第4章 『罪深い水瓶の底から』 大木槌を持った異形の殺人鬼が封鎖されたデパート内で勘太郎達に迫る。汚染水を操る狂気のトリック使い。狂人・悪魔の水瓶との推理対決です。

第4章 『招かれざる侵入者』        全20話。その1。

          『罪深い水瓶の底から』



          第一章「招かれざる侵入者」


          1 八月十四日(金曜日)


『信じられない、信じられない、信じられない。ひ、人があんな死に方をするだなんて。何なのあれは?』


 時刻は深夜の二時の牛水時。雨が続く梅雨が終わり、蒸し暑い夏の季節が本格的に辺りを包む中、海月光子うみつきみつこは一階のリビングから帰って来るなり自分がついさっきまで寝ていた部屋へと戻りブルブルと震え出す。それだけ不可思議でよく分からない恐ろしい光景をその目に焼き付けてしまったからだ。


 海月光子の歯がガタガタと口の中で鳴り響く。


「何なの、なんで西川正樹課長にしかわまさきかちょうは、大量のどす黒い水をまるで噴水のように口から吐きながら死んでいるの? そしてそのリビングの近くでは、西川美香夫人にしかわみかふじんが頭から大量の血を流して床に倒れて死んでいたわ。これも全ては同じくリビングにいた、あの異様な姿をした正体不明の怪人のせいだわ!」


 そんな独り言を呟きながら海月光子は、今し方見てしまったその正体不明の人物の姿をもう一度思い返す。


 頭には大きな水瓶を逆さまに被り、その設置してある水瓶が頭から落ちないように幾つもの革ベルトで体と水瓶とを固定している。その滑らかな長身の体には緑のレインコートを羽織、長い厚手のスカートを履いている事から女性である事が分かる。

 手には厚手のゴム手袋、足には作業用のゴム長靴を履き。そして背中には大きなリュックサックを背負っているのだが、一番印象的だったのはやはりあの両手に持った大きく、そして重そうな木製の大木槌だろうか。あの大木槌を両手に持ちながらリビングを歩くその姿は何とも恐ろしくそして異様で、海月光子の恐怖心を更に上昇させた。


 その大きな大木槌を持っている事から察するに、恐らくはあの大木槌で西川美香夫人を無残にも撲殺したと結論づけた海月光子は顔から汗を掻きながらも考える。


 と、とにかく落ち着くのよ。幸いな事に向こうは、トイレに行こうとして一階に降りた私の存在にまだ気付いてはいないはずだから、この事を早く三階にいる家の主人や他の人達にも教えてあげないと、恐らくは大変な事になるわ。は、早くこの異常な状況を知らせるのよ。


 まるで自分に言い聞かせるように心の中で言葉を繰り返す海月光子は体を動かそうと立ち上がるが、誰かがゆっくりと三階に上がる足音を聞き、また体の動きがピタリと止まる。


 だ、駄目だわ。そうしたいのは山々だけど……余りの恐怖に体が動かないわ。て言うか、もうこの部屋からは一歩も廊下には出たくはないし、物音一つだって立てる事は出来ないわ。だってもし廊下に出た所を一階のリビングにいたあの水瓶人間に見つかってしまったら絶対にこの部屋に入って来てしまうわ。そうなったら今度は私達が危ないわ。だからそれだけは、それだけは何としても避けないと。今は、今だけは出来るだけあの水瓶人間に見つからないようにしながらここで時間を稼ぐのよ。


 そんな事を考えながら海月光子は椅子の上に置いてある自分のバックからスマホ携帯を取り出すと、地元の警察にではなく先ずは三階にいる(夫)海月歩に一早く電話を掛ける。何故なら警察がその別荘地に到着するまで、最短でも後二~三十分は掛かってしまう事を知っているからだ。


「電話よ、今は三階にいる家の主人に電話をしなくっちゃ」


 そう思いながらも電話を掛けるが、気付いていないのか主人は一向に電話に出る気配がない。

 電話の呼び出し音が鳴る中、夫が電話に出るのをじ~と待っていると、三階の上の方から何やら騒がしい音が聞こえたような気がしたが、今は電話に一向に出ない夫に焦りと憤りを感じていた。


「もう……この非常時にあの人は一体何をしているのかしら。一刻も早く電話に出て欲しいのに!」


 そんな愚痴をこぼしながら仕方なくラインやメールで主人に伝言を残した海月光子は、部屋の鍵を確認しながらダブルベッドの傍らで静かに寝ている一人息子の海月リクの姿をマジマジと見る。


「リク……そうだわ、パニックになっている場合じゃないわ。ここは何としてもリクだけは守らないと」


 眠気まなこの息子を抱きかかえながら海月光子は、今し方、下の一階リビングフロアーで見てきた事実を心の中でもう一度整理する。


 妻の海月光子と旦那の海月歩、それに息子の海月リクの三人は、家の旦那の上司でもある西川正樹課長とその奥方の西川美香夫人の招きで、この深い森の中にある別荘地に遊びに来ていた。


 他にも数軒離れた所に他の別荘の建屋が見えるがどうやら周りに人の気配はないようだ。


 海月夫妻は個人的に仲良くして貰っている西川正樹課長の顔を立てる為に一泊二日という形でこの別荘に泊まりながら、他の役職のある人達を持て成す準備をする。その為に夫の海月歩は会社の太鼓持ちでもある接待係を敢えて買って出たのだ。

 そんな海月夫妻の頑張りも相まって庭先での夕食会はかなりの盛り上がりを見せたが、外でのバーベキューの晩餐が終わるとこの後直ぐさま三階の大広間で行われるとされる麻雀大会を開く為に、夫の海月歩は「後は頼む」と言いながら急ぎその場を後にする。


 その誰もいなくなった外庭とリビングでは海月光子と西川美香夫人が二人で夕食後の後片付けをしていたが、海月光子は周りを見渡しながらある気になる事を聞く。


「西川美香夫人、今回は西条社長や関根専務・それに軋部長の姿も見えないみたいですが来てはいないのですか?」


「ええ、今回は別件で忙しい様で来てはいないわ。ほら、五年前にうちの会社で起きた水の事故があったでしょ。その賠償金の話で今は忙しいらしいわ」


「ああ、あの話ですか。主人から少し聞いた事があります。何でもこの会社の西条ケミカル化学会社は医療品の製造だけでは無く畑違いの土木工事の事業も手掛けていて、その川をせき止めていた堤防が大雨で決壊して事故が起きてしまい。その場にたまたまいた十人もの当時小学生だった子供達が水に流されて死亡したとか……そんな話でしたね」


 眉間にシワを寄せながら何だかやるせない感じで話す海月光子に、西川美香夫人が優しく言葉を掛ける。


「同じく小さな子供を持つ貴方としては嫌なお話だったわね。もうこのお話はやめましょうか。あの西条社長もその性格上よくいろんな人達に訴えられて余り言い話は出ては来ないけど私達はその会社で働く夫の妻だからこれからも夫を支えていくしかないわ。そうでしょう」


「ええ、そうですわね。西川美香夫人の言うとおりです。あ、何だか息子のリクがぐずり出したんでちょっとリクを二階の部屋に連れて行って寝かせ付けて来ますね」


 そう言うと海月光子は眠気でぐずりだしたまだ小さな息子を寝かせつける為に二階に与えられた部屋に行き、リクを寝かせ付けながら溜息をつく。


「さあ、早く戻ってもうひと踏ん張りしないとね」


 棚の上に置いてある写真立てを見ながらそう言葉を告げた海月光子は、一人気合いを入れながら一階へと戻る。


 その後、海月光子は残りの後片付けをしながら共に皿洗いをしている西川美香夫人とたわいも無い雑談をしていたが、もう既に夜の二十三時が過ぎた事もあり西川美香夫人が「後のことは自分がやるから、あなたはそのまま部屋に戻ってもいいわよ。お子さんもいるんだから後はゆっくりしていて頂戴」と優しく言ってくれたので、その好意を素直に受け取った海月光子は一足先に自分達に与えられた部屋へと戻りゆっくりと休憩を取る。


「あ、もうこんな時間なの……もうすっかり寝入ってしまったわ。歩さんはまだ帰っては来てはいないみたいね。何時まで続くのかしら、麻雀大会」


 それから三時間後、緊張と接待で世話しなく働いていた為かいつの間にか寝入ってしまった海月光子はお手洗いに行きたくなり何気に起きるが、眠気眼で一階に降りると薄暗いリビングでその陰惨な光景を目撃してしまう。

 その衝撃的な光景とは、旦那の上司でもある西川正樹課長は床に仰向けに倒れたまま、大きく空いた口から茶色く濁った水を大量に吐き続け。同じくその傍で倒れている西川美香夫人の方は、何かで頭部を叩かれたのか頭から大量の血を流しながらうつ伏せに床へと倒れている姿だった。


 そんななんとも理解しがたい光景に海月光子は直ぐにでも西川夫妻の元に駆け寄りたかったが、その近くで蠢く謎の水瓶を逆さに頭から被った水瓶人間の存在が海月光子の更なる恐怖心を煽る絶対的な要因へとなっていた。

 その異様な光景に二階にある部屋へと逃げ帰った海月光子はブルブルと震えながら、寝ている息子を力強く抱き締める。そして今に至ると言う訳なのだ。


「ここにいても埒があかないわ。三階に……主人がいる三階に行くわよ。三階には他の人達もいるから、ここにいるよりは安全なはずよ」


 あれから三十分後。


 いろいろと混乱する中そう結論づけた海月光子は、六歳になる息子を抱きかかえながら静かに廊下へと出る。


 目撃した水瓶人間に出くわさないように最新の注意を払いながら夫と他の人達がいる三階にある部屋を目指す海月光子だったが、階段を上り三階の部屋まで来ると何だか様子が違う異様な違和感に脈打つ心臓が警告音となって海月光子の体を更に震わせる。

 なぜなら夫と他の会社の人達がいるはずの部屋のドアがガラリと空いていたからだ。その中から漂う血の臭いと何かのへ泥臭い異臭の臭いが嫌でも鼻についた事で、この三十分の間にこの部屋の中で何かがあった事を直ぐに想像した。


「何なのこの臭いは、血の臭いと共に何かヘドロのような臭いがここまで漂ってくるわ。一体この部屋の中で何があったの。それに部屋の中から人の声が全く聞こえないわ。みんなどうしたのかしら? それに、私の主人は一体どこにいるの?」


 海月光子は不安な気持ちを押さえながら一歩一歩静かに部屋の中へと入って行く。そこで見た光景は海月光子の不安を絶望の淵へと突き落とすには十分な物だった。何故なら部屋の中にいた数人にも及ぶ人達が頭から大量の血を流しながら皆倒れていたからだ。その床に倒れている全ての人達に動く気配はなく、ただの屍と成り果てていた。


「ひいぃぃぃー、まさかみんな死んでいるの。なら、しゅ、主人は、主人は一体どこにいるの。この中にはいないみたいだけど。みんなあの大きな大木槌で頭を割られて死んでいるわ。そして倒れているその数は恐らくはざっと八人くらいかしら」


 そんな陰惨な死体を一つ一つ確認しながら夫を探していると、一番奥にあるトイレのドアがゆっくりと開き、その中から両腕を後ろ手に縛られた夫の海月歩が現れる。

 その口には勝手に喋れないように手ぬぐいを紐状にした猿ぐつわで口元をキツく縛られている状態だったが、その目は恐怖と涙で曇り、目の前にいる妻の海月光子と息子の海月リクに何かを必死に訴えている様にも見えた。


「うう、うぐぐぐぐ!」


「あなた、良かった生きていたのね。今は話は後よ。取りあえずは早くここから逃げるのよ。あの水瓶人間がまたここに戻って来る前に」


 そう言いながら近づこうとした海月光子に、海月歩は行き成り茶色く濁った水を大量に口から放出する。


「あ、ぐわぁ、あぐぐぐぐ……ぶぶぶぶっ!」


 ブシャアアーァァァァァァァァ!


「濁った大量の水が主人の口から……い、いやあぁぁぁぁぁーっ!」


 猿ぐつわを噛まされている口から大量の水を吐き続ける海月歩は、もだえ苦しみながら部屋の中で暴れるとそのままうつ伏せに倒れる。その衝撃的な光景に少し半狂乱になっていた海月光子は少し冷静さを取り戻すと「あ、あなた、大丈夫、大丈夫なの?」と言いながらゆっくりと海月歩の元に歩み寄ろうとする。だがそんな海月光子の動きがピタリと止まる。何故なら部屋の入り口のドアの前に置いていたクローゼットの扉が勢い良く開き、その中から一人の中年男性が現れたからだ。


 咄嗟に後ろを振り返った海月光子は、その男が一体誰なのか直ぐに分かる事が出来た。男の名は田代意次たしろおきつぐ(四十七歳)。夫の海月歩の仕事に関わる上司にして先輩の一人である。彼はこの会社で工場長という肩書きと役職を貰っているのだ。その田代意次がおびえにも似た声で荒げながら海月光子の歩みを停止させる。


「光子さん、主人には近づくな! あのトイレの個室の中に、あのいかれた水瓶を逆さに被った水瓶人間が隠れているぞ!」


 その言葉に合わせるかのようにトイレの個室の中から巨大な水瓶を逆さに頭から被った水瓶人間がその姿を現す。

 緑のレインコートを着たその人物は両手に大きな大木槌を持ちながら下で倒れている海月歩の前に立つと、その大きな水瓶の頭を近くにいる海月光子や部屋の入り口で聴視している田代意次に向ける。

 直接見たその姿はかなり異常で、海月光子の目が思わず釘付けとなる。


「ポポポ……ポポポ……っ」


「あ、あああぁぁ……?」


 まるで鳩のような鳴き声をあげる水瓶人間の声に海月光子の思考は完全に停止状態になるが、抱きかかえている海月リクの泣き声と田代意次の声が海月光子を再び現実へと引き戻す。


「何をボーとしているんだ。早く逃げるぞ。あの目の前にいる水瓶人間に、この部屋の中にいる人達は皆叩き殺されたんだ!」


 そう言いながら田代意次はまるでその場からはじかれたかのようにその部屋から逃げ出すと、その二秒後、息子を抱き直した海月光子は一目散に逃げ去った田代意次の後を追う。


「ま、待って下さい、田代意次工場長。私達を置いて逃げないで下さい!」


 六歳になる息子を抱えて逃げる海月光子にあの水瓶人間は余裕で追いつくのでは無いかと思われたが、何故か水瓶人間は追ってはこず。十秒ほどその部屋にとどまると、ゆっくりとした足取りで海月光子の後をついてくる。そんな歩き方だ。

 余裕の表れなのかは知らないが、あの水瓶人間から伝わって来る殺意と狂気が周りにいる者に嫌でも伝染しその絶望的な悪意が伝わって来る。


 逃げなきゃ、早くこの別荘から逃げ出さなきゃ……。


 そんな事を考えながら階段を必死に下る海月光子だったが、とてもじゃないが逃げ切れないと考えを直ぐに変え、二階にある自分達の部屋へと必死に逃げる。そのドアの前には先に逃げていた田代意次が必死に手招きをしながら早く部屋の鍵を開けろと大きな声で叫ぶ。


「早く、奥さん。早く部屋の鍵を開けるんだ。この部屋に鍵を掛けて警察が来るまで籠城しよう!」


 その言葉が聞こえたのか、ゆっくりと階段を下っていた水瓶人間は今度は狂ったように「ポッポポポポポポポポポーッ!」と奇声を上げながら、鍵で部屋のドアを開けようとする海月光子に迫る。


「早く、早くしてくれ! もうそこまであの水瓶人間が迫って来ているぞ!」


 そう田代意次工場長が叫んだのと同時に鍵を開ける事に成功した海月光子は、急ぎ部屋の中に入ると直ぐに部屋のドアに鍵を掛ける。


 その一~二秒後廊下の外では、手でドアを叩く水瓶人間が荒々しく「ポポポポポポポポポポポポーッ! ポポポポポポポポポーッ!」と声を荒げながらその怒りの具合を大袈裟にアピールするが、そんな水瓶人間の言動と態度からしばらくは部屋には入ってはこれないと感じた海月光子と田代意次工場長の二人は思わず安堵の溜息をつく。


「と、取りあえずは助かったけど、一階にいた西川夫妻のみならず、今度は三階にいた八人もの会社の関係者達が次々と殺されてしまうだなんて、未だに信じられないわ。そしてまさか家の旦那も九人目としてあの水瓶人間に殺されてしまった。私これから一体どうしたらいいのかしら。これが夢なら早く覚めて欲しいけど。それで……田代意次工場長は一体どんな経緯であのクローゼットの中に隠れていたのですか? 普通に考えたらあの水瓶人間があなたの存在に気付いていなかったとは思えないんですけど」


 そんな疑いの目を向ける海月光子に田代意次工場長は思わず反論をする。


「勿論他の人達があの水瓶人間に襲われている間に、俺は素早くあのクローゼットの中に逃げ込んだんだよ。流石にあのまま部屋のドアを開けてしまったら嫌でもあの殺人鬼に気付かれてしまうからな。あのクローゼットの中に逃げ込むのがやっとだったんだよ。だから他の職員関係者達を何故助けなかったのかという偽善的な台詞はやめろよな。助けに行かなかったのではなく当然助けられなかったんだよ。何せ相手は異形の力を持った怪人だからな。死んだ人達には悪いが、その犠牲の二の舞になるのだけは御免被るぜ!」


「確かにそうなんだけど、あの時、家の主人はまだ生きていたし、場合によってはまだ何とかなったんじゃないかしら」


「なんだよ俺のせいだって言いたいのかよ。言っておくが俺だって人を助けている余裕なんて無かったんだ。それはあの水瓶人間の脅威を見ていたら嫌でも分かる事だろう!」


「た、確かに……でもそもそもあの水瓶人間は一体何者なんですか?」


「そんなの俺が知るかよ。俺達が2チームに分かれて麻雀を楽しんでいたら行き成りあの水瓶人間が現れて突如殺戮をしだしたんだよ。部屋の入り口はその水瓶人間が押さえていたから当然誰一人として逃げ出す事も出来ず。皆、水瓶人間の持つあの大きな大木槌で順番に頭を割られて撲殺されたという形かな。その時俺はたまたま隣の部屋に煙草を取りに出ていたから助かったが、つい知らずに部屋に入ってしまったから今更出る事も出来ず、仕方なくドアの入り口の横にあるクローゼットの中に逃げ込む事が出来たんだよ。その後あの水瓶人間に海月歩が捕まり一番奥のトイレの個室に連れ込まれる音を聞いていたんだが、足がすくんで逃げ出すことも出来ず、その逃げる瞬間を今か今かとじ~と待っていたんだよ」


「そう、そうだったんですか。ごめんなさい、なにも知らなくて。あの異常な水瓶人間の中に割り込んで、家の主人を助けてと頼む方がどうかしていましたわ。貴方だけでも無事に助かって良かったと喜ぶべきでしたわ」


「いや気にしないでください。あなたはたった今旦那の死を目撃したんだから、取り乱さない方がおかしいですよ。その心中お察しします。でも今はここからどうやって逃げ出すかを先ずは第一に考えないと。あの水瓶人間はいつまたあのドアを蹴破ってこの中に入ってくるか分かりませんからね」


「そうですね。今は泣いてる時ではないわ。息子のためにもここは私がしっかりしないと」


「ははは、その息だ。と言う訳で奥さん、携帯電話は持っているか。先ずは警察に電話をしてこの状況を伝えるんだ。警察がこの別荘に到着するまで何としてもこの部屋のドアを死守するぞ!」


「はい、分かりました!」


 そう返事をしながらスマホをポケットから取り出すと、海月光子は直ぐに警察へと電話を掛ける。

 こんな事ならもっと早く警察に連絡しておけば良かったと激しく後悔をしながらスマホを耳へと当てる。

 だがこんな日に限って混雑しているのか警察には中々繋がらない。その間に海月光子はある疑問点を田代意次工場長に聞く。


「田代意次工場長、そう言えばあなたも見たでしょ。家の主人が口から大量の水を吐きながら下に倒れる姿を。そう言えば一階で仰向けに倒れていた西川正樹課長も同じく、口からまるで噴水のように水が噴き出していたわ。人間ってあんなに口の中から水を吐ける物なのかしら?」


「て言うかいくら胃の中に水が溜まっていたとは言えあんな噴水のように継続して人間は水は吐かないだろう。あの光景自体が異常なんだよ」


「そうなのかしら」


「そうだよ。大体あの時まだ生きていたあんたの旦那は別にして、一階で仰向けになって倒れていたと言う西川正樹課長はもう既に死んでいたんだろ」


「それはちゃんと調べた訳じゃないからまだ分からないけど。恐らくはもう死んでいると思うわ」


「ならもう死んでいると仮定して、体の生命活動が終わった死体の口から胃の中の水がまるで噴水のように継続してず~と流れ出るだなんてまず無い事だぜ。本当に西川正樹課長の口の中からその水は流れていたのか?」


「ええ、流れ出ていたわ。私の夫と同じようにね。だからおかしいと言っているんじゃない!」


「ああ、そうだったな。俺もあんなどす黒い水をあんなに沢山吐くだなんて、未だに信じられないぜ。一体海月歩の奴と西川正樹課長はあの水瓶人間に何をされたんだ? 未だに理解できないぜ」


 そう田代意次工場長の口から言葉が出た時、やっと地元の警察に電話が繋がる。


「もしもし、警察ですか……実は……」


 海月光子が必死に事の状況を話していると、行き成り部屋のドアが大きく揺れ、激しい衝撃と音と共に大木槌がドアに穴を開ける。その振り下ろされる大木槌のインパクトは強く、水瓶人間の悪意と殺意に二人は多いにたじろぐ。


「入ってくる。あの大木槌でドアに風穴を開けて中に入ってくるつもりだぞ。これじゃ時間稼ぎをする時間さえない。奥さん、その本棚を一緒に引っ張るのを手伝ってくれ。この本棚をドアの前に置いて少しでも奴の侵入を遅らせるんだ。急げよ!」


 田代意次工場長の指示で海月光子は本棚をドアの前に置くと、その本棚が吹き飛ばされないように必死に押さえる。


 こ、来ないで、お願い。どうか警察が到着するまで何とか持ちこたえて!


 薄暗い廊下でまるで狂ったかのように大木槌をドアに叩き付ける水瓶人間に圧倒されていると、本棚を押さえる海月光子の背後に外の窓ガラスを開けた田代意次工場長が別れの言葉を告げる。

 ダブルベッドのある片足に、どこから持って来たのか良く分からない紐をしっかりと結びつけると田代意次工場長は申し訳なさそうに海月光子に頭を下げる。


「光子さん、あんたは子供を抱えたままではとてもじゃないが奴からは逃げられないだろ。だからあんたの代わりに俺が助けを呼んで来てやるよ。だからあんたはそこで奴の足止めをするんだ。出来るだけ長く。いいな、任せたぞ!」


「田代意次工場長。そんな事を言ってあなたは一人だけで逃げるつもりでしょ。ならせめて家の息子だけでも連れて行って下さいよ。それなら私出来るだけ奴の足止めに協力しますから!」


「すまんな、そんな子供を背負ったままじゃ奴からは逃げ切れないだろ。このまま俺の車の所まで行って車に乗り込むことが出来たら出来るだけ早く警察を連れて来てやるからよ」


「待って、待って下さい。どうかお願いします。どうか家のリクだけでも連れてって下さい。お願いします!」


「……。」


 そんな必死な海月光子の懇願も空しく、自分の命を優先した田代意次工場長は無言のまま外窓からロープを伝わり下へと降りる。

 その間も水瓶人間に何度もドアに叩き付けられた大木槌は、ついにはドアと本棚を完全に破壊し堂々と部屋の中へと入ってくる。


「ああ……あああ……っ」


 バキッ、バキン、バタン、ゴトン!


 邪魔な本棚を叩き壊しながら部屋の中へと入って来た水瓶人間は、息子の海月リクを抱えながらまるで我が子を守るように蹲る海月光子を見つめながらその水瓶にも似たマスクを間近まで近づける。


 そんな水瓶人間に海月光子は勇気を出して訴え掛ける。


「な、なぜあんな酷いことを……私達が一体何をしたと言うのですか。その理由を答えて下さい!」


「ポポポ……ッ」


「なぜあなたは人を殺しているのですか。そしてあなたは一体何者なのですか?」


「ポポポポーッ」


「さっきから一体何を言っているんですか、答えて下さい。まさか私の言葉が通じていない訳じゃないでしょ!」


「ポポポッ」


「ひいっ、何なのこいつ、さっきから私の問い掛けに言葉で答えようとしないわ。て言うか本当に私の言葉を理解しているのかしら。まるで言葉が通じていないようにも見えるんだけど?」


 そんな事を思っていると、水瓶人間は更にその不気味な水瓶を模したマスクの顔を海月光子に近づける。


「ひ、ひいいいーっ、何処の誰かは知りませんが、どうかお願いします。私はどうなっても構いませんから、どうか子供だけは……息子のリクだけはどうか見逃して下さい。どうかお願いします。どうか……どうか……っ!」


「ポポポポーッ」


 鳩のような小さな意味不明な声でそう応えた水瓶人間は、行き成り手に持つ大木槌を振り上げると海月光子の頭に向けてその一撃を振り下ろそうとする。


 もう駄目だわ。そう海月光子が覚悟を決めたその時、抱えられていたリクが「お母さん、お母さん」と言いながら突然泣き出す。その鳴き声のせいかは分からないが、水瓶人間の大木槌は海月光子の頭から僅かに外れ、直ぐ横にある床へと叩き込まれる。


 ドッスン! バキバキ!


「ひぃぃ……。」


 その後、中々次なる攻撃が来ない事に疑問を感じていた海月光子は、息子を抱えながら恐る恐るその瞼を開く。目の前にはそこにいるはずの水瓶人間の姿は無く。窓際のある方に移動し外の下を覗いている姿が見えた。窓枠から外を頻りに覗き込んでいた水瓶人間は外の僅かな様子に何かを確認しているようだ。


 静まり返った部屋の中でよ~く耳を澄ませて見ると「くそ~、車がパンクしてやがる。誰だこんな事をしたのは。これじゃ車を走らせる事は出来ないぞ」と言う田代意次工場長の声が外から聞こえてくる。


 あ、田代意次工場長……まだ車で逃げてはいなかったんだ。海月光子がこの緊張感の中でそんな事を考えていると、行き成り下に逃げた田代意次工場長の存在を確認した水瓶人間が「ポポポポポポポポポーッ、ポポポポポポポポポーッ!」と怒りの奇声を上げながらドアの方にその足を翻す。


 その瞬間水瓶人間は海月光子とその息子の海月リクを少しだけチラ見したが、まるで何事も無かったかのように猛然と走りながら階段を駆け降りる。


 スタスタスタスタン……バタバタバタバタン!


 その後海月光子は玄関のドアが豪快に開く音を耳で確認する。


「なぜ、なぜ水瓶人間がここにいるんだ。お前はあの親子を襲っている真っ最中じゃないのか。なんで俺の所に来るんだよ。よるな、よるんじゃない。この殺人鬼め! うわあぁぁぁーうわぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!」


 その数十秒後、外の駐車場では大木槌を振り回しながら迫る正体不明の水瓶人間に追い回される田代意次工場長の悲鳴が聞こえたような気がしたが、放心状態の今の海月光子にはその声が聞こえる事はなかった。

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