第14話 アトラスの重荷

 鬼神は、マリーの尋問からようやく逃れることができた。

 いったん解放され、廊下に置かれたソファのひとつに腰掛ける。ジャフェスという男を外に追い出した後、一人になった『ノア』を始末するチャンスはあった。しかし、相手の話に気を取られ、それをふいにしてしまった。鬼神には、それが悔やまれて仕方がない。もう、『ノア』と接触できる機会はないかも知れない。そんな気がした。

 無意識にポケットを探り、その中の電話を手にした。電源を切っていたことを思い出して電源を入れると、不在着信の履歴が並んでいた。そのほとんどがマリーからであったが、ひとつ、名前の登録されていない番号がある。過去の着信履歴を見ると一件だけ同じ番号があった。鬼神はそれを見て、相手が麻子であることに気づいた。

 電話をかけようかと考えた瞬間に着信音が鳴り響き、鬼神は驚いて電話を落としそうになった。番号を見ると、奇しくも麻子からである。

「もしもし、鬼神さんですか?」

「麻子さんですね。すみません、しばらく電話に出ることができませんでした」

「いえ、あの、今は大丈夫ですか?」

 麻子からの話を最後まで聞いて、鬼神は天井を見上げ、深く息を吸い込んだ。

「話は分かりました。家のほうは自由に使ってもらって構わない。ハンターは要請がない限りは自由だから、外出時には護衛も引き受けましょう。ただ、出動要請があったときは、そちらを優先しなければならないのは承知しておいてください」

「それなら、普段は学校があって家にいることが多いから大丈夫です。外出のときも、メガネやマスクで顔を隠せばたぶん大丈夫だし」

「OK。じゃあ、もう少し家で待っていてください。できるだけ早く向かうようにしますから」

「あっ、今は家じゃないんです。セーラム通信という会社にいるんです」

「セーラム通信?」

 鬼神は、予期せぬ言葉に面食らった。


 電話を切った麻子は、彩の唖然とした顔を見て

「どうしたんですか?」

 と不安げに尋ねた。

 彩はその声に、あわてて視線を麻子へと戻した。

「あっ、いや、なんでもないの。それより、OKがもらえたようね。それじゃあ、いったん家まで戻りましょうか。荷物を用意しなければならないでしょ。私もついていくわ」

「でも、仕事はいいんですか?」

「まあ、なんとかなるわよ。ひとりじゃ危険でしょ?」

「ありがとうございます」

 そう言って頭を下げる麻子の姿を見て、彩は母性本能がくすぐられる気がした。


 取調室の中で、竜崎と浜本はひとりの女性を前に腕を組んで相対していた。

「どうして、アンドロイドたちを襲ったんだ? お前も自分の身を守るためか?」

 女性はうつむいて黙ったままだ。スラム街で暮らしていたにしては、身なりは清潔だった。薄いグレーのスウェットワンピースを着て、栗色の髪はショートヘアーにしている。

「それでは、冷蔵室にあった大量の死体については何か知ってるのか?」

 女性が顔を上げた。何かを言いたいのか、口をパクパクさせた。

「どうした? 何か言いたいのか?」

「あれをどうしたんですか?」

 女性が初めて言葉を発した。

「身元を調べるため、ここまで運ばれるだろう。かなりの数があるらしいから大変な作業になるな」

 竜崎は正直に女性へ話して聞かせた。

「あれは私達の糧。私達を餓死させる気ですか?」

 竜崎は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「お前たちは人間を食料にしていたということだな」

「体内に取り込むことで、その者は新たな血肉となり、私達といっしょに進化するのです。素晴らしいことではありませんか?」

「本気でそう思っているのか? 言っておくが、お前たちは殺人を犯したことになる。しかも大量にだ。今の刑法じゃ死刑は廃止されているが、一生外へは出られないと覚悟しておいたほうがいい」

「私達は、人を救うために活動しているだけです。悪いことは何もしていない」

「そういう説明は裁判員にするんだな。ここでは俺の質問に正直に答えてくれ。何人殺した?」

「私は人を殺してはいません。救っただけです」

「質問を変えよう。何人救ったんだ?」

「・・・6人です」

「その6人はどうなったんだ?」

「私達の糧となりました」


 逮捕された23人の中で、『進化の選択』の信者は4人いた。その他は信者ではないが、善良な市民とはかけ離れた危険な連中だ。しばらくの間は勾留され、余罪を追求されることになる。

 『進化の選択』の信者たちは、自分たちに何の罪もなく、むしろ人のために活動しているのだと本気で信じていた。誰に師事しているのかという問いには、口をそろえて『長老』と言うだけで、名前を明かそうとはしない。もしくは、名前を本当に知らないのかもしれない。

 人は、自分の体内に取り込むことで再生されると考えているらしい。どういう過程を経て、そのような考えに至ったのかは謎だ。長老と呼ばれるその者が、よほど口が達者なのか、または洗脳されているのか、それも定かではない。一つはっきりしていることがある。4人は人を殺している。そして、その肉を食べている。

「まさに無法地帯ですね」

 浜本が、手で自分の額を軽くなでながら、うんざりしたような声で言った。

「異常だよ。こんなのは初めてだ」

 竜崎が相槌を打つ。

「どうして、こんな状態で放置してきたんでしょうかね」

「言っただろ。誰も文句を言わなければ、何もしないんだよ、お偉い連中は」

「でも、こんな閉鎖した世界で、行方不明者は毎月のように現れるし、逮捕されない犯罪者もたくさんいるでしょう。あのスラム街にいることは公然の事実じゃないですか」

「臭いものに蓋をするってことさ。蓋を開けなきゃ誰も困らない。しかし今回のことで、さすがにお偉方も動くんじゃないか?」

「マスコミも嗅ぎつけるでしょうね」

「それが一番厄介だな」

 竜崎は腕を頭の後ろで組んで椅子にもたれかかった。

「そう言えば、マリーは修理に向かったんですか?」

「ああ、さっき会ったよ。今から行ってくるって言ってた」

「時間がかかりそうですかね?」

「寂しいのか?」

 竜崎がニヤリと笑うのを見て

「変なこと言わないでくださいよ」

 と浜本が返す。

「大事なお肌が傷つけられたんだ。それなりに時間がかかるんじゃないか」

 適当な返答を聞いた浜本が

「マリーがいなくて困るのは竜崎さんですよ。日報も自分で書かなきゃならない」

 と反撃した。

「嫌なことを思い出させやがって」

 竜崎は両手で顔を覆った。


 鬼神が、『ノア』とジャフェスの人相を尋ねられた時、ジャフェスについてはすぐに答えることができた。四角くエラの張った顔に、丸い大きな目。黒目が小さく、まるで野生の獣のようだった。ウェーブのかかったグレーの髪を長く伸ばし、異常に大きな口には赤黒く分厚い唇が存在感を放っている。かなりがっしりした体格で、鬼神よりひとまわり大きい。

 しかし『ノア』の話になると、特徴が何も思い出せない。唯一の特徴は、狂気を孕んだ真っ黒な目であった。その印象が強烈過ぎて、他の特徴がかすれてしまったのかも知れない。

「そう言えば、『ノア』に会ったのはスラム街だけではないんだ。その前に、F-2エリアの『カグヤ』にある『ムートン』というバーにもいた。その時は、そいつが『ノア』だとは気づいていなかったが」

「それは、いつの事ですか?」

「6月3日の夜だ。もしかしたら、監視カメラに映っているかもしれんな」

「分かりました。バー『ムートン』ですね。その近辺を重点的に探してみましょう」

 そう言って、マリーの代理で尋問することになったアンドロイドはタブレットを操作し始めた。

「スラム街にある『ノア』のアジトの場所はいいのか?」

 鬼神が、アンドロイドに尋ねると

「『アベル』という店の場所は、ドローンを使って場所を特定しています。かなり派手な外観でしたから、簡単に見つかりましたよ」

 と少し笑みを浮かべた顔で答えた。短髪だが、顔は女性的であり、性別がどちらなのか判別できない。もっとも、アンドロイドには性別などないのであるが。

「じゃあ、冷蔵室も把握済みだな?」

「ええ、『アベル』と冷蔵室の位置関係は鬼神さんに教えてもらいましたから」

「あの死体はどうするんだ?」

「ここまで運んで身元を確認する予定です」

 それを聞いた鬼神は

「まだ、連中はスラム街の中にいるんじゃないか? 阻止しようとするぜ」

 と忠告した。

「その危険はあります。もしくは死体を他の場所に隠すこともあり得るでしょう」

 アンドロイドの方は、そのことは想定内であるようだ。

「次はいつスラム街へ出発するんだ?」

「マリーが戻り次第、決めることになります」

「それじゃあ、少し先になりそうだな」

「それまでは『ノア』とジャフェスを追跡します。マリーがスラム街に到着する前に、C-3エリアの3フロアへ車の呼び出しがあった記録が残っています。ちょうどスラム街への入り口のある付近です。行き先はD-6エリアの商業スペースでした。おそらく、そこで別の車に乗り換えたのでしょう。しかし、商業スペースは監視カメラが多いですから、きっとどこかで姿が映っているはずです。ジャフェスはスリーパーだったのですね」

「そうだ」

「では、スリーパーのリストから似た人物がいないか検索してみます。もしいなければ、対象を広げて調べてみるしかありませんね。候補はたくさん現れると思いますから、ひとりずつ鬼神さんにチェックしてもらうことになります」

 鬼神はため息をついた。

「面倒な仕事だな」

「しかし、『ノア』の方が大変ですよ。エレベーターの監視カメラに映っていた人物と、鬼神さんがスラム街であった人物が、顔が異なるわけですから」

「監視カメラの『ノア』は一致する顔が見つからなかったんだ。おそらく変装していたのだろう」

「同一人物であるというのが嘘だったという可能性もあります」

 鬼神は、2人の『ノア』の顔を思い返していた。どちらも平凡で穏やかな顔つきだ。しかし、顔が異なるのは明らかだった。ただ、蛇の目のような黒目だけが共通していた。

「俺は、同一人物だと信じるよ」

 鬼神はそうつぶやいた。


 金属製の巨大なボックスがいくつも並んでいる中を、マリーはひとり歩いていた。

 ボックスに見えるのは何かの機械であろうが、今は全く動いていない。あたりは静まり返っていた。人がいる気配もなく、完全に無人の場所らしい。

 天井までの高さは10mほどだろうか。たくさんのダクトやパイプが張り巡らされ、その間にあるライトがかろうじて地面を照らしていた。

 床はコンクリート製で、赤いラインがまっすぐに引かれていた。ライトの灯りもそのラインに沿って光の帯を作り出す。その両側は暗くて様子はほとんど分からない。

 周りの景色に色彩はほとんどなく、赤のラインだけが際立って目立つ。女性がひとりで歩くには勇気がいるような場所だ。なにか得体のしれないものが潜んでいても不思議ではないように見える。

 しかし、マリーは表情を変えることなく、すたすたと歩いていく。その影が消えては現れ、マリーとともに移動していく。

 マリーの行く先に、2人の男が立っていた。マリーの姿に気がついた2人は、行く手を遮るように並んでマリーの到着を待った。

「マリーか? まだメンテナンスの時期ではないはずだが」

 男のうちの一人が尋ねた。

「勤務中に銃弾を受けて冷却ユニットが破壊された。修理に向かうつもりだ」

 抑揚のない声でマリーが答える。

「お前もか? 昨日の夜に機能停止したアンドロイドが5人担がれてきたぞ。スラム街の調査だと聞いたが、そんなに危険な場所だったのか?」

「私を含めて12名が負傷した。それらも来ているはずだが」

「ああ、来たよ。ということはお前が最後なのか?」

「そうだ。片付けなければならない作業が残っていたからな」

「わかったよ、じゃあ気をつけて」

「ありがとう」

 マリーは2人に別れを告げて先へと進んだ。

 やがて、見えてきたのは大きな金属製の扉が付いた小屋だ。扉の上側についた読み取り機が赤いレーザー光を照射している。マリーは、その光が額の中央に当たるように顔を上に向けた。

 扉がゆっくりと開いた。その扉は分厚く、しかも三重構造だ。中から明るい光が漏れる。マリーはその中へと入っていった。

 扉が閉じ、あたりはまた静かになった。


 鬼神は、しばらく謹慎処分となった。『ノア』やジャフェスに似た人物の候補が得られるまでの間は、自宅で待機しなければならない。

「アンドロイドを一体、派遣します。許可が下りるまでは監視下にあることを忘れないでください」

「訳あって、スリーパーを一人、預かることになった。それは問題ないな?」

「それは誰ですか?」

「紫龍匠の娘だ。顔写真や住所がばらまかれたらしい。家にいては危険だと判断した」

「・・・それはひどい。分かりました。問題はありません」

 警察を出て、車に乗り込む。行き先はセーラム通信だ。

 これからどうするか、鬼神は考えていた。しばらく家から出ることはできない。しかもアンドロイドの監視付きである。その間に、監視カメラの画像を解析して『ノア』とジャフェスを見つけようとするだろう。『ノア』は簡単には見つからない。しかし、ジャフェスは別だ。ジャフェスを捕らえることができれば『ノア』の居場所も分かるかも知れない。

 問題はその後だった。『ノア』が逮捕されれば、最も重い刑でも無期懲役だ。鬼神は、その前に自分の手で『ノア』を始末したかった。この5年間、全く手掛かりのない状態からようやく糸口がつかめたのである。このチャンスを失いたくはなかった。

 胸のポケットから小さく折りたたまれたシートを取り出し、それを開いた。写真の中で、妻と娘が微笑んでいる。この写真を撮ってから一ヶ月後、鬼神は2人を失った。それから5年の間、鬼神は、2人の命を奪った相手に復讐することだけを考えていた。

 そのとき、ふと『ノア』の言葉を思い出した。

(リングケース・・・)

 鬼神は電話を取り出しタップした。耳にあててしばらく待つ。

「もしもし、紫龍です」

「鬼神です。今、セーラム通信へ向かっています。準備の方はどうですか?」

「はい、大丈夫です。それでは、ロビーで待っていますね」

「ところで麻子さん、お父さんから受け取ったリングケースは持っていますか?」

「リングケース? ・・・いや、家に置いてあります」

「そうですか・・・中はご覧になりましたか?」

「一度だけ見ましたが、あのケースが何か?」

「詳細は直接お話します。家に置いてあるのなら安心だ。それでは後ほど」

 鬼神は、電話を切り、大きなため息をついた。


 車が停まり、ドアが開く。中から、鬼神が降りてきた。目の前にあるのはセーラム通信への入り口だ。

 一階はガラス張りで、ロビーの様子を外側からも見ることができた。麻子がソファに座っているのに気づき、鬼神はドアから中へと入った。

 麻子の隣にもうひとり、十代くらいの女性が座っている。鬼神が2人に近づくと

「鬼神さん、お久しぶりです」

 と女性の方が先に挨拶をした。

「えーっと、すみません。どちら様でしたか?」

 鬼神が女性に尋ねた。

「忘れてらっしゃるかも知れませんが、葉月彩です。昔、木魂明日香さんにお世話になっていたのですが」

「葉月さん? そういえば、一度会社のパーティーでお会いしましたね」

「覚えて下さっていたのですね」

 彩は目を輝かせながら嬉しそうに鬼神の顔を見た。

「お知り合いだったのですか?」

 麻子はびっくりして彩に尋ねた。

「一度だけお会いしたことがあって・・・ちょうど私がここに入社したときにね」

「しかし、どうして麻子さんはセーラム通信に?」

 今度は鬼神が彩に尋ねた。

「お知り合いになったんです。ここでモデルでもしてもらおうかと思っていたんだけど、今は無理そうですね」

 彩の言葉に、麻子が

「マスコミに追い掛けられたり、顔や家の住所が拡散されて、困っていたところを彩さんに助けてもらったんです」

 と補足した。

「なるほど・・・大変だったね」

「それにしても、一体誰が投稿したのかしら。悪質ね」

 彩は憤慨していた。

「たぶん、近所の人だと思います。私のことを知っているし、近くにスリーパーがいることを快くは思っていないでしょうから」

 麻子の言葉には棘があった。普段から周囲の者とはうまくいっていないのだろう。2人は、何も返すことができなかった。

「えーっと、荷物はそれだね」

 重い空気に耐えかねたのか、鬼神が話題を変えた。麻子の横にあった、大きめのスーツケースを指差す。

「はい、これだけです」

「今すぐ出発するかい?」

「私はいつでも大丈夫です」

「私も一緒に行きます」

 彩が慌てて口にする。

「でも、お仕事が・・・」

「それなら大丈夫。急ぎの仕事はないから」

「一緒に来ても特にすることはないと思うが」

 鬼神が、至極当然のことを言った。

「いや、えっと・・・」

 彩が言葉に詰まった。

「心配してくれるのはすごく嬉しいのですが、いつまでも甘えているわけにはいきませんから。学校のない時に、また遊びに来ます」

「そう・・・分かったわ」

 彩は、ため息をついた。


 車の中で、鬼神と麻子は相対して座っていた。

 しばらくの間、2人とも黙ったままだった。その沈黙を破ったのは鬼神の方だ。

「お父さんからもらったリングケースは、一度だけ中を見たのでしたね」

「はい」

 麻子は、鬼神へ視線を移して大きくうなずいた。

「その中に、基板のようなものは入っていませんでしたか?」

「ありました」

「それは、アンドロイドの額に埋め込まれたチップだそうです」

「チップ? それを得るために、父はあんなことを?」

「そこまでは分かりません。しかし、そのチップが、この閉鎖された世界から外に出る鍵になるらしい」

「外に出られる?」

「お父さんは、あなたを外の世界へ連れ出したくて、あんな事件を起こしたのかもしれません」

 鬼神の話を聞いて、麻子は悲しげな顔で、自分の膝の上にある手をじっと見つめた。

「あなたは、もし可能なら、外へ出たいと思いますか?」

 鬼神の問いかけにも、麻子は身動きひとつしなかった。

 どちらも、それ以上は話すのを止めた。

「間もなく目的地です」

 ナビゲーターの声を聞いて鬼神が外を見た時、麻子が不意に話し始めた。

「私は、この場所で生きていくことが、つらい」

 虚をつかれたような顔で鬼神は麻子の顔を見た。麻子は、まっすぐ鬼神の顔を見据えている。

「もし叶うなら、ここから、逃げ出したい」

 麻子の言葉に、鬼神は悲壮な決意を感じた。

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