拝啓〜終末の果てで待つ私へ〜

アオピーナ

『追憶の少女』

『拝啓〜終末の果てで待つ私へ〜』


 極寒の大地に吹きつける吹雪が、少女の頬を痛めつける。

 一面に広がる白銀の絨毯とカーテンは、程なくして世の全てを覆い尽くしてしまうことだろう。


 地球は青かった。それはもう、過去の記憶だ。

 白亜が支配するこの星は、間も無く終末の鐘を鳴らす。その果てに未来は無く、希望の灯火一つさえ、吹雪と共に消え去った。 


 それでも、少女──シオンは、前へ進む。 

 世界を覆う終焉と同じ色の髪を靡かせる、小柄な少女。  

 深い色のコートの袖から、小さく赤らんだ手が覗く。

 その手が握り締めるのは、一通の手紙。

 ただ何気なく、誰に宛てるでもなく綴った、宛先不明の紙切れだ。


 だが、シオンは一つの決意を胸に宿し、重く冷たい身体を引き摺って、前へ進む。

 唸るような風音が耳朶に響き、思わず身を竦める。首筋はズキズキ痛み、手足は今にも捥げそうだ。


 このまま倒れてしまえば、あとは眠るだけ。けれど、それはシオンの決意に──『願い』に反する結末だ。

 そんな最期は、絶対にあってはならない。

 あっては、ならないのだ。


「──なあ、あんた。大丈夫か?」


 不意に、声がした。

 聞こえる筈が無い、男の──生きた人間の声だった。

 吹雪が目に入って、緩慢とした──本人としては慌てた──動作で目を擦る。


「おい、大丈夫かと聞いているんだ。そんなに青白くなって……」


 気が付くと、身体が引き摺っていた重さは、少しばかり軽くなっていた。

 腕や肩、脇腹に感じる感触。懐かしい、人の温もり。


「おにい、ちゃん……? お兄ちゃんなの?」


 脳裏をよぎったのは、自分より丈のある大きな兄の背中。歩けなくなった時、兄はいつもおぶってくれた。  

 その思い出はもう、とうに白い悪魔が奪い去っていったが。


「悪いが、俺はお前の兄では……って、おい、お前……もしかして、泣いてるのか?」


「泣いてなんか、ない」


 重い手で、ぼやけた視界を隠す。そして、目を擦る。けれど、手袋に付いた細かな結晶が目に入り、結局また目を擦る羽目になった。


「泣くのは勝手だ。だが、あまり目を擦って傷つけるな。……真っ暗な暗闇よりも、真っ白な白夜の方がまだマシだろ」


 男が言ったその言葉は、今のシオンにとって、心強く──それでいて儚く響いた。


「ありがとう……」


「……どういたしまして、なんて言えるようなことを言ったつもりはねぇよ。ほら、行こうぜ」


 そう言って、男は手を差し伸べた。

 その容貌は、とても兄に似ていた。短い黒髪に、鋭い目付き。けれど、その奥には優しさが滲んで見えて。


「うん、行こう……」


 シオンと少年は手をとりあって、終わりの見えない、終わりの道を進んでいく。



 男、というより、少年と言った方が正しい。

 彼の名は遥歩あゆむと言うらしい。

 遥か遠くに歩んでいくと書いて遥歩──何てロマンチックな名前なのだろう、とシオンは感嘆した。


「感嘆に浸れる気力があるのなら、是非、ご自分の力で歩いてくれ」


「そ、それとこれとはまた別だよ」


 遥歩は、シオンを手伝ってくれるらしい。

 自分にはこれといった目的が無いから、どうせこのまま終わるのなら、誰かの手助けをしてから終わりたい──と。

 シオンは、それを聞いて素直に「凄い」と思った。終わりが迫っているからこそ、人間というのは己の欲望を優先してしまうものなのだ。

 それを、本人に言ってみれば、


「無欲なだけだ。自分が何を求めているのかすらわかっていない、ただ無為を貪るだけのつまらない奴なんだよ。俺は」


 そう、自分を卑下するだけだった。

 やがて、雪景色に一つ、大きな陰影を見つけた。


「おい、この先に街があるぞ。もっとも、賑わっているかどうかは期待できねぇがな」


「……行ってみよう」


 シオンと遥歩は、果ての中途に構える生の足跡を見に、進んでいく。



 木組みと石畳の街は、白と静寂に塗り潰されていた。

 半壊した建物には、家具や商品が散乱していた。

 ここでもまた、命が消えた跡を見た。


「皆、居なくなっちゃったのかな……」


 立ち尽くして、力無く呟くシオン。遥歩は彼女の肩にそっと手を乗せ、「今日はもう、休もう」と優しく言ったのだった。

 二人は宿だった建物を見つけ、二人部屋に入ってベッドに倒れ込んだ。

 雪は払わなくとも、既に毛布が雪塗れなのだから問題は無かった。

「なあ」と遥歩が聞いた。


「男と二人、そんな無防備で良いのか?」


 その問いに、シオンはきょとんした顔で、


「だって、お兄さんにわたしを襲う気力は無いでしょ?」


 何を今更、といった口調で答えたのだった。


「お前、相当マセたガキだな」


「ガキとはなによ。あなたも変わらないでしょ」


 口を尖らせて放った反論に、遥歩は肩を竦めるだけだった。



 この世界に、もう夜は来ない。  

 いや、正確には、既にあるのだ。ずっと前から、もう何年も。

 確かに、遥歩が言った通り、暗闇よりは白夜の方がマシなのかもしれない。

 飽きるほど目にした白。

 それは空にも及び、この世から闇夜という摂理を消していた。

「なあ」と遥歩が聞く。


「寒いっつっても、わざわざくっついて寝る必要は無いんじゃねぇの?」


 シオンは少年の胸元に顔を埋め、


「わたしは、あなたより寒いの。だから、体温を分けてもらってる。それだけ」


 遥歩は「あ、そ」と素っ気なく返し、頬を赤らめて、頑張って腕を浮かせていた。


「別に、抱き締めていいんだよ? むしろ、そうした方がお互いの温度が──」


「お前はもう少し、男ってものを知れ」


 再び素っ気なく返されたシオンは、「むーっ」と頬を膨らますのだった。



 二人は、歩いた。シオンは相変わらず手紙を握り締めて。そして遥歩はその手を握って。

 ずっと、ずっと、ずっと。

 シオンは、いつしか彼に、自分が手に持つ手紙について気になるかどうかを聞いたことがあった。


「ねぇ、手紙の内容……聞かないの?」

「聞いてどうする」

「ふーん、興味無いんだ」

「あるって言ったら?」

「見せないけど」

「ほらな」


 本当に、興味は無さそうだった。それが、彼が無欲であることと関係あるのかは分からない。

 ただ、シオンからしてみれば好都合だった。

 都合が、良かったのだ。


「無責任な……物凄く無責任な奴だよ、お前は」


 霞んだ視界の中、白雪の背景に混じって遥歩の怒った表情が見える。もっとも、殆ど像を結んでいないので、断定は出来ないが。


「約束は、何もしてないよ。わたしは、ただ……この手紙を届けたかっただけなんだから」


 手紙を握る感触だけが、うっすらと残っている。あとの感覚は、殆ど消えていた。


「その考えが無責任だって言ってんだ。手伝わせておいて、先に行くつもりかよ」


 遥歩が吐き捨てるように言った。せっかく抱き締めてくれているのに、その感触も、体温も、もう分からない。

 命の灯火が、消えようとしていた。

 シオンは、弱々しい笑みを浮かべて囁く。


「この手紙……わたしの代わりに、届けてくれるかな……?」


 重くかじかむ唇で、願いを紡ぐ。


「どうして今更……頼み事なんて……」


「今じゃないと、出来ないから」


「そう言って、俺の願いは聞いてくれないんだろ?」


「……ごめん……」


「……謝るんじゃねぇよ……」


 耳元で聞こえる彼の声には、怒りと悲しみが込められているように感じた。

 それでもシオンは、彼に謝り、願うことしか出来ない。

 そして、それはあまりにも唐突だった。

 まるで流れ星が降るように。

 轟々と唸る雪の嵐が、少女の命の灯火を一つ、消し去っていった。

 


『拝啓、終末の果てで待つ私へ……

 この手紙は恐らく、遺書だ。

 誰に渡すでもなく、誰に宛てて書いたわけでもない。

 ただ、雪に埋もれて跡形も無く消え去るよりは、こうして自分が残した足跡を記しておいた方が良いと思ったのだ。

 世界はもうすぐ、終わる。けれど、悲観するだけでは意味が無い。

 まだ目が見えるのなら、自分が生きたこの星を、最後まで眺めていればいい。

 まだ手が動くのなら、こうして文字を書いたり、あるいは本を読んだりして、この世界に爪痕を残し、この世界のことを出来る限り知っていけばいい。

 まだお腹が空くのなら、食べたい物を見つけて、たらふく食べればいい。

 まだ脚が動くのなら、一歩一歩を踏み締めて、前へ進めばいい。

 ねぇ、わたし。あなたはどんな最期を迎えると思う? あなたは弱くて寂しがり屋さんだから、きっと誰かに頼って、その人に看取られるんじゃないかな。

 そんな最期だったらいいな。

 そして、天国で待つあなたに、この手紙が届けばいいな。

 それが、わたしの願いだから』


 遥歩は、ただひたすら前に進んでいた。

 歩いて、歩いて、歩いた。

 機械に組み込まれた歯車のように、その足を前に出し、淡々と歩を進めていた。

 だから、その歩みが止まって倒れ伏した時、彼に後悔の念は無かった。


「馬鹿野郎……死んだら、手紙なんて届くわけねぇだろうが……」


 重く冷たい目蓋が上下するごとに、冷たい雫が頬を伝う。

 眼前を覆い尽くす吹雪を前に、遥歩はいたずらに手を伸ばすしか出来なかった。

 孤独を恐れた少女が孤独にしてしまった少年。

 彼は最後まで託された手紙を放すことなく、世界の果てまで歩き終えたのだった。



 手紙が届かなくても、想いは届いた。


「なんて顔してるの、お兄ちゃん」


 そっと微笑む彼女に、少年は涙に濡れた瞳で睨むことしか出来ない。


「自己中だよ、詩音、お前は。臆病な我儘に付き合わされた俺が可哀想だ」


「……でも、ようやく会えた」


 終末に覆われた白亜の世界とは違う、木々生い茂る緑の草原。

 透き通るような川を渡って、遥歩は、優しげな微笑みを浮かべて立つシオンの下へ歩み寄る。


「本当に、心配かけさせやがって。──困った妹だよ。お前はさ」

「お兄ちゃんこそ、気付くの遅過ぎだよ」

「お互い様だろ」

「ふふっ、そうだね」


 暖かな日溜りを、二人は手を繋いで歩いていく。

 青々とした草原を眺めると、遥歩は「おっ」と声を漏らし、その場で屈んで一輪の花を摘んだ。

 彼はゆっくり立ち上がると、その花を「ほらよ」と言って詩音に渡した。

 それは、紫色の花弁を持つ、シオンの花だった。

 遥歩は照れ臭そうに続ける。


「シオンの花言葉は追憶……今のお前にぴったりだろ?」


 詩音は嬉しそうにはにかみ、


「意外とお洒落なところあるよね、お兄ちゃん」

「うるせぇ」


 遥歩はぶっきらぼうに返しつつ、再び詩音の手を引く。

 詩音は大切そうに追憶の花を手に持ち、少年の後ろをついていく。

 

 想いは届いた。だから、追憶の旅は無事、終局を迎えた。

 吹雪と共に奪い去られた平穏と記憶。

 それは今、まるで冬から春へと季節が移り変わったかのように、手の温もりと共に、彼女達のもとへ舞い戻ってきたのだ。

 二人の兄妹は進む。

 終末の果てに広がる、暖かな日溜りの向こうへ──。

 


 

 

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