第86話 到着

 コーヒーの苦味を無くすため、赤い紙に包まれたチョコレートを購入し楓と2人で口にする。

 普段は苦いからとカフェオレを購入してしまう程に苦手なブラックコーヒーも、甘いチョコレートと一緒に食すと意外に美味しく感じた。 


「結局チョコレート食べるならブラックコーヒーなんて買わなかったらよかったのに」

「苦いブラックコーヒーと甘いチョコを一緒に食べるから良いんじゃないか。たまには大人の気分を味わってみたくなるだろ?」


 なにそれ、と笑う楓を見て俺も思わず笑みを溢す。

 楓の笑う姿を見ていると、楓が大人気声優として第一線で活躍している遠い存在である事を忘れそうになる。


 そうこうしている間に新幹線は目的の東京駅に到着した。


 田舎育ちの俺は駅を出て最初に見える高層ビル群に圧倒され肩を竦めて歩く。

 アニメのイベントや声優のライブで東京に来たことはあるが、何度来ても慣れることは無いだろう。


「やっぱ東京って大都会だな。思わずビルを見上げたくなるわ」

「やめてよね。ビルなんか見上げてたら田舎者だと思われるよ」


 大都会東京の景色に息を詰まらせている俺とは対照的に、楓は堂々と歩みを進めている。

 仕事で毎週のように東京に来ているのだから東京のビル群に臆せず歩けるのは当たり前だ。


 東京の街中を堂々と歩く楓は大人気声優、日菜としての風格が漂っており自分とは別世界に住む人間なのだと思い知らされた。

 いつも身近に感じていた楓が遠ざかっていくのを実感する機会が多くなり焦燥感に駆られている。


「今日はもうマネージャーさんも家に帰ってるだろうから、ホテルに泊まって明日マネージャーさんに会いに行く予定だけどそれでいい?」

「はい大丈夫です」


 今の時刻を考えるとマネージャーと直接話すには遅い。楓の言うとおり明日仕切り直せばいい。


「私はビジネスホテル予約してあるんだけど祐は何も決めてないでしょ?」

「……ノープランで飛び出してしまいましたすいません」


 勢いで飛び出して来たはいいが何のプランも無くこのままだと露頭に迷ってしまう。楓を助けるどころか寧ろ迷惑をかけているだけだ。

 高層ビルに囲まれ、何も出来ない自分が酷くちっぽけに感じた。


「じゃあ私が予約してる部屋に泊まるといいよ。私が予約したホテル、ダブルルームしか空いてなくてその部屋予約してあるから」

「お、そうなのか。じゃあお言葉に甘えて一緒に泊まらせてもらうよ」


 いや待て。楓の予約した部屋に一緒に泊まる?俺が?

 しかも楓はダブルルームを予約してあると言っている。ダブルルームとは、2人用サイズのベッドが1つ置かれている部屋の事だ。

 要するに今日の夜、俺は楓と同じベッドで寝なければならないと言うことになる。


 修学旅行でも俺と風磨の部屋に楓と祐奈が泊まった事はあったが、今回は状況が違う。

 あのときは風磨もいたし、楓だけでは無く祐奈も俺たちの部屋に泊まった。


 楓と2人きりで同じ部屋で、しかも同じベッドで寝るなんて……。


 なんですんなりお言葉に甘えちゃったかなぁ。


 とはいえ、楓も楓だぞ。高校3年生の女子が思春期の男子と同じ部屋に泊まるなんて正気か?


 何をされるか分からないし、もっと警戒するべきだ。


 ……いや、楓が俺を好きなのはもう知っている。好きな男子となら、同じ部屋で一夜を共にするのも嫌では無いだろう。


 楓と2人きりで泊まる事を考えるとよからぬ事を想像してしまうが、楓の澄み切った心を汚すような事はしたくない。俺たちはまだ純情な高校生。

 不純異性交遊をするには少し早いだろう。


 そんなことよりも、今は楓が学校を辞めるか辞めないかの方が千倍大切だ。


「他にシングルの部屋が空いてるホテルは無かったのか?」

「い、いつも泊まってるホテルじゃ無いと落ち着かないの」


 俺は睡眠環境が変化しても質の良い睡眠を取ることが出来るが、楓は睡眠に繊細なようだ。

 まあ見知らぬ部屋よりも慣れたところで泊まりたいと言う気持ちはわからんでも無い。


 様々な考えが頭の中で渦巻く中、俺は楓が歩く後ろに付いて行った。

 すると俺の目に入ったのは薬局。その薬局の前で楓が足を止める。


「ほら、買うよ」

「え、何を?」


 急に楓が薬局の前で何かを買うと言い出した。俺は別に欲しいものも何も無いのに何を買おうと言うのだ。


 必要なものなんて何も……


「服に決まってるでしょ。制服でホテルなんか入っても泊めさせてくれないよ。ほら、早く」


 楓は薬局の隣にあった服屋を指差した。


 ……。うん、何も期待してなかったから。何も期待してなかったから‼︎

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