第53話 彩の願い

 彩がスリーパーになった後は、いろいろな事が一度に起こり、皆が多忙な毎日を送った。

 彩が退院する数日前に、彩の会社の上司と人事担当がやって来た。

「間もなく退院されると伺いました。おめでとうございます」

 髪を七三に分け、いかにも真面目そうな人事担当が先に挨拶をする。

「白竹さん、久しぶりね」

 テーブルを挟んで対面に腰掛けていた彩が、親しげに声を掛けた。

「感染したって聞いた時は、皆ビックリしたぞ」

「ご心配をお掛けしてすみませんでした、足立さん」

 頭の薄くなった、少々小太りの男性に、彩は頭を下げる。こちらが彩の上司である。

「それで、ご相談なんですが・・・」

 白竹が、彩の様子を見ながら口を開いた。

「分かってます。残念ですが、今の仕事は辞めるつもりです」

 彩が白竹の言葉を遮る。すると、足立が意外なことを口にした。

「いや、その逆だよ。葉月さんには、このまま仕事を続けてほしいんだ」

 あまりにも意外だったのだろう。彩は「へっ?」と聞き返した。

「君は、非常に優秀なメンバーだった。特に、モデルさんとは誰とでも仲良くできたからね。今、ファッション関係の部署はかなり混乱しているんだ。スタッフもモデルさんも、スリーパーであることは関係なく、葉月さんに戻ってきてほしいという意見ばかりだよ。私だって、君の復帰を希望している。どうだろう、職場に戻ってきてくれないか?」

 彩の顔が明るくなった。

「はい、私のほうこそ、よろしくお願いします」

 こうして彩は、退院した翌日から職場への復帰を果たした。最初は業務時間を短縮しての仕事であったが、様々な問題が山積していたため、かなり多忙な毎日を送った。何をどうやって片付けていったのか、彩にはこの頃の記憶があまりない。

 新しい住居は、とりあえず無料で借りられる一人暮らし用の物件を選んだ。退院時に必要最低限の荷物を運び入れ、一応生活はできるようにした。

「一人で本当に大丈夫かしら?」

 一緒に付き添っていた母親が口をこぼす。

「子供じゃないんだから、心配ないわよ」

「でも、変な男につきまとわれたら大変よ」

「暴漢対策もバッチリしているから安心して」

 彩は、母親に笑顔で応えた。

「ところであなた、鬼神さんとはどうなったの?」

 まだ、鬼神と付き合い始めたことを両親には伝えていない。

「どうって・・・今でも連絡を取り合っているわよ」

「病院では、2人ともいい雰囲気だったじゃないの」

「そうかな?」

「ねえ、付き合い始めたんなら教えてね。お父さんには内緒にするから」

 彩が答えるべきか迷っていると、電話の着信音が鳴った。

「もしもし・・・あっ、はい。・・・大丈夫ですよ。お母さんに手伝ってもらって、もう終わりましたから・・・そうですね、はい。・・・」

 電話で会話する彩は身をくねらせ、顔をほころばせていた。少し頬に赤みが差しているのを見た母親は、相手が誰なのかすぐに分かった。

 電話を切って母親の顔を見ると、ニヤニヤ笑っていた。

「何よ・・・」

「相手は鬼神さんでしょ?」

「別に誰でもいいじゃない」

「まあいいわ。でも、いつかはちゃんと紹介してね。じゃあ、私はそろそろ帰るわ」

 母親はそう言って、車を探し始めた。その後ろ姿を見た彩が

「お母さん」

 と呼び止める。母親が彩のほうへ振り向いた時、彩の顔は笑っていた。

「私、鬼神さんと付き合い始めたの。お父さんに伝えてもいいわよ。鬼神さんなら、お父さんも文句はないでしょ?」

 母親は、彩の言葉を聞いて笑顔で

「よかったわね、彩」

 と返して、手を振りながら車のほうへと向かっていった。


 鬼神は、彩が職場復帰した翌日に警察へ呼ばれた。

「どうしたんだ、マリー?」

「葉月さんの警護、お疲れ様でした」

「早速、次の仕事かい? それとも、もう用なしになったのかな?」

「・・・鬼神さんには、ハンターを辞めてもらうことになりました」

 鬼神は、覚悟ができていたらしい。マリーの言葉を聞いて

「警察に残るのは、やっぱり難しいのか?」

 と控えめに聞いてみた。

「そこで御相談なのですが・・・」

「相談?」

 鬼神が、訝しげに聞き返した。

「私は、鬼神さんを刑事部に配属したいと思っているのですが、いかがですか?」

「刑事に?」

 鬼神は、刑事の経験などない。警官としてスタートし、感染後はすぐにハンターになった。

「俺は、事件の捜査なんてしたことはないぜ。そんなに急にできるものでもないだろう」

「鬼神さんの観察眼や推理力、判断力は、私もよく把握しているつもりですわ」

 鬼神は、しばらく思案していたが、やがてマリーに問いかけた。

「誰かの後釜にでも据えようという魂胆か?」

「実は、竜崎さんが辞めることになりまして」

「竜崎というと、葉月さんの病室に見舞いに来てた?」

「そうです。竜崎さんは、葉月さんが感染したことに責任を感じていまして、今回の事件が解決したら、刑事を辞めるつもりだったようです」

 竜崎は、事件解決後にもう一度退職届を提出した。

「刑事を辞めて、どうするつもりだ?」

「これからは、感染者やスリーパーの支えになるような仕事に就きたいと思います。それが、俺のできる唯一の罪滅ぼしです」

 上司は、竜崎が机の上に置いた退職届を手に取り

「君は有能な刑事だった。我々としては正直なところ、手放したくない。だが、君の決心は固いようだな」

 と尋ねた。

「すみません」

 竜崎はそう言って、頭を下げるだけだった。

 結局、竜崎は退職届が受理され、警察を去ることになった。

「浜本、お前なら一人でもやっていけるだろう。これからの活躍に期待しているよ」

 竜崎が笑顔で浜本に話しかけるが、浜本は何も返すことができなかった。

「じゃあ、達者でな」

 竜崎が立ち去ろうとした時

「竜崎さん!」

 と浜本に呼び止められ、竜崎は浜本のほうへ振り向いた。

「今まで、ありがとうございました」

 そう言って、深々と礼をする浜本に

「お前と組めて、よかったよ」

 と一言返す。

 浜本は、お辞儀をしたまま涙を流していた。


 麻子は、新しい住居での暮らしを始めていた。

 ドナのいない間、イヴが麻子のサポートを行った。部屋の掃除や食事の準備など、麻子が勉強している間、テキパキと家事をこなすイヴを見て

「イヴさんは、家事が専門のアンドロイドなんですか?」

 と麻子が尋ねたことがある。

「アンドロイドは、元々家事を代行することが専門だったのよ。だから、全てのアンドロイドは家事が得意なの。そのうち、他の仕事も任せるようになっていったのね」

 イヴはそう説明した。それには、増加する高齢者の世話が必要となったことが背景にある。介護と家事を両立し、しかも仕事までこなすのは人間では不可能に近い。たとえ金銭的な援助があっても、介護などの負担はかなり大きいだろう。これらを補助する目的で利用されることで、アンドロイドは一気に普及したのである。今では、様々な職業でもアンドロイドは活躍している。

「では、イヴさんは何を専門とされているのですか?」

「今は、警察で刑事のサポートを担当しているの。現場検証したり、証拠を集めたり、そうやって集めたデータを元に犯人を割り出すこともできるのよ」

「わあ、なんだか格好いいですね」

「鬼神さんと一緒に仕事したこともあるの」

「そうなんですか」

 イヴは、スラム街で鬼神に助けられたときの事を麻子に話した。

「そんなことが・・・」

「その時の鬼神さん、すごく格好よかったわ。私ね、鬼神さんと一緒に仕事することが今の願いなんです」

 麻子は、鬼神の次の仕事を探すと、イヴが真剣な顔で鬼神に話しかけていたのを思い出した。

「その願い、叶うといいですね」

「実は、叶いそうなのよね」

 イヴは、笑顔で麻子に応えた。

 イヴと何日か過ごした後、ドナは前と全く変わらない姿で戻ってきた。もちろん、記憶もそのままである。

 夜、ドナが玄関前に姿を表した時、麻子はドナに抱きつき、声を上げて泣きじゃくった。以前、ドナが疑問に思ったことは、こうして解が得られたわけである。

「大丈夫よ、麻子ちゃん。ちゃんと元通りになったから」

 ドナがしゃがみこんで、麻子の涙を指で優しく拭いながら

「あの時、麻子ちゃんがかばってくれなかったら、私は頭を破壊されて機能停止していたかも知れない。麻子ちゃんのおかげで、私は助かったの。ありがとう、麻子ちゃん」

 と話しかけ、そっと麻子の体を抱きしめた。

「さて、私の任務はこれで完了ですね。あとはドナにお任せします」

 麻子とドナが一緒に部屋へ入ってくるのを見て、イヴはドナに向かって話しかけた後、麻子の前に立った。

「紫龍さん、短い間だったけど、楽しかったわよ」

「こちらこそ、いろいろとありがとうございました」

 頭を下げる麻子を見て、イヴは

「警察に来ることはないほうがいいけど、機会があればまた会いましょうね」

 と言って笑顔を見せた。


 最終的に、鬼神は刑事の仕事を引き受けることにした。

「もちろん、体に負担は掛けられませんから、外回りや深夜の宿直はなし、残業時間もありません」

 マリーが鬼神に説明する。

「それで、刑事なんか務まるか?」

「収集した証拠を元に、事件の真相を究明するのが主な役割になりますね」

「せめて外回りくらいはいいだろう? 現場を見なきゃ、推理なんかできないぞ」

「それは検討してみましょう。では、明日にでも職場の皆さんに紹介しますね」

 刑事としての初日、鬼神は、マリーに付いて回り、職場での注意事項について説明を受けていた。

 鬼神にとって、周囲の人間は、名前はわからないが顔は知っている者ばかりだ。相手も、鬼神のことは把握している。それほど新鮮味もなく、鬼神はすぐ、昔からその場にいたかのように馴染んでしまった。

「鬼神さん、これから新しくペアを組むことになる浜本です。よろしくお願いします」

 鬼神が、自分の机の席に座ってすぐ、浜本が挨拶にやって来た。

「ああ、前に竜崎と組んでいたんだよね。ここでは、君のほうが先輩になるから、よろしく頼むよ」

「ははっ、警察での経験年数では、僕は鬼神さんには叶いませんよ。せいぜい、足を引っ張らないように頑張ります」

 そんな話をしていると、マリーがイヴを引き連れて鬼神の下へ近づいてきた。

「ここに、新しいアシスタントが派遣されました。鬼神さんもよくご存知のイヴです」

 イヴがにこやかな顔で鬼神と浜本に挨拶を始める。

「この度、捜査第一課に派遣されたイヴです。鬼神さん、浜本さん、よろしくお願いしますね」

 こうして、鬼神の新しい仕事は始まったのだった。


 彩が退院して最初の休日、鬼神と彩はE-2エリアにある商業スペースでショッピングを楽しんでいた。

 途中、カフェに立ち寄って、2人ともアイスコーヒーを注文した後、鬼神が口を開いた。

「仕事が大変ってこぼしてたけど、落ち着いたの?」

「全然。子供服用のモデルが一人足りなくて困ってるんです。今月末までに仕上げたいんだけど、そのためには来週早々撮影を始めなくちゃならなくて・・・」

「麻子さんには聞いてみたの?」

 鬼神に指摘され、彩はキョトンとしている。

「そう言えば、麻子さんには元々モデルをお願いしたかったんだわ」

「今夜にでも相談してみたら?」

「そうしてみます」

 彩は、大きくうなずいた。

「俺も、仕事のことで報告があってね。ハンターは辞めることになった」

「そうすると、普通の会社員に?」

「いや、今度は刑事に配置換えだよ」

「刑事ですか!?」

「うん。今は未解決事件の証拠を整理するのが日課になってる」

「刑事って、危険な仕事じゃないんですか?」

 彩は、少し心配そうな顔をしている。

「ハンターのほうがよっぽど危険だよ。それに、この間の健康診断で重労働は禁止になってね。今は外回りもできないから、事務員と大差ないよ」

「そうなんですね。少し安心しました」

「葉月さんのほうこそ、あまり無理をしないようにね」

 鬼神には、彩がかなり疲労しているように見えた。

「今月を乗り切れば、だいぶ楽になると思います」

 心配そうに見つめる鬼神に、彩は笑顔で応えた。


 夜は麻子とドナを加え、4人でささやかなパーティーを開いた。場所は和食の専門店『亀芳』である。

「麻子さん、相談事で申し訳ないんだけど、一回だけでいいからモデルの仕事をお願いできないかしら?」

「えっ?」

 戸惑う麻子に、彩は事情を説明する。

「でも、モデルって顔も出るんですよね。私、あまり顔を知られたくないです」

 殺人犯の娘として顔が露出したこともあり、麻子はモデルの仕事は避けたいようだ。

「そうだよね・・・やっぱり、他を探してみるか・・・」

 彩が頭を抱えるのを見て、麻子は申し訳なさそうな顔をする。すると、鬼神が

「顔を出さないようにはできないのかい? 後ろ姿を撮るとか、顔を隠すとか」

 と提案した。

「うーん、そういったのは掲載したことがないなあ」

「一回限りの素人さんモデルだから顔出しはダメとしておけば?」

「麻子さんは、それなら引き受けてくれる?」

 麻子は、うつむいたまま考えていたが

「一回だけなら・・・」

 と小さくうなずいた。

「ありがとう、麻子さん」

 彩は、来週からの日程を麻子と調整し始めた。その間に注文した料理やドリンクが運ばれ、彩は日本酒を飲み始める。

 麻子がモデルの仕事を引き受けてくれたのがよほど嬉しかったのか、それとも元から酒に強いのか、彩の飲むペースは早かった。

「そんなに一気に飲んで、大丈夫か?」

 お酌をしながら鬼神が彩に尋ねる。

「久しぶりにお酒を飲むから美味しくて」

 最初はにこやかに飲んでいた彩だったが、やがて頭を抱えるようになった。

「おかしいわね。いつもなら、これくらい飲んでも平気なのに・・・」

「酒を飲むのは久しぶりだし、仕事で疲れてもいるから、酔いやすいんだろう。水をもらおうか?」

 顔を赤くする彩の顔を見て、鬼神は不安そうに声を掛ける。

 食事が終わり、そろそろ帰るという頃には、彩は鬼神の肩に寄りかかって眠っていた。

「彩さんすっかりダウンしているわね」

 ドナが眠っている彩を見て微笑んだ。

「葉月さん、そろそろ帰りますよ」

 鬼神がそっと肩を揺らす。彩はもたれかけていた頭をすっと戻し、立ち上がったが、体がふらついていて心許ない。

 鬼神も立ち上がり、慌てて彩の肩を抱き寄せた。

「やだ、鬼神さん。こんな所で恥ずかしい」

 彩は照れながらも、鬼神に体を寄せてくる。

「困ったものだな。このまま、家まで送ることにするよ」

「私達も一緒に行きます」

 麻子が、彩の様子を見て心配そうに声を掛けた。

「俺一人で大丈夫だよ」

「でも、来週の日程の件が、途中までしか決まっていなくて」

 日程調整が終わる前に、彩は酔いつぶれてしまったのだ。

「そうか・・・でも、」

 鬼神は、彩の様子を見て

「今日は決められそうにないよ。明日にでも電話で聞いてみたらどうかな?」

 と麻子に勧めた。

「麻子ちゃん、ここは鬼神さんにお任せしましょう」

 ドナからもそう言われて、麻子はドナと一緒に自宅へ帰ることにした。

 麻子たちが乗った車を見送った後、鬼神は、眠っている彩を肩に担いだまま、歩道にあるベンチまで歩いていった。

「さて、ここで少し酔いを覚まそう」

 ベンチに腰掛け、彩の首を自分の肩に預けさせる。彩は気持ちよさそうに眠ったままだ。

 商業スペースでは、夜はこれからである。多くの人々が道を歩いていた。

 彼らは、地上への抜け道があるなどとは夢にも思っていない。そういう自分も、ほんの一ヶ月ほど前までは想像すらしていなかった。

 しかし、不思議なことに、『ノア』に告げられた後、疑うことなくその事実を受け入れていた。『ノア』の術中にはまったのかとも思ったが、逆に抜け道がないと考えるほうが不自然だと気が付いた。

 その昔、人が往来していたわけであるから、通路があることなど明らかだ。封鎖されていても、地上から何の連絡もない状態なのだから、普通ならおかしいと感じるだろう。封鎖を解除して調査するのが自然である。

 仮に、簡単には解除できないほど頑丈に封鎖されていたとしよう。土砂で完全に埋め立てられれば、地上に出ることは容易くはないだろう。しかし、地下世界にも優れた掘削技術はある。不可能ということはないはずだ。

 なぜ、地下都市の人間は地上を調べようとしないのか?

 アンドロイドがそうしないのは、地上がすでにパンデミックによって滅亡したと考えていたからだ。だから、地下世界の人間を、汚染された地上に放ちたくはなかった。

 だが、人間は、地上に見放されたと感じていた。なのに、地上への脱出手段の検討すらしない。

 鬼神は、その理由を考えていた。

 そして達した結論は、アンドロイドへの依存だった。人間は実質的に、アンドロイドに支配されているのだ。

 アンドロイドが、人間を支配しようと考えているわけではない。アンドロイドは、人間にとって良きパートナーだ。賢く、従順、友好的であり、友人や恋人、職場の仲間、親兄弟など、様々な役を完璧に演じてくれる。そのため、今ではあらゆる場面でアンドロイドが活躍し、存在しない世界など考えられないくらいだ。

 しかし、いつしか人間は、自分で考える前にアンドロイドの判断を採用するようになっていないか。あらゆる規則、道徳、さらには流行まで、アンドロイドにより決められているのではないか。

 では、人間の存在理由は何だろうか? 何もかもアンドロイドが決められるなら、人間は不要ではないだろうか?

 このままでは、自然淘汰によって人間は消え去るのではないか?

(『ノア』は、変異によって人間の未来を変えたかったのだろうか?)

 『ノア』の計画はあまりにも過激で、とても許容できるものではない。しかし、アンドロイドとの共存のあり方を人間がきちんと考え、改めなければ、人間の未来は暗いものになるだろうと鬼神は思った。

「うーん・・・」

 彩が、目を覚ましたようだ。

「ようやく、お目覚めかな?」

「あれ、ここは?」

「まだ、店を出てすぐの場所だよ」

「麻子さん達は?」

「先に帰ってもらったよ。来週の日程の件、心配していたぞ」

「はあ、麻子さんには申し訳ないことをしてしまったわ」

 ため息をつき、うなだれる彩を見て、鬼神は笑みを浮かべながら

「もう酔いは覚めたのかい?」

 と聞いた。

「ええ・・・ごめんなさい。ずっと看病してくれたのね」

「いいって。それより、もう帰るかい? それとも、もう少し遊んでいく?」

 彩は笑顔になって

「もう少し、一緒にいたいな」

 と答えた。

 2人は寄り添ったまま、人混みの中へと消えていった。


 麻子は、彩に頼まれたモデルの仕事のため、ドナと一緒にセーラム通信社に来ていた。

「こんなにかわいいのに顔出しNGとは、もったいないな」

 デザイナーらしき人が、麻子の姿を見て彩に本音を漏らした。

「でも、スタイルだっていいから、きっと素敵な写真に仕上がるわよ」

 彩は、麻子の横に立って、にこやかな顔でデザイナーを説得する。

 スタイリストは、眼鏡と大きめのマスクを用意していた。これで、顔を隠そうということらしい。

「この中から、好きな眼鏡とマスクを選んで下さい」

 この時代、視力の補正に眼鏡を使うことはほとんどない。半永久的に装着したままでいられる生体コンタクトレンズが主流である。眼鏡は、ファッションでの利用がメインで、麻子も身につけるのは初めてであった。

「かわいいものばかりで、どれにするか迷うわ」

 いろいろと試着して、最終的には赤い丸ぶちメガネと花柄のマスクを選んだ。

 撮影は順調に進み、チェック結果も文句なしで、撮り直しすることなくあっという間に終わった。

「いやあ、一度きりのモデルにするのはもったいない。僕の服の専属モデルとしてお願いしたいな。もちろん、顔は出さなくてもいいからさ」

 そう話しかけるデザイナーに、どう答えてよいかわからずもじもじしている麻子を見て

「彼女、すごくシャイなの。今回のモデルも頼み込んでやっとオーケーをもらったのよ。申し訳ないけど、専属モデルというのはちょっと無理ね」

 と彩が助け舟を出す。

 麻子にとって、撮影は緊張したものの、たくさんのモデルに会うことができたり、かわいい服をいくつも着ることができて、この仕事もまんざらではなかったようだ。

 赤月優香に再会することもできた。

「初仕事、お疲れ様。すごく素敵だったわよ」

「ありがとうございます」

 麻子は、相変わらず目を合わせることができず、深々とお辞儀をした。

「そんなに緊張しなくてもいいじゃない。ほら、リラックスして」

 肩をポンと叩かれ、麻子は優香の顔を見た。優香は笑顔で麻子を見つめている。麻子の顔にも、自然に笑みが浮かんだ。

「これからも、モデルは続けるの?」

 優香に尋ねられ、麻子はしばらく悩んでいたが

「やってみると意外に楽しかったけど、やっぱり、顔が知られるのはちょっと・・・」

 と返答した。それを聞いた優香は、麻子の複雑な事情を知っているので

「まあ、そうよね。また、怖い目には遭いたくないものね。でも、ファッションに興味があるのなら、裏方の仕事をするのもいいかもね。洋服のデザイナーなんて向いてるかも」

 と提案してみた。

「デザイナーって、なんだか楽しそう」

 麻子はそう言って、目を輝かせる。どうやら、興味はあるようだ。

「仕事をするのは、もっと先の話になるだろうけど、もしよければ、この会社を候補に入れてほしいな。私もね、今はモデルをしているけど、いつまでも続けることなんてできないから、将来はデザイナーを目指しているの。あなたがもし、この会社に入ったら、一緒に働けるといいわね」

 優香にそう言われて、麻子は元気よく「はい」と答えた。


 撮影も無事に終わり、彩は麻子とドナを連れて洋菓子店へと向かった。

「今日は、どうもありがとう。おかげで締切までに間に合いそうよ」

「こちらこそ、写真を撮っただけなのに、あんなにたくさんお礼をもらっちゃって、なんだか申し訳なくて」

「あれはモデル料としての賃金だから、気にしなくてもいいのよ。本当なら、もっと上乗せしてほしいくらいなんだけどね。だから、今日は私のおごり。好きなものを食べていいわよ」

「でも・・・」

「遠慮なんかしなくていいから、さあ、注文しましょう」

 彩はそう言って、手をひらひらさせる。初めて会ったときも、こうやってご馳走になったことを麻子は思い出した。

 2人ともケーキと紅茶を注文した後、まずは彩が話を切り出した。

「モデルの仕事はどうだった?」

「意外に楽しかったです。いろんな服を着ることができたし。でも、これから写真が公開されるのを考えると、ちょっと恥ずかしいし、正直言うと不安もあるかな」

「まあ、一度だけだし、顔の分かりにくい写真を選んで掲載したから心配はないと思うけど。でも、公開後の反響には私も注意しておくようにするわ」

「そう言えば、彩さんが私に声を掛けたのって、モデルの仕事をして欲しかったからなんですよね」

「まあ、そうだけど・・・そんな事、言ってられない事情があったからね」

 麻子は、下を向いて

「私・・・彩さんや鬼神さんがいなかったら、今頃どうなっていたか分からない。お二人には、すごく感謝しています」

 と恥ずかしげに言った。

「私だって、インフェクターに襲われたり、感染した時には、麻子さんに励まされたから、お互い様よ」

 2人は顔を見合わせ、小さな声で笑った。

 ケーキと紅茶が運ばれてきた。彩はチーズケーキを、麻子はチョコレートケーキを注文したようだ。

「独り暮らしには慣れてきた?」

 彩が麻子に尋ねる。

「小さい頃から、一人で家にいることが多かったし、今はドナさんもいるから」

 そう言って、麻子はドナのほうを見た。

「でも、この間みたいな事があったから、不安もあるわよね」

 ドナも麻子の顔を見ながら口を開いた。

「彩さんも独り暮らしですよね」

 麻子が逆に質問した。

「私は大丈夫よ」

「ボディーガードがちゃんといるから、彩さんは問題ないわよね」

 ドナが意味ありげに微笑んだ。

「そうか、鬼神さんがいるから、安心ですね」

 麻子も納得したようだ。

「いや、そんな、ずっと一緒にいるわけではないのよ」

 彩の顔が真っ赤になる。

「鬼神さんのことだから、きっと心配で夜遅くまでいてくれるんでしょ? そのまま朝までなんてこともあるんじゃないかしら?」

 ドナの追求に彩は何も返せなかった。

「でも、将来は一緒に暮らすようになるんですよね。なんだか、幸せな家族になりそうですね」

 麻子のそんな言葉を聞いた時、彩には一つの願いが生まれた。

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