第26話 今日と明日の境界線
気がついたときには、白い部屋の中にいた。
いや、元は白かったというべきか。あたりには緋色の血しぶきが派手に散っていた。
自分の手が、真っ赤に染まっている。その手を何度も何度も、床に叩きつける。
手が粉々に砕け、原型を留めないほどになってもなお、止める気配はない。
しかし、自分の体のはずである。その気になれば止められるはずだ。
抵抗しようともがいてみる。だが、体は言うことを聞かない。
そして初めて気づいた。自分がインフェクターと化していることに。
(やめて!)
心のなかで叫ぶ。だが、それは声とならない。もはや、この体を操るのは自分ではなく、バクテリアなのだ。
誰かが、部屋の中に入ってきた。それは鬼神だった。自分をにらんでいるのが分かる。それは獲物を狩る目であった。
(助けて!)
鬼神にしがみつこうと駆け寄る。しかし、コントロールできない砕けた腕は鬼神に殴りかかった。
鬼神が、その腕をつかみ、ねじ伏せる。彩は動くことができない。頭上に鬼神の足が迫る。首の骨を折るつもりだろう。
彩は固く目を閉じた。自分が排除される瞬間を待った。
しかし、いつまで待っても最後の一撃はない。彩は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、ベッドの中だった。外からの光で部屋の中は明るく照らされている。
どうやら、夢を見ていたらしい。上半身を起こすと、アンドロイドがすぐに声を掛けた。
「お目覚めのようですね。すぐに朝食をお持ちいたします」
その声を聞いて、彩は軽くため息をついた。
「この病院か・・・」
鬼神が、ため息まじりにつぶやいた。
「なにか問題でも?」
鬼神の言葉を疑問に思い、ドナが尋ねる。
「いや、いつもここは避けていたからね」
鬼神は照れくさそうに笑いながら答えた。
病院内に入り、彩のいる病室へと移動している途中で、鬼神が最も会いたくない人と遭遇してしまった。
「鬼神さん、お久しぶりです」
端正な顔立ちの、白衣を身にまとった医師が鬼神に軽く会釈した。
「お久しぶりです、先生」
鬼神も、会釈を返す。
「そういうことですか、ここで検査を受けられているのですね」
病院へ到着した時、鬼神の言ったことが理解できたらしく、ドナが口を開いた。
「最近、定期検診に来られないから心配していたのですよ」
スリーパーは、体への負担が大きいことから、半年に一度、検診を受ける義務があった。
「それはよくありません、鬼神さん。自分のお体を大事にしなくては」
ドナの言葉に
「いや、いつお呼びがかかるか分からないから、なかなかチャンスがないんだよ」
と鬼神は言い訳した。するとドナが
「前もって知らせておけば大丈夫なはずですよ。では、今から予定を決めておきましょう」
と言い出す。
「いや、それは・・・」
鬼神が拒む間もなく
「明日でもできるじゃないですか。マリーにはもう連絡しておきましたから、必ず受診して下さいね」
あっという間に予定が決まってしまい
「しかし」
鬼神がなにか言い出すのを
「私も同行します。絶対に受けてもらいます」
ドナがさえぎり、念押しした。
その様子を見ていた麻子が思わず吹き出してしまい、鬼神はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
病室の前には、竜崎と浜本の姿があった。
「鬼神さんではないですか。葉月さんとはお知り合いだったのですか?」
浜本が、鬼神の存在に気づき、尋ねた。
「まあ、そんなところだ。あんたたちはどうしてここに?」
「今回の不祥事の原因は俺たちにある。彼女が無事であることを確認しなければならないのでな」
竜崎が口をはさんだ。
「そういうことか・・・で、今は入れるか?」
「たぶん大丈夫だと思うが・・・」
竜崎があいまいに答えた時、ドナが鬼神の近くへやって来た。
「中のアンドロイドに確認したら、大丈夫とのことです。血液の採取は終わったようですね。今は、検査の結果を待っている状態ですよ」
そう言った後、ドアに近づいてノックする。
「どうぞ」
彩の声が聞こえた。ドナは、ドアを開けて中を覗き込む。
「こんにちは、彩さん。具合はどう?」
「別に悪いところはないんだから問題ないわよ。麻子さんもいっしょ?」
「もちろん。それから今日は、素敵な男性もお見舞いに来ているわよ」
「えっ、男性?」
ドナが室内に入り、鬼神と麻子がその後に続いた。
「鬼神さん!」
鬼神の顔を見た瞬間、不意に誰かにつかまれたかのように、彩の体が硬直した。
「ごめんなさい、こんな格好で」
パジャマ姿の体を慌てて布団で隠す。彩の耳が、あっという間に真っ赤になった。
その様子を見た鬼神も動揺してしまい
「いや、失礼しました」
と言い残し、持っていた花束を麻子に渡して外に出てしまった。
「あ、待って・・・」
彩が引き止めようとしたが、すでにドアが閉められた後だ。
彩の予想外の反応に、ドナも麻子もすぐには声を掛けることができなかった。
しかし、ドナは何かを察したらしい。
「彩さん、この花束、鬼神さんが彩さんのために選んでくれたの。どう?」
麻子の持っている花束を指差して彩に伝えると、彩の顔がぱっと明るくなった。
「素敵! すごくうれしいわ」
麻子から花束を受け取り、彩はすごく嬉しそうだ。黄色いガーベラに淡いオレンジのバラ、そして紫のキキョウ。それらがバスケットの中にきれいに飾られている。
「鬼神さんは、花言葉を知っていて選んだのかしら?」
ドナが笑顔でつぶやいた。
「バラの花言葉は『愛』ですよね」
麻子の言葉に
「えっ?」
と彩が反応した。
「黄色いガーベラの花言葉は知ってる?」
ドナが麻子に尋ねる。
「いいえ、知らないわ」
「黄色いガーベラの花言葉は『究極の愛』、そしてキキョウは『永遠の愛』」
麻子が両手で口のあたりを押さえた。
2人が彩の顔を見ると、また耳のあたりが真っ赤になっている。
「まあ、偶然なのかも知れないけど、それでも心がときめくわよね」
彩は下を向いてしまい、ドナの言葉が届いたのかも分からない。
「ドナさん、彩さんが困ってるじゃないですか」
麻子が注意した。
「ごめんなさい。でも、鬼神さんが選んでくれたのは本当よ」
ドナがそう言って、彩の様子を伺う。
「・・・私、どうして鬼神さんがこの花を選んだのか、分かる気がするわ」
バスケットに入った花束を見ながら、少し寂しげな顔で、彩は口を開いた。
「えっ、そうなんですか?」
麻子が彩に尋ねる。
「昔ね、鬼神さんの奥さんが職場によく花を飾ってたの。いつもガーベラにバラ、それからキキョウだったわ。きっと、奥さんが好きな花なのね」
彩の話を聞いて、2人は何も言えなくなってしまった。
鬼神が花に詳しいとはとても思えない。妻が好きだった花だから、よく知っている花だから、選んだのだろう。もしかしたら、無意識に手に取ったのかも知れない。
静まり返った病室に、ノックの音が大きく響いた。
「どうぞ」
彩の返事に応じて入ってきたのは、2人の病院関係者だった。一人は白衣を着た女性、もう一人は背広姿の男性である。
「葉月さん、検査の結果が得られました」
背広姿の男性が、静かにそう告げた。彩は少し緊張した面持ちで
「それで、どうだったんですか?」
と尋ねた。
少しの間の後、男性がゆっくりと話し始めた。
「非常に申し上げにくいのですが、採血したサンプルで2回検査を行い、どちらも結果は陽性でした」
彩は、表情を変えず、じっと男性の顔を見ていた。
病室の外では、鬼神、竜崎、浜本の3人が同じベンチに腰掛けていた。
特に話すこともなく、誰もが口を閉ざしている。
少し前に男女のペアが、3人の前を、軽く会釈をしながら通り過ぎていった。そのまま彩のいる病室へ入ったのを見て、竜崎が
「検査結果が出たのかな?」
とつぶやいたが、誰もそれに応える者はいなかった。
しばらく経ってからのことである。
「いやあああああー!」
病室の中から悲鳴が聞こえ、3人は立ち上がった。泣き叫ぶ声に、周囲にいた者たちも驚いて声の主を探している。
「なんてことだ・・・」
竜崎が呆然とした顔でつぶやいた。
鬼神は、病室の中へ駆け込んだ。残った2人は、なすすべもなく立ち尽くしている。
「浜本・・・頼みがある」
「・・・はい」
力なく返事をする浜本の顔を見つめ、竜崎は言った。
「この件、上に伝えてくれないか。直接説明したほうがいいだろう」
「竜崎さんは、どうされるのですか?」
「許してもらえるわけないが、それでも俺は彼女に謝罪しなければならないだろう。それが終わったら、俺も警察に戻るよ」
「竜崎さん一人の責任ではないでしょう?」
「俺が、あの2人を解放しなければ、男のほうは死なずに済んだし、彼女が感染することもなかった。もう少し用心していれば・・・」
「しかし、あれは規定に従った行動でした」
「あの男が知らせてきた後も、俺は女の近くから離れるという失態を演じてしまった」
竜崎は、じっと浜本の顔を見つめていた。浜本も、なんとか説得しようと、その視線をまともに受ける。
「いつしか、俺も規定に縛られて頭が固くなっていたらしい」
「えっ?」
竜崎の不意の言葉に、浜本は面食らった。
「昔の俺なら、最悪の場合を想定してもっと用心していたような気がしてな。ところが今では、何も考えずに規定に従うだけの能無しになってしまった。これじゃあ、刑事失格だな」
「竜崎さん、辞めるつもりじゃ・・・」
「最悪の事態が起こってしまったんだ。その責任は取らないと」
浜本は肩を落とし、竜崎から視線を外した。目を固く閉じて、しばらく黙っていたが、やがて静かに目を開け
「犯人を捕まえなくても、いいんですか?」
と尋ねた。その言葉に、竜崎は下を向き、何も言わない。
「このまま終わっても、いいんですか?」
浜本はもう一度尋ねる。しかし、竜崎は
「すまない」
と返すことしかできなかった。
病院から外へ出る浜本を見送った竜崎は、深いため息をついた後、病室へと入っていった。
彩は、まだ泣いていた。
その周囲を、麻子、ドナ、そして鬼神の3人が囲んでいる。
しかし、誰も声を掛けることはできなかった。
竜崎は、彩の近くまで進み、深々と頭を下げた。
「申し開きするつもりはありません。全ては私の失態が招いたこと。できる限りの償いは・・・」
「出ていって!」
彩の叫び声で、竜崎の話は途絶えた。
「もう、元には戻れないのよ。今さら何を償うというの?」
竜崎は、何も答えることができず、頭を下げたまま動かない。
「あんたも感染してしまえばいいのよ。そうすれば今の私の気持ちが分かるでしょう」
「彩さん、落ち着いて」
ドナが気を落ち着かせようとするが、彩の怒りは静まらない。
「絶対に許さない。絶対に・・・」
彩はそれ以上、言葉にすることができず、また泣き出した。
「必ず、償いはします・・・」
竜崎は、それだけ口にして、静かに病室を出ていった。
しばらくは、病室内を慌ただしい時間が過ぎた。
最初に、彩の両親が訪ねてきた。彩は、この頃には少し落ち着きを取り戻していたが、今度は母親のほうが取り乱し、彩にしがみついて泣き崩れた。
そして運悪く、警察幹部が謝罪にやって来た。3人ほどの背広を着た男性が、一斉に彩に向かって頭を下げる。彩はもう、竜崎の時のように反発することなく、静かに謝罪の言葉を聞いていた。
怒りを顕にしたのは父親のほうだった。
「どんなに謝っても、娘の体は元に戻らないんだ。たった一人の娘を・・・」
今まで泣き叫ぶ母親をなだめていた父親が、このとき初めて涙を流した。3人の幹部は、何も言葉を発することができない。
沈んだ雰囲気の中、彩が話し始めた。
「もういいです。これ以上、暗い雰囲気にしたくありませんから、今日はお引き取り下さい」
その言葉を聞いて、3人は一礼し、病室を立ち去った。
「俺も、そろそろ警察に行かなきゃならない」
両親ともだいぶ落ち着いてきたところで、鬼神が、彩にそっと告げた。
「あっ、今日は本当にありがとうございました」
「明日も病院に来なくちゃならなくなってね。だからまた、様子を見に来るよ」
鬼神は、彩に笑顔を見せた。それに釣られたのか、彩も少し笑みを浮かべた。
鬼神が立ち去った後、父親が彩に尋ねた。
「今のお方は、いったいどなたかな?」
「会社の先輩だった木魂さんって人、覚えてる? さっきの方が旦那さんよ」
「そうか、あの方が・・・」
父親は、鬼神の家族を襲った悲劇のことを記憶していた。鬼神が出ていった扉をしばらく眺めていたが、やがて軽く首を振って彩のほうへ顔を向けると
「あの方とは、以前からお知り合いなのか?」
と真面目な顔をして尋ねた。
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