第16話 裁きの炎

 その部屋には、数多くの端末が並んでいた。

 端末の一つを眺めながら、男は穏やかな顔で

「ジャフェス、コーヒーを頼むよ」

 とつぶやくように言った。

 しばらくして、コーヒーの香りが漂ってきた。机に置かれたカップを手に取り、『ノア』はコーヒーを一口すすった。

「何を見ていらっしゃったのですか?」

 モニタの映像を見ながらジャフェスは『ノア』に尋ねた。

「アンドロイドの記録していた映像だよ。メンテナンス前の様子だ。実に興味深い。アンドロイドは自己管理できるはずだが、医者のような専属のアンドロイドが問診を行うのだ。ずっと昔からそうなのか、それとも学習の結果、アンドロイドが自発的にルールを改変したのか」

 モニタには、見知らぬ男が何か話をしている映像が映し出されていた。それを見ている『ノア』の顔は相変わらず穏やかな笑みを浮かべているが、黒曜石のように黒く光る目は笑っていなかった。

「映像がアンドロイドの記憶装置に残っていると、なぜ分かったのですか?」

「いや、知っていたわけではない。完全に記録を停止している可能性もゼロではなかった。しかし、過去の全記憶がなければ、アンドロイドは正しく再学習ができないはずだ。それなら、記憶装置には完全な記録が残っているのではないかと思ったんだよ」

「しかし、守秘義務があるのでは?」

「その通り。だから、頭を割らなければ決して見ることはできぬ」

 モニタには、たくさんのロボットアームが動いている様子が映し出されていた。メンテナンス作業が始まったのだろう。

「なぜ、アンドロイドは地上への抜け道があることを秘密に?」

「地上からの命令である可能性が最も高いな。地下都市の住人はひとり残らず、封じ込めておきたいのだろう」

「ならば、アンドロイドは地上と接触しているのではないですか?」

「残念ながら、地上との通信記録は残っていなかった。確かに腑に落ちぬ話だな」

 『ノア』は、人差し指を口に当て、何やら考えていた。

「地上は、どうなっているのだろうか」

 ポツリと、独り言のように『ノア』はつぶやいた。

「あなたは、外の世界に興味はないのですか?」

 ジャフェスが『ノア』に尋ねた。

「ないと言えば嘘になるな。しかし、私が地上へ出ることは許されぬだろう。この地を理想郷にすることが優先される」

「・・・ここにいる人間が全て感染したら、世界は地獄と化します」

「お前は地獄がどんなものか知っているのか?」

 ジャフェスは答えることができなかった。

「だが、私にとって、ここは地獄なのかもしれないな」

 『ノア』の黒い目が細くなり、不気味な笑顔を見せる。ジャフェスは、その目に吸い込まれるように魅入った。

「この地を、そして地上を裁きの炎で焼き尽くすのだ」

 『ノア』は厳しい顔になり、ジャフェスに向かって力強く言い放ったが、すぐに穏やかな顔に戻り

「そうすれば、私もお前も地獄から解放される」

 と口にすると、手に持ったカップのコーヒーを飲みながらモニタへ視線を戻した。

 その姿を、ジャフェスはただ見守っていた。


 昼下がりの暇な時間、鬼神はドナと将棋を指していた。

「これでどうですか?」

 ドナが、持ち駒の金将を打った。鬼神はしばらくの間、将棋盤を睨んでいたが、やがて

「くそっ、また負けだ」

 と、ため息をついた。

 ちょうどその時、電話の着信音が鳴り響き、鬼神は慌てて、ポケットから電話を取り出した。

「鬼神です」

 電話に話しかけると

「マリーです」

 と返ってきた。マリーが戻ってきたらしい。

「もう戻ってこれたんだな」

「修理だけですから、そんなに時間はかかりません。それより、監視カメラを解析して、『ノア』とジャフェスの顔の特徴に似た人物をいくつか捉えました。『ノア』については正直、自信がありませんが」

「それを確認してほしいということか?」

「その通りです。今から来てもらえますか?」

「俺一人でいいのか?」

「問題ありません。そちらにはドナがいますね。前もって連絡はしていましたが」

 鬼神がドナの顔を見る。

「マリーからですね。この勝負が終わったら伝えようと思っていたのですが」

 魅惑の笑顔でドナが弁解した。鬼神は、片手でわかったというような仕草をしながら

「じゃあ、今からそちらに向かうよ」

 と言って電話を切った。


「それでは、スクリーンに一枚ずつ画像を表示するので、似た人物が見つかったら声を掛けてください」

 マリーが鬼神に説明する。

「念のため聞くが、全て身元がわからない人物ばかりなんだよな」

「『ノア』に関してはそうです。ジャフェスは特に限定していませんが」

 鬼神はうなずいた。

「では、先に『ノア』のほうを見てみましょう」

 それから、スクリーンに画像が一枚ずつ表示された。どれも特徴のない、見て数秒経てば忘れてしまいそうな顔ばかりだ。そして、『ノア』に一致する顔は見当たらない。

「紫龍を追っていたときにエレベーターで会った『ノア』の顔は見つからないのか?」

「全く見つかりません。そして、スラム街で会った『ノア』も見つからない。彼はどこへ行ったんでしょうか?」

「まだ、スラム街に潜んでいる可能性は?」

「ゼロではありません」

「そいつが一番濃厚なんじゃないか? 今頃、料理人たちは食材を他の場所へ運んでいるぜ」

「結論を出す前に、次はジャフェスの顔写真です」

 再び、スクリーンに画像が映し出される。大柄な男が次々と現れるが、似た人物は出てこない。

「これが最後の画像です」

「これも違うな。くそっ、やはりスラム街に潜んでいるに違いない」

「では、車の呼び出しはフェイクだったと?」

 マリーの言葉を聞いて、鬼神は椅子の背もたれに寄りかかり、上を見上げた。

「『ノア』には、ジャフェス以外にも取り巻きがいた。他の連中が車を使った可能性はあるが」

 鬼神の話に、マリーはうなずくだけだった。


「スラム街の捜索に参加することになった」

 鬼神は、リズミカルに野菜を刻んでいたドナに話しかけた。ドナの横で、麻子がリンゴの皮を剥いている。少し前から、夕食はいっしょに作るようになったのだ。

「マリーから連絡は受けています。明後日からでしたね」

「ああ。謹慎が解けたわけだから、君もここから解放されるというわけだ」

「あら、麻子ちゃんがここにいる間は離れるつもりはありませんわ」

 2人並んで料理を作る姿を眺めながら

「本当の親子みたいだな」

 と鬼神は思わず口にした。

「そう言っていただけると嬉しいわ」

 ドナは麻子を見て笑った。麻子は、照れくさそうな顔でリンゴの皮むきに専念している。

「まあ、食事の方も助かってるし、これからどうするかは、すぐに決める必要はないさ。それより、明後日からしばらくは帰りが遅くなるから、夕食は先に食べておいてくれ」

「了解しました」

 リンゴを切り分けて皿に盛り付けた麻子は、鬼神の方を向いて

「今日は、パスタの上手な作り方を教えてもらったの」

 と嬉しそうだ。麻子の顔に笑顔が戻ったのはドナのおかげだろう。鬼神はそう感じていた。

「じゃあ、今日の夕食はパスタかい?」

「ええ、トマトパスタに挑戦よ」

「了解。じゃあ、楽しみにしてるよ」

 鬼神は、笑みを浮かべながら食堂を去っていった。


「へえ、これはうまそうだ」

 真っ白な皿の中で、赤いトマトのソースに、バジルの緑が鮮やかに映える。その横にはチキンソテーにサラダ、ポタージュスープが並ぶ。

「パスタとチキンソテーは麻子ちゃんが作ったのよ」

 鬼神がパスタをひとくち食べる姿を、麻子はじっと見守っていた。

「トマトパスタは俺も作ったことがあるけど、ここまでおいしくはできないな。深いコクがあるというか、表現が難しいな」

「隠し味に、あるものを入れてあるんです。何だと思いますか?」

 鬼神は、もうひとくち食べてから、しばらく考えていたが

「降参だ。わからない」

 と両手を挙げた。

「味噌を入れたんです。ドナさんが、おいしくなるからって」

「へえ、ずいぶんと味が変わるもんだな」

 感心する鬼神に笑顔を向ける麻子を見て、しかし、鬼神は複雑な心境であった。

 どうしても、自分の娘であった咲紀の姿と重ねてしまうのである。長く一緒にいればそれだけ、娘のことを嫌でも思い出してしまう。

 咲紀が生前、手料理を振る舞ってくれたことがあった。母親からレシピを教えてもらい、懸命に作ったグラタンは、ホワイトソースが少し焦げてしまい、本人は納得していなかったようだ。

 しかし、鬼神にとっては忘れることのできない食事であった。目の前にはグラタンにガーリックトースト、色鮮やかなサラダが並ぶ。明日香と咲紀、2人が顔を見合わせて笑っていた。

「でも、初めてにしては上出来でしょ?」

 咲紀が鬼神に尋ねる。

「そうね。今度はもっと上手にできるわ」

 明日香が横で言い添える。

「じゃあ、次も俺は実験台にされるのか?」

 鬼神の言葉に

「ひどい! もう作ってあげないから」

 と咲紀がふくれっ面をした。

 何気ない家族の団らん。しかし、一緒に食事できるのは月に一度あるかどうか。それでも、楽しいひとときを3人で過ごすだけで、家族の絆を感じることができた。

 今は、もう、それもできなくなった。

「鬼神さん、どうしました?」

 麻子の問いかけに、鬼神は我に返った。

「いや、すまない。ちょっと昔のことを思い出していてね」

 麻子は、その言葉を聞いて、少しためらいながらも

「あの・・・部屋でトロフィーが飾ってあるのを見て、咲紀さんという名前があったんですけど、もしかして娘さんですか?」

 と質問してみた。

「ええ、そうです」

「今は、離れて暮らしているんですね」

 鬼神は、少し迷ったが

「いや、娘は亡くなりました」

 と正直に答えた。

「えっ? ごめんなさい、変なことを聞いてしまって・・・」

「いや、気にしなくていいですよ。妻も娘も亡くなって、今は独り身です」

「そうだったんですね」

 2人とも、それ以上会話を続けることができなくなった。無言のまま、食事は進む。

「明日は学校が休みなので、麻子ちゃんと一緒に自宅の様子を見に行くことにしました」

 ドナが沈黙を破った。

「なにか忘れ物でも?」

 鬼神が尋ねる。

「いえ、どんな状態なのかちょっと心配で」

 麻子はチキンソテーをナイフで切りながら答えた。

 鬼神は、思案顔で麻子の様子を見ていたが、やがて

「明日は昼から警察に行く予定です。明後日の捜索の準備でね。午前中だったら空いているから、俺も付いていきましょう」

 と切り出した。

「でも、これから忙しくなるのに。大丈夫です。ドナさんも一緒ですし」

「世の中には、いろんな人がいる。ただのいたずらで済めばいいが、明らかに危害を加えようとする輩だっている。ボディーガードは多いほうがいい」

「私もそう思います。鬼神さんがいればかなり安心できますわ」

 ドナも同意した。

「じゃあ、お言葉に甘えて、よろしくお願いします」

 麻子は鬼神に頭を下げた。


 エレベーターを降りた麻子は、鬼神とドナを連れて我が家へと向かった。

 ドアにまた貼り紙があるのではと心配していたが、それは杞憂に終わった。

 ロックを解除して、部屋の中へと入る。廊下のライトが自動的に点灯して明るくなっても、麻子にはなぜか、そこが住人を失った空き家のように見えた。

「家のほうは、異常なしのようね」

 家の中を見回しながら、ドナがポツリとつぶやいた。

「あら、紫龍さん、戻ってきたの?」

 まだ外にいた鬼神が中へ入ろうとしたとき、背後から男の声が聞こえた。

「あっ、この間はどうもありがとうございました」

 男に気づいた麻子が頭を下げた。

「あらっ、私は何もしてないわよ。今度は、この前とは別の方が面倒を見てくれているようね」

 笑みを浮かべて男は言葉を続けた。

「でも、まだ戻らないほうがいいわよ。昨日も、怪しい男があたりをうろついていたし。あなた、かわいいから、ストーカーなんかにも狙われやすいわよ」

「まだしばらくは、ここには戻らないつもりです。でも、いつかは戻らなくちゃならないから、そのときは、こちらのドナさんに助けてもらおうかと」

 ドナが男へ笑顔を振りまいた。

「私の名前はドナといいます。麻子ちゃんのサポートをしています。できれば、ここで一緒に住むようにしたいと思っていますわ」

「それなら心強いわね。なんだか、あなた達を見ていると家族に見えるわ」

 その言葉は、鬼神にとっても、麻子にとっても少し嬉しかった。そして、ドナ自身も嬉しいという感情を持ったらしく

「そう言ってもらえるとすごく嬉しいわ。私は、麻子ちゃんの母親代わりになれたらと思っているの」

 と応えた。

「いい人たちに巡り会えたわね。これならきっと心配はいらないわ。心の準備ができたら戻ってらっしゃい。そしたらいっしょにパーティーでもしましょう」

 そう言って、男は去っていった。


「リングケースはどこにありますか?」

 鬼神が麻子に尋ねた。

「こちらの部屋です」

 紫龍匠が使っていた部屋の机の上にリングケースがある。麻子がそれを手にとった。

「中を開けてみてください」

 鬼神に促されるままに蓋を開けると、中には緑青色の石がついた指輪がある。

「その指輪は、お父さんが君に託した指輪だが、何の指輪なのかは聞くことができなかった」

 麻子は、指輪を右手の中指にはめてみた。石は綺麗にカットされ、光に透かすと鮮やかな青色に変化する。

「すごくきれい・・・」

「大事にするといい。ところで、例のチップはあるかい?」

 麻子は、リングケースをもう一度開けた。

「これですね」

「見せてくれないか?」

 鬼神が麻子に近づいて、リングケースの中を覗いた。

 そこには金色の小さなチップが入っていた。

「これをどうやって使うんですか?」

「それについては後日話そう。大事にしまっておいて下さい」

 ドナが近くにいるのを見て、鬼神はこの場で説明するのを避けた。

「麻子ちゃん、おろし器がないって言ってなかった?」

 ドナが麻子に話しかけた。

「そうでした、確かこちらに・・・」

 そう言って2人はキッチンへと進んでいった。


 全てが純白で覆われた部屋の中、モーツァルトの『レクイエム』が響き渡る。

 『ノア』は椅子に座り、まるで眠っているかのように目を閉じていた。

「紫龍麻子は今日も家には戻っていませんでした」

 茶色い毛糸の帽子を目深にかぶった男が、『ノア』に静かに告げた。

「そうか・・・まだ、しばらくは戻ってこないだろう」

 『ノア』はまるで天を仰ぐように上を向き、大きなため息をついた。

「紫龍は、どこにいるのでしょうか?」

 横にいたジャフェスが尋ねる。

「どこにいるのかは問題ではない。あのハンターと接触することが重要なのだ」

「その時は来るのでしょうか?」

「必ず、その時は訪れるだろう。それが運命なのだ」

 『ノア』の目が怪しい光を放つ。この真っ白な部屋の中で、『ノア』の目がまるでブラックホールとなって、全ての光を吸い込んでいるかのようにジャフェスは感じた。

 『ノア』は紛れもなく天才であった。基幹システムに侵入してデータを書き換えたのは『ノア』である。かつては量子コンピューターを扱う非常に優秀なエンジニアであった。しかし、ある事故が原因で『ノア』は退職した。

 事故の後、『ノア』は不思議な力を得るようになった。『ノア』は、未来が見通せるようになったのだ。それは幼少の頃から備わっていたのかも知れないし、大人になってから得られたのかも知れない。しかし、その能力に気づいたのは事故がきっかけだった。

 全てを見通せるわけではない。しかし、見えたことは必ず起こる。それがいいことであっても、悪いことであっても。

「いや、すでに紫龍麻子はハンターと接しておる。おそらく、あのチップも見つかったな」

 『ノア』が立ち上がった。

「そのまま、地上を目指してくれればいいが、そうはならぬだろうな」

「なぜですか?」

「あのハンターは、私を罪人として裁くだろう。それまでは、行動を起こすことはない」

「長老よ、あなたは犠牲となるおつもりか?」

「燃える灰の中、私は蘇るのだ」

 『ノア』の言葉を聞いて、ジャフェスは息を呑んだ。

「紫龍とハンターが楽園へと旅立った後、怒りの日がやって来る」

 手を広げ、上を仰いで目を閉じる『ノア』の姿は、石でできた彫刻のように見えた。

「世界は破壊され、灰となるだろう」

 『ノア』の言葉に、ジャフェスは言い表すことのできない恐怖を感じた。

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