第20話 長い一日の終わり

 立花と大城が、スラム街への入り口である非常階段口の近くで並んで立っていた。2人が並ぶと、大城の背の低さがはっきりと分かる。

「小谷は、まだ出てこないようね」

 立花が大城に話しかけた。

「一番先に終わると思っていたが。不気味な祭壇の跡を見つけたらしい」

 大城がそれに応える。

「全く、この中は異常ね。また入らなきゃならないなんて、うんざりだわ」

「大量の感染者に死体の山、想像以上だったな」

 周りはすでに暗くなり、建ち並ぶ建物は灰色のカーテンで覆われたように見える。このエリアは工場で、夜になっても機械の低く唸る音がかすかに聞こえてきた。

 10名の感染者は、すぐに病院へと運ばれた。隔離用の病棟に入れられ、発症を待つことになるだろう。その先にあるのは、狂い死ぬか、運よくスリーパーとなって生きることになるか、いずれかである。それに、たとえスリーパーになっても、罪が消えるわけではない。

「鬼神の奴、手こずってるのか?」

 大城が、非常階段口のほうを眺めながらつぶやくように言った。

「死体を収容したら終わりのはずだけど、そんなに時間がかかるのかしら?」

 そんな会話を交わしていた2人の下にアイザックがやって来た。

「本日の業務は完了です。お疲れさまでした。明日も、今日と同じ時間に集合して下さい」

「まだ、2人が戻っていないわよ」

 立花の言葉を聞いて、アイザックは

「小谷さんは、もうすぐここに到着します。鬼神さんは、『進化の選択』のアジトを見つけたようで、マリーといっしょに退去するよう説得している最中ですね」

 と説明した。

「あら、アジトが見つかったの? でも、簡単に出てくるかしらね」

「一筋縄ではいかないでしょうね。時間もかかるでしょうから、おふたりは先にお帰りになってもいいですよ」

「あら、どうなるか楽しみじゃない。私はもう少しここで待つわよ」

 立花の返答に、大城も

「右に同じ」

 と同調した。2人とも、薄っすらと笑みを浮かべている。それを見たアイザックは

「わかりました。おふたりには、すでに報告を受けていますので、あとはご自由にどうぞ」

 と言い残して、その場を去っていった。

「『進化の選択』か・・・10年前に教祖が信者たちを道連れに自爆したはずだが、組織自体はまだ生きているという噂がずっとあった。5年前の事件は、あの教団の仕業だと言われていたんだよな」

 大城の話を聞いて、立花も

「被害者が『進化の選択』のことを長年調べていたからでしょ? 保身のためにほとんど誰にも打ち明けていなかったそうだけど、運悪くリークしたんでしょうね」

 と相槌を打った。

「鬼神は、自分の家族を奪った連中を前にして、冷静でいられるのかな?」

「どうでしょうね・・・」

 立花が、眉をひそめたのを見て

「どうした?」

 と大城が尋ねた。

「いや・・・組織に恨みを持っている人間を近づけて大丈夫かしら?」

「同行しているアンドロイドがちゃんと考えているんだろ。えっと、マリーだったっけ?」

「それならいいけど。ちょっとしたきっかけで、人は我を失うものよ」

 そう言いながら立花が非常階段口を見遣ると、ちょうど小谷が出てきたところだった。

「お疲れさん。素敵な場所を見つけたそうじゃないか」

 立花が、腰に手をあて、満面の笑みを浮かべて小谷に話しかけた。

「ああ、最高だったよ。もう2度と見たくないな」

 小谷は、そう言ってため息をついた。


 男の持っていたプラズマガンは、何の反応もしなかった。

 何度も引き金を引いてみるが、どうやら無駄なようだ。

「馬鹿め。そのまま銃を渡すとでも思ったのか」

 そう言いながら、鬼神は男へと歩み寄った。

 男は、銃を使うことをあきらめ、鬼神のほうへと向きを変えた。そして次の瞬間、鬼神の目の前に瞬間移動した。

 鬼神は男のあまりの速さに思わず後ずさった。男は鬼神に殴りかかったが、それはなんとか避けることができた。

「貴様、スリーパーか?」

 鬼神はそう叫びながらも、相手の腕をつかもうと手を伸ばした。

 今の反応を見て、相手も鬼神がスリーパーであることが分かったらしい。すぐに鬼神から離れ、身構えた。

 2人が対峙しているのを横目に、マリーは哀れな女性の下へと素早く駆けつける。その姿は、生きているのが奇跡だと思えるほどだ。それとも、死なないように、できるだけ長く苦しむように、その絶妙な加減で拷問を行った結果だろうか。

「安心して。今、助けを呼んだから」

 女性に話しかけるが、反応はない。気を失っているようだ。

 マリーが視線を移すと、2人はまだ対峙したままだった。しかし、鬼神には余裕が感じられた。冷静に相手の動きを探っているように見える。対する男は、表情に余裕が感じられない。ハンターとしての鬼神の力量を読み取っているのかも知れない。

 マリーの見立ては正しかった。男は、にらみ合いに耐えられなくなったようだ。鬼神に突進し、強烈なパンチを放った。

 しかし、鬼神は男が仕掛けるのを待っていた。相手のパンチを紙一重でかわし、その腕をつかむ。動きに逆らうことなく、肩に相手の体を乗せ、そのまま思い切り投げ飛ばした。

 恐るべき速さで男の体が飛んでいく。背中から壁に激突し、まるで操り人形の糸が切れたように、床に落ちた。

 もし、鉄柱に衝突していたら、串刺しになっていたかも知れない。鬼神が、鉄柱に当たらないように計算していたのか、それは定かではない。いずれにしても、壁に激しく叩きつけられたのだから、簡単には起き上がることができないだろう。

 衝突音は部屋中に響き渡り、シャッターの近くにいた3人にもそれは聞こえた。

「いったい、何の騒ぎだ?」

 男の一人が部屋へ進もうとしたとき、シャッターを叩く音がした。その叩き方は、教団が決めた合図と同じだった。

「誰だ? まさか、長老か?」

 慌てて開閉ボタンを押してシャッターを開ける。3人が見たのは無表情な2人の男だった。さらにその背後に列をなして並んでいる者がいる。それらは整った顔立ちをしているが、一様に無表情であった。

 マリーは、シャッターを開ける合図を記憶し、それを他のアンドロイドに伝えていた。どんなに複雑な合図を用意しても、アンドロイドにそれが通用するわけがない。

「すぐにその場にひざまずいて下さい。無駄な抵抗はしないこと。妙な素振りをすれば、容赦なく撃ちます」

 その言葉を聞いて、2人が自分たちに銃を向けていることに初めて気づいた。


 ウォータージェルで満たされたカプセルに入れられて、女性は外へと運ばれていった。

 ほとんどの者は、安堵の表情を浮かべている。おそらく、強制的に閉じ込められていたのだろう。

 何名かは敵意に満ちた目を向けていた。スリーパーの男は気絶したままだ。男の懐から2丁の銃を抜き取り、鬼神は一つをマリーに手渡した。

「お人好しな奴だな。俺たちが素直に銃を手渡したと思っていたとはな」

 鬼神はそう言いながら、プラズマガンにカートリッジを差し込んだ。マリーも、スタンガンに同じことをしている。ふたりとも、はなから素直に武器を手渡すつもりはなかったということだ。

「あの男、スリーパーだったのですね。やはり、鬼神さんを連れてきて正解でした」

 マリーが、気絶した男の顔を見ながら口を開いた。

「ふん、俺のことを試したかったんだろ?」

「どういう意味ですか?」

 マリーの問いに、鬼神はすぐには答えなかった。

「この教団に、おれは家族を奪われた。当然、恨みがあるはずだからな。どんな反応を示すか、観察したかったんだろう?」

「そんなことをして、何の意味があるのですか?」

「このまま、『ノア』を追わせておいていいのか、判断するためだ」

 マリーは、それに対して何も言わなかった。鬼神は、話を続けた。

「たとえ任務を解かれても、俺は『ノア』を追い続ける」

「『ノア』を見つけて、いったいどうするつもりですか?」

 マリーの質問に、鬼神は答えた。

「もちろん、復讐だよ」


 手枷と足枷を付けた状態で、男は広い通路をゆっくりと歩いていた。

 しかも、周囲は4人のハンターが取り囲んだ状態だ。

 結局、スリーパーが見つかったということで、外に出ていたハンターはもう一度中へ入ることになった。

「こんなことなら、帰っておくべきだったな」

 横を向いて、瓦礫の山と化した建物の中を眺めていた大城が、ボソリとつぶやいた。

 しかし、その言葉に反応する者は誰もいない。

 信者たちは、アンドロイドに囲まれて黙々と歩いていた。

「この中にも感染者はいるらしい。用心はしたほうがいいぞ」

 鬼神がそう言うと、ため息が聞こえた。

「明日は、少しは楽になるかしら」

 立花が鬼神に話しかけた。

「あとは、例の姥捨て山だけだな」

 感染者の死体があった場所のことである。

「やっぱ、死体は運び出すのか?」

 小谷の問いに答えられる者はいなかった。

「マリー、どうなんだ?」

 鬼神がマリーに問いかける。

「身元を調べたいですから、すべて外に運び出します」

 また、ため息が聞こえた。

「しかし、皆さんは護衛だけしていただければ、作業はすべて私たちが行いますから」

「誰が行くんだ?」

「あのエリアは立花さんの管轄ですから、引き続き、立花さんのチームにお願いしようと思います」

「まあ、仕方ないね」

 そう口にした立花は、あきらめ顔だ。

「他の方は、引き続き捜索をお願いします。特に、『ノア』を捕らえることが喫緊の課題ですから」

 そう話している時、マリーの視線は鬼神のほうへ向けられていた。


 竜崎と浜本は、警察署の近くにあるファストフード店で、遅めの夕食を食べていた。

 結局、解放されたのは日付が変わってから。また朝早くから仕事があることを考えると、ふたりとも仕事が終わってホッとしたというより、まだ同じ陰鬱な作業が続くことにうんざりする気持ちのほうが強かった。

「教祖様は、いったいどこに隠れていらっしゃるのかな?」

 かき込んだご飯を口に頬張りながら、竜崎は浜本に話しかけた。

「信者が何も聞かされてなかったというのも、おかしな話ですけどね」

 味噌汁の入った椀を手に、浜本は応える。

「そもそも、あんなところで信者を確保しても意味ないんじゃないか?」

「そうですね。信者を集めるのは資金を集めるため、と考えれば、あんな場所で信者を増やしてもお金は集まりませんからね」

「俺が思うに、あの場所に人を集めていたのは、感染者を増やすためだよ」

「そんな事して、何の意味があるんですか?」

「奴ら、スリーパーを確保したかったんだよ。スリーパーは兵力になるからな」

「兵力を集めてどうするんですか?」

「テロ行為だよ。奴ら、以前にも感染者を一度に生み出して社会をパニックに陥れただろ。また、何か企んでいたんじゃないのかな」

 浜本は、口の中のものを味噌汁で一気に流し込んで

「なんか、お粗末ですね」

 とつぶやいた。

「そうだな。信者は全員拘束された。今、教祖は丸裸の状態だろう。まあ、他にも取り巻きはいると思うが」

 すべて食べ終えた竜崎が、電気ポットのお茶をお椀に注ぐ。緑茶の甘く香ばしい香りが、竜崎の鼻を突いた。

「というか、10年前のあの事件で、奴らの素性はもうバレている。信者なんか集まるわけがない。全員、監禁して洗脳したんだろう」

「過激な思想に心酔する人間も世の中にはいますよ」

「たしかにな」

 竜崎はそう言って、お茶を口の中に流し込んだ。


 ドアの横にある生体認証用のパネルに手をかざし、ドアロックを解除する。

 中に入り、照明がほのかに明るくなると、すぐにドナが近づいてきた。

「おかえりなさい。先に食事にしますか?」

「それより先に、風呂へ入るよ」

 ドナは笑みを浮かべながら

「かしこまりました」

 と言った。鬼神が前もって指示をしておいたので、すでに準備は済んでいるのだ。

 浴室に入り、シャワーからのお湯を顔に浴びながら、鬼神は今日の出来事を順番に思い出していた。

 宝石泥棒に、不運なカップル、そしてあの不気味な祭壇。

 祭壇に吊り下げられていた女性の姿を思い出す。彼女は発見されるまで、どれだけ長い間、責苦に耐えてきたのだろうか。

 今の医療なら、ある程度は再生可能だが、体は癒せても心に受けた傷はどうにもならない。

 それに、犠牲になった者は彼女だけではないだろう。あれが全て『ノア』の指示だとしたら、鬼神には彼を許すことなど到底できなかった。

(もしかしたら、妻も同じ目に遭っていたかも知れない。もしかしたら、娘は・・・)

 そのとき、胸から何かがこみ上げてくる感覚を覚えた。それは口の中にたまり、鬼神は思わず吐き出した。

 床一面が真っ赤に染まる。それは大量の血液だった。

 それを見た瞬間、鬼神は自分の体が限界に近いことを、復讐のために残された時間は残りわずかであることを悟った。

 スリーパーは、力を抑制することで、ある程度は体の損傷を防ぐことができる。しかし、内臓へのダメージを完全に防ぐことはできなかった。

 鬼神は、スリーパーになってから20年以上が経過している。しかも、その間はハンターとして体を酷使してきた。通常よりもダメージの蓄積はどうしても大きくなる。

 今までも、吐血したことは度々あったが、今回のように大量に血を吐いたのは初めてだ。

(急がなければ・・・)

 シャワーのお湯で流されていく赤い血を眺めながら、鬼神は復讐への決意を新たにした。


 ジャフェスは、一人で瞑想していた。

 彼にとっては、夜に行う瞑想が日課となっている。姿勢を正し、呼吸を整え、雑念を捨てる。『ノア』からは、自己を見つめろと指示されているが、たいていは子供の頃のことを思い出すだけだった。

 ジャフェスは、物心がついた頃には『ノア』に仕える身となっていた。両親が誰なのかは知っていたが、親らしいことなど何もしてもらえなかった。毎日が修行の日々であり、常に『ノア』と行動をともにしていた。

 『ノア』の指導は厳しかった。瞑想がきちんとできなければ、鞭で打たれた。『ノア』はいつも、ジャフェスを鞭打つと、今度は自分の背中に激しく打ち付けた。

「弟子の失態は、指導者の罪でもある。私も、その罪を拭わなければならない」

 なぜ、自分を鞭打つのか聞いた時、『ノア』はそう答えた。

 反抗期のときもあった。『ノア』に歯向かうことはできなかったが、その矛先は信者に向けられた。

 しかし、なぜか厳しく罰せられることはなかった。『ノア』を含めてだれも何も言わず、ジャフェスは傍若無人に振る舞うようになった。

 そして、ジャフェスは信者の一人をレイプした。実際には信者ではなく、信者の子供で、まだ10歳くらいの女の子だった。そのとき、ジャフェスは自分の性癖を知った。何をされるのか分からず、ただ怯えるだけの表情を見るときの胸の高まり、力で弱者を征服するときの優越感、そして甘美で刺激的な快楽。このときの体験は、ジャフェスにとって今でも忘れられない。

 この行為に対して、『ノア』は今までにない怒りをジャフェスにぶつけた。ジャフェスは三日三晩の間、逆さに吊り下げられ、スパイクの付いた鉄製の鞭で打たれた。体中の皮膚が破れ、肉がむき出しになっても、折檻は続けられた。それが終わると手足の骨を砕かれ、地面に放置される。定期的に塩水を掛けられ、傷みに眠ることもできない。食事は与えられず、どこから汲んできたのか分からない泥水を啜ることしか許されなかった。

「お許しを。お願いします」

 何度、請うたか記憶がない。

「お前が罪を償うためには、これでもまだ生温い。さらなる苦痛がお前を待っているものと覚悟せよ」

 その時、子供の頃に感じていた『ノア』への畏敬の念が蘇った。いや、その時よりも強く、ジャフェスは『ノア』に恐れを抱いた。黒い目から放たれる圧倒的な圧力に、ジャフェスはただ怯えるばかりであった。

 『ノア』の言った通り、ジャフェスは折れた手足を円盤状の板に大の字につながれ、さらなる苦痛を与えられた。その円盤は回転し、その度に手足に負荷がかかる。あまりの激痛に、ジャフェスは悲鳴を上げることしかできなかった。何も食べていないはずなのに嘔吐し、流した涙で目を開けることもできない。

 永遠に続くと思われた責苦が終わり、ジャフェスはようやく解放された。しかし、破れた皮膚からの感染症で、しばらくは高熱に苦しめられた。また、このときの後遺症で、今でも左腕はあまり曲がらない。

 しばらくは『ノア』のことを恨んだ。しかし、後になって、信者の一人から驚くべきことを聞いたのである。

 ジャフェスが苦しめられている間ずっと、『ノア』もまた鞭で打たれていたのだ。しかも、食事をとることも拒否し続けていたのである。

「弟子の失態は、指導者の罪でもある。私も、その罪を拭わなければならない」

 子供の頃に『ノア』が発した言葉を思い出した。『ノア』は、今でもジャフェスを弟子として受け入れ、ともに苦痛と闘っていたのである。

 ジャフェスは、『ノア』を本当の父親のごとく慕うようになった。2度と同じ真似をしないと心に誓った。

 しかし、5年前、ジャフェスはこの誓いを破ってしまった。

 あの忘れられない甘い快楽に、自分の心が折れてしまったのである。


 『進化の選択』のアジトから連れ出した信者の数は45人だった。

 検査の結果、感染者は、あのスリーパーの男を含め6名。スリーパーを除く5名は全員、病院に収容された。スリーパーは、留置場にある牢の中にいる。スリーパーと言えども、決して破ることのできない丈夫な檻だ。

 残る39人のうち、11人は敵対的、27人は出られたことに安堵していた。その27人の中で、6人は自殺志願者、4人は興味本位でスラム街に入ったことを明かした。残りは、理由について語ろうとしない。

 あとの一人は哀れな拷問の犠牲者だ。今は病院で治療を受けていて、ショック状態が避けられれば、命はなんとか助かりそうだった。

 誰もが、スラム街の中で捕らえられ、あのアジトに監禁されたらしい。はじめは暗く狭い場所に閉じ込められ、やがて一日中、説教を聞かされる。特に、長老と周囲が呼んでいた男の説教は、低く、耳に心地よい声がまるで心の中を揺り動かすように感じられ、彼らの教義を半ば信じる気持ちになりかけたと言う。

「その、長老という男の特徴を覚えていますか?」

 マリーが尋ねてみるが、暗くてよく分からなかったと誰もが口を揃えて答えた。長老の横には、いつも背の高い男が立っていたそうだ。こちらも顔はよくわからなかったが、長老からはジャフェスと呼ばれていた。あのスリーパーの男はセムと呼ばれ、常に自分たちを監視していた。

 あの拷問が行われていた理由は、誰にもよく分からないらしい。彼女はあの祭壇へと連れ込まれた後、すぐに鉄柱に吊り下げられたそうだ。その後のことは、誰もが話したくないと言った。

 全員から話を聞き終えたときには、すでに夜が明けていた。これから、またスラム街に入らなければならない。

 しかし、アンドロイドには憂鬱な気持ちというものは存在しない。決められた業務を淡々とこなすだけだ。

 それでもマリーは、4人のハンターたちのことを心配していた。想像以上に過酷な業務だ。何か不調の兆しがあれば、すぐに対処するようにサポート役には伝えてある。マリー自身、鬼神の状態をきちんと見ておかねばならない。

 『ノア』を追い続けると断言した鬼神の顔を思い出した。もし、スラム街で『ノア』を見つけたら、鬼神がとる行動は明らかだ。そして、それを止めるべきなのか、マリーは判断ができずにいた。いや、答えは決まっている。しかし、それを別の思考がノイズのように割り込み、否定するのだ。今までにない感覚だった。いつもは、判定結果が確実であれば、それを採用するだけだ。何事も機械的に判断が下される。マリーは、自分が故障したのかと考えたが、自己診断結果は正常であることを示すだけだった。

 マリーは、それ以上考えることを止めた。これは、今回だけの話ではない。少し前から、何度も電子頭脳によって繰り返し実行されていた処理であった。

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