花嫁の肖像
シラビト サクナリ
序章 『未完成の花嫁』
周りの物音も人の声も聞こえず、住人による自宅の明かりもほぼ消えている時間帯の、住宅地にある一軒。その家は周りの住宅とは変わった風貌をした住宅だった。
一階部分は冷たい印象すら残る四角い倉庫の様な建物なのに、二階部分には普通に平屋が建っている。外壁素材が違うためか、一階と二階に境目が見えるような住宅である。
まるで元々あった倉庫の上に、追加で平屋を建てたような違和感を抱いてしまう。実際そうやって建てたのかもしれない。
その上双方そこまで広くない為、どちらかと言えば横よりも縦に大きく見えるのも、違和感を抱く原因になったりしているのかもしれない。
そんな不思議な建物の平屋部分は、周りの住宅達と同じように電灯の明かりは消えており、窓はカーテンが掛かっている為に中は見えない。そこに人が住んでいると言うのならば、それは決して不思議なことではないだろう。
しかし倉庫部分は、通行人ですら室内がある程度分かりそうな程に大きめな窓なのに、カーテンすら掛かっていない。窓の内側を見ればカーテン自体は付いているので、持ち主が掛ける気は無かったのだろう。
室内は何かの作業場の様で、その中身は学校の美術室を思い起こさせるような作りになっていた。所謂アトリエと言える場所なのだろうか。
こんな室内の構造になったのが、持ち主である者が昔、美術部顧問だった影響なのかどうかは分からない。その相手が亡くなっているので、聞くことは出来ないのだろう。
このアトリエ部分はその息子が引き継いだが、彼は描ける場所があればそれでいいと語り、内装は昔から大きく変わることはなかった。
それでも昔と変わっている所があるすれば、年月によって劣化した物の買い換えや、作品を作り上げる為の画材が多くなった等。ようは物が増えていっただけとも言えた。
物が増えているが、ごちゃごちゃして殺風景な室内を見ると、彼の性格や思考が見えてきそうなものである。
◆◆◆
更に夜が深まり暗くなってきたが、その誰も居ない静寂なアトリエに一つ、小さな物音が響いた。周りが静かだからか、その物音はやたら大きく聞こえそうな程、今日は静かな夜だった。
物音の正体は、入り口の鍵をガチャリと回す音。ついでドアノブを回す音が聞こえ、室内に入ってきた人間の足音が更に続いた。
カツンと高い靴音がアトリエに響く。その靴音はまるで、ゆっくりと丁寧にアトリエを見回すように、カツン、カツンと一定の足音が続く。
足音の持ち主は部屋の電気も点けずに迷わず歩いているが、大きめの窓から外の光が室内を照らすからか、たとえ向かいにある電灯からの光であっても、室内を軽く見回す事ぐらいなら出来るようだった。今日は月が大きい日でもあったのもありそうである。
若しくはこのアトリエにとても馴染みがあり、部屋の配置を憶えてしまっている人間なのかもしれない。
見回す者の足音は、心から此所を懐かしむようにゆっくりと歩んでいるのを、足音から感じられた。
ここの持ち主であり使い手は、現在絵を描くことを生業としている。ただ本当に、絵を描くことだけを追い求めているような人間なので、イラストレーターに近いのかもしれないが、世間では一応画家として認知されていた。
この場所は完成した絵・未完成な絵・失敗作と見なしたである絵や、絵を描くためのあらゆる機材や画材に溢れ、そんなアトリエの状態から、普段どんな風に仕事をしているのかが窺える。
そんな彼の仕事姿を想像したのか、足音の主から笑みが零れた音が聞こえる。
そんな中、一定のゆったりとした足音がある場所で止まった。その視線の先にはイーゼルに載せてあるキャンバスがあり、その絵を描くのに使っている画材が散らばっていることから、その絵はまだ未完成と思われる。
その筈なのに、その絵は誰から見ても、ほぼ完成していると見なす事が出来そうなほど描かれており、元々真っ白なキャンバスには多くの色が載っていた。
この絵は誰かの心を大きく揺さぶるような、衝撃を持って受け止めるような物では無く、寧ろその逆の印象を受け止める絵だった。
描かれている絵は朗らかで優しく、穏やかな空気すら感じ取れるほど、描き手の大きく優しい愛を感じ取れるような色がキャンバスに載っていた。柔らかな印象を抱く色だけを使われている訳では無いのに。
なのにこの絵は、これを完成した作品と見なした場合、ただ一つの要素をもって絵の評価を貶めてしまいかねない。これは完成品ではないと考えた方が、この作品も良いだろうと。
見えないこと。隠されたこと。存在しないこと。それらを持って完成とされ、作品として評価される物は多くある。ミロのヴィーナスの腕などが良い例と言えるだろうか。
見えないこと、隠されたこと、存在しないこと。これは見えないものが美しい、とあるように描かれた作品ではないと感じ取れるのだ。
それは。今のその絵は。――顔が描かれていない、顔が欠けた花嫁の絵だった。
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