第30話 過剰な自意識

「世話になったわね」


 密輸業者と軽い挨拶を交わすエイダ。我々のような世界から外れた者にとって、法を踏み倒してでも金で動いてくれる人間は貴重な存在だ。法という圧倒的な権力の前において、ほとんどの善人は無力になる。私はここが何処なのかを探ろうと、夜の帳にうっすらと浮かぶ港を見渡した。


「こっちよ」


 辺り閑散としていた。木と草と、空を遮る山並みと。暮れなす月の水面の戯れが白光の一筋を帯びる。街から遠く離れた場所特有の軽い空気の味がどこか懐かしい。忍ぶように草と夜の彩色に隠れながら歩いて数分、不意にエイダが立ち止まった。


 人の気配だ。


 夜は深い。こんな時間にこの道なき道に用のある人間はそういない。夜の闇からぼんやりと、白い影がこちらに近づいてくる。私が懐の拳銃に手を伸ばそうとしたとき、エイダがそれを制した。


「お待ちしていました。エイダさん。そしてジェイ・・・」


「馬鹿な・・・」


 目を疑う。それは月光が照らす白い肌と、反して深い黒髪のコントラスト。


 三崎諒がそこにいた。


「エイダ、どういうことだ」


「私たちの逃避の協力者よ」


「正気か?私たちのやることに堅気の人間を巻き込むなど」


「本当に・・・ジェイミー・フォックス、あなたなのね。いや・・・正しくはジェイムスン・ドウセット。見た目も声もまるで違う・・・」


 そう呟いた諒は私の顔から背丈に至るまでを探るように見ていた。


「本当に・・・別人ね。なのにあなたがジェイといわれてもどこか納得してしまう」


 憂いを帯びた諒の瞳が、水面の月のように私を映し出す。瞳の奥にある私の姿は、私自身ですら見慣れない姿だ。


「あまり外に長居するべきでないわ。三崎さん、案内してもらえる?ジェイも文句ならあとで聞くわ」


 先陣をきって歩き出す諒の後をエイダが追う。私は素直に従うしかなかった。




 ※




「お茶を淹れてきますので、くつろいで待っていてください」


 自然の豊かな山並みの只中にある家屋に入ると、諒は私たちを和室へと案内した。人の気配は家とその周辺にも感じられないが、家の手入れは行き届いていた。三崎の別邸だろうか。ドがつく程の田舎にあるこの家は、清潔さを忘れていない和の造りをしている。


「いったい何と言って脅したんだ」


 諒が台所へと向かったのを確認し、私はエイダを問い詰めた。


「三崎さんは快く引き受けてくれたわ」


「馬鹿を言うな。私は彼女の仇だぞ」


「えぇ。それも伝えてあるわ。それでも彼女は引き受けたいと」


「なぜ・・・」


「それはあなたが直接聞いてみては?」


「君も意地が悪い・・・」


 聞けるはずなどない。


 私はあなたの父親を殺した張本人ですが、なぜ危険を冒してまで助けてくれるのですか。それが無神経な質問であることを理解できるほどには、未だ意識は鮮明だ。


「安心して。ここにはほんの少し滞在するだけ。次の目的地への経由にしただけ」


「そもそも我々はどこを目指している」


「大陸の戦場よ。今この世で最も法の力が機能せず、混乱の窮地にある場所。私たちが生きるためには、混沌に紛れる他にない。何か異論はある?」


「いや」


 エイダの言うことは最もだった。我々には混沌がお似合いだ。安息の日は永遠に訪れない。混沌のみが、我々が姿を隠して生きることができる最後のユートピア。


「あなたが選択できる自由は確実に狭まっている。だから最初に言った通り、あなたが望む最善の選択をしてちょうだい」


 議論し終えて丁度、諒がお茶を淹れて運んできた。器にはいつの日か嗜んだグリーンティーが注がれている。


「次の目的地まで逃げるための調整をしてくるわ。戦闘で消耗しているでしょうから、あなたは休んでいて」


 そう言い残してエイダは出て行ってしまった。おそらくまた、密輸や密漁を生業にした者と交渉するのだろう。その日、エイダは帰ってこなかった。



 ※




 大きく開かれた戸からは朝日の健康的な光が差し込み、心地よい風が吹き抜けていく。


「おはようございます。ジェイ・・・ムスンさん」


 風と共に舞い降りたかのように、諒が襖を開いて部屋へと入る。黒い瞳と髪、白い制服と肌のコントラストが相変わらず美しい。


「敬語はいらない。呼び方もいつも通りでいい」


 私は抑揚なくそう吐き捨てた。彼女が何を思って仇敵と相対しているのか理解ができない。そして当の私は後ろめたさから彼女を直視することができずにいる。


「この家はお祖母様が住んでいた家なんです。父の死後、傷心を癒せと言われて休学にしてもらって今はここに住んでいます」


「悠は今、親戚にお世話になっていてそれで・・・」


 諒は臆することなく、今の自分の身の上を話し始めた。私を責めることもなく。敬語は消えていない。


「こんなこと、私が言うべきことではないのかもしれませんが、父のことは・・・あまりお気になさらないでください」


「なんだって・・・」


 私は大きく開いた目で諒を見た。諒は困ったような微笑みを浮かべて、どう説明しようかと悩むそぶりをしている。


「少し、外を歩きませんか?」



 ※




 田舎には時間の流れを止めたかのような魔力がある。


 悠久。


 変わらぬ景色、変わらぬ習慣が、おおよそ時間という概念を鈍らせるのだ。これから待ち受ける混沌とした戦場のことを思うと、ここから離れることのなんと悲惨な運命か。どこまでも続く平穏。そんなありもしないものを欲してしまう。


「父のことは薄々と予感していました。政界の一部の方から、強い反感を持たれていましたから。別に父のことが嫌いなわけでなありません。尊敬していましたし、今でも自慢の父です。ですがきっと父は、正し過ぎたのでしょうね・・・」


 夏の光の輝きの、ひまわりの黄色が彼女を塗る。正しくある者は排斥の序章に立つ。諒の言葉にはそんな哀しみがあった。


「父は正しい人間でした。献金にも裏金にも関与がない、本当に国の行く先を案じて政治に臨んでいました。そしてそれ故に、多くの人にとって邪魔だった」


「恨んでいないのか」


 そして私は口にした。父親を殺した私を。父を失脚させようとしたイギリスを。そんなことが当然のように起きている世界を。恨んでいないのかと。


「恨めないのです・・・私自身、本当は傷心なんてしていません」


 諒の言葉は私の予想に反していた。恨めないとは、恨みたくても恨めないということ。それは短くも多くの意味を含んだ、心の奥底の叫びのようだった。


「私は本を読むことが好きで、様々な人の視点から世界を眺めることが好きで・・・そうやって本から多くの視点を得ると、世界とはそういうものなんだってことを知ってしまうんです。いつだって正しい行いをしている者が報われるわけじゃない。世界には断罪されない犯罪者で溢れているし、罪もない人が罰を受けている。それが世界の姿。父は違反者ではなかった。悪徳を許さなかったし、倫理においても高い規範があった。そんな人間に限って早死にすることを、私は書籍を通して知っていた。だからどうしても恨むことができない・・・正しくあることが時として破滅へと繋がることを、私は知っていたのだから・・・」


 そして悲しく優しい、精一杯の涙を含んだ笑顔で。


「世界もあなたのことも恨めない」


 破顔に涙の筋が通る。


「きっとあなたも正しくあろうとした。だから体を捨てても尚、意識が消えても尚、ただ任務をこなし続けてきたのでしょう?」


 ひまわりの合間に立つ彼女が悲しく美しい。行くあてのない憤りもなく、ただそれが起きて当然で、起きたことの全てを冷静に受け止めてられるということ。苦悩も苦悶もなく、超えるべき葛藤もなく、超自然的に目前の理不尽を受け入れている自分という存在に不快感を拭えない。彼女はそんな奇妙な苦悩に絡みとられていた。


「結果、父は死んだ。まだ成人していない私と悠、植物状態の母を置いて。私にはまだこれからの生活がある。生活があるというのに・・・父の死をきっかけに、先が暗くて何も見出せない・・・分かるのは、お金がもっと必要になるということ。母の治療費、悠の学費・・・それと私自身の・・・正しく生きた父が残したものがこんなものだなんてあんまりです。私たちにとっては、ただの重りでしかない。正しい行いって何なのでしょうか。父のように気高く生きることでしょうか。たとえ家族を守ることができなくても?なら、悪に手を染めても家族を守ることが正しいのでしょうか。悪事の果てに破滅と子の絶望が待っていても?正しくあろうとするのに家族を持つことがおこがましいのでしょうか?家族を守るのに正しくあろうとすることがおこがましいのでしょうか?分からない・・・分からない・・・私は、この世界とどう折り合いをつけたらいいのですか・・・」


 そう言って諒は膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らして涙した。父の死から始めて泣いたような大粒の涙だった。


「父の死なんかよりも恐ろしいものが私を襲ってくるのです・・・お金・・・仕事・・・これからの生活といった漠然とした未来が・・・!とても・・・恐ろしいの・・・あなたは私の希望・・・学校で始めて見たときから。この人は善とか悪とか、そんなものよりずっと先を見ているような気がしたから。まさか100年以上も生きているだなんて想像もしなかったけど、だからきっと、あなたにしか見えないものがある。そんな気がするのです・・・」


 そうして静かに立ち上がった諒の目にはもう涙はなかった。今度は、真剣な光を宿して。


「ジェイ、私と一緒にここで暮らしませんか?」


 出し抜けに言う諒の言葉はあまりにも突拍子もないもので、思わず呆気にとられてしまう。


「何を馬鹿なことを・・・君も殺されるぞ」


「ここを出ても、向かう先は戦場なのでしょう?それに比べればここはずっといい場所よ。それに、エイダさんもそれを望んでいる」


 ここでエイダの名前が挙がったことには、何の疑惑もなかった。


 エイダ。なぜ君は私を幸せへと留めようとする?


 私はもう、幸せを幸せなものとして受け入れることなどできはしない。私の内にある、本当に正しき行いを見極めようとさせる過大な自意識が、甘い幻想の享受を決して許さないのだ。今その幸せを受け入れたとしても、いつか罪の意識に苦悩し、きっと自身の手で生を絶つだろう。だからもう、今となってはちっぽけな意地のみで成立している真の正義のために、ただひたすらに苦痛に耐えることこそが私の幸せ——

 だから努めて、言葉は冷たく、理性的であるように振り絞る。


「・・・たとえMI6に見つからなかったとしても、私の意識は長く持たない。近いうちに消えてしまう」


「短い間だけでもいい。あなたの話を毎日聞いていたいの。あなたから見える世界を知りたい。そこに希望があるような気がするのです。もちろん、無理にとは言いません。ただ・・・あなたが少しでも、混沌より悠久を望むのなら、私はそれを与えることができる・・・」


 あぁ。諒の提案はあまりにも魅惑的だ。これから待ち受ける戦場の混沌を思うと反吐が出そうになる。キリキリと痛む胃。体の反応はどこまでも正直で、戦場に向かうことを全力で拒否している。ここに居れば私は、諒に何かを残すことができるのかもしれない。世界を存続させるなんていう大きな目的なんかよりも現実的で、とても優しい選択・・・


 私はこの田舎の持つ悠久の時間と、そして諒に魅了されていた。十分に頑張ったじゃないか。これ以上どうして自分を戒める必要がある。世界など知るか!クソ喰らえ!


 そんな手前勝手な慰めの言い訳を必死に押し殺し、クールな頭で考えをまとめていく。


「諒、私はここに居るわけにはいかない。まだやらなければならないことがある」


「その先にあなた自身の幸せがなくても?」


「なくてもだ。ここで悠久の時を過ごそうとも、どれだけ変化を拒絶しても、その変化を止めることはできない。世界は常に変化し続ける。国も。街も。君も。私も。変化する時代と、それに適応する自分を恐れてはいけない。君の未来が暗雲立ち込める苦しいものだとしても、立ち向かうことを放棄してしまえば自由を失うか、或いはより苦しみに満ちた生しかない。死は、今はもう手軽な選択肢ではなくなってしまったしな。君がここで悠久の安息と共に朽ちるのも、苦しい未来への希望へと立ち向かうのも自由だ。全ては君の手の中にある。そして君は取り戻すんだ」


「何を・・・?」


「君という個を消そうする金や生活、そういった全体主義の社会から君自身を」


 そしてロマンティズムの空気は冷却された。夢への扉を自ら閉ざし、諒は現実へ、私は深淵へと歩み出す。


「・・・優しいのね。あなたは、どこまでも」


 諒の意外な反応に、いや、聡明な彼女には、何もかも分かっているのかもしれない。


「今の言葉に優しさが?」


「ええ。優しい人じゃないと、そんなことは言えないもの」


 その言葉を最後にして、私と諒はしばらくの間ひまわりを眺めていた。それ以上の言葉は不要だった。

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