通しで絵を描き続けていたのだから。

 自身の手の平から視線を反らさずに、絵具塗れの手を洗いながら、世間話をするように六花のぼやきに答えた。


「それって、俺の分も用意してあるヤツだよな?」


「そうよ。いつもみたいに作ったヤツで、奏音さんは出来たのを一切手出ししてないから、湊の分も私の分もあるわよ」


 六花の返答に、湊は純粋に疑問に思った。ケーキで一切手出ししてないと言うのならば、誕生日やクリスマスの時のホールケーキを連想してしまう人は多いだろう。

 例に漏れず湊もそれを連想し、ならば流石におやつのお菓子としては多過ぎやしないかと思い、思わず六花に顔だけ向けながら、疑問を言葉にして返す。

 その疑問に対し、六花はきょとんとした顔で『そんな大きいヤツじゃないわよ』と首を傾げながら答えた。


「あぁ、大きくないやつか。四五人食べれるような大きいやつを、想像したもんだから驚いた」


「流石に私たちのおやつとして、そんな大きいの作るわけないでしょ? 大きいのを作る時なんて、私たちの家族も一緒に食べる時だけよ」


「……そもそも、そんなイベント時でもないのに、最近小洒落た物を作ろうとし過ぎてないか?」


 湊の母親は作るのが好きな方の人であるが、湊が小さな頃に作っていたのは、大量生産が可能な物だったり、一人一人個別で食べられるような簡単な物だった。クッキーしかりマフィンしかりプリンしかり。

 それが、立花と共に中学生になった頃から少しずつ変わりだした。バレンタインのチョコレートが、型に流して固めた物からトリュフチョコに変わっていき、最終的にチョコレートケーキになったような感じに。

 わざわざ専門店のお菓子でなくとも、その辺のスーパーとかで売っているお菓子メーカーの量産品でいいと考えている湊にとって、その疑問は当然の帰結とも言え、少し前の六花と同じように首を傾げてそう話した。


「……湊が大きくなってきたし、面倒を見てくれるような女の子が側に居るから、手の凝った物も作りたいって思ったって、奏音さんは言ってたわよ」


 何とも形容し難いしかめっ面で六花は答える。まるで拗ねた子供のように、湊から顔を反らし、自分の背に手を隠しながら。

 そんな彼女の反応に、やっぱり俺と違って感情が豊かだな、だとか呑気なことを考えながら、その六花の反応に、何となくだが違和感を感じた。

 しかし、そんな空気を変えるように六花が再び話し出しために、その違和感は会話の中に霧散した。


「まぁ、そんな細かいことは置いといて。そんな反応するって事は、ケーキは食べるつもりはあるのよね?」


「ああ。流石に休憩を挟まず、ぶっ通しで描き続けるのはマズいしな……」


 描いている途中で気付かずに体調を崩し、描いている絵が台無しになる可能性も大きい。何よりそうなれば、今ように六花が止めに入るだろう。酷ければそれこそ殴ってでも止める勢いになるは、以前にもあったので確かだろう。

 その時は母親や六花の両親にも怒られたほど、全面的に湊が悪かった訳ではあるのだが。


「じゃあ湊が片付けている間に、色々とケーキを食べる準備とかしてくるけど、何時もみたいにアトリエで食べる感じでいいのね?」


「ああ、有り難う。窓締め切ったまま描いていたから、絵具臭いな……。窓開けとくか」


「私が開けとくから、湊はさっさと綺麗にしといて。ーーまぁ、今の時期なら窓を開けっ放しでも、そこまで寒くはないよね」


 そう言って六花が窓を開く音を聞きながら、湊は綺麗になった手の平にご満悦になり、その気持ちのままに画材置き場や、イーゼルごとキャンバスを片付け始める。今からお茶会で休息をする事を考えると、直ぐに夕飯の時間になるのが目に見えているからだ。

 夕食が終われば、風呂に入って就寝への準備をしなければならない。明日は二人とも揃って重大な用事があるので、これ以上体調を崩すような行動をするわけにはいかなかった。

 六花が二階への階段を昇る足音を聞きながら、湊は片付けを続ける。



 ――明日は学生にとって重大行事である、高校の入学式だった。なので二人とも体調を崩す事態になってしまえば、双方の親から怒られるのは想像に難くない。

 流石に自分の母親だけならず、六花の両親の善意によるお叱りは、想像するだけで心苦しかった。

 六花が持ってくるケーキに思いを馳せながら、今日はもう休もう、と湊は決めたのだった。



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