異世界を救ってきた少年
①転入生の少女たち
桜は散り雨はまだ来ない季節。高校へと続く道を走る、詰襟の制服の少年。
「寝坊した寝坊した!」
かなり速いペースで走っているが、彼は大きく息を乱さずすいすいと足を回転させ始業に間に合うことだけを考えていた。
「どうするどうする、今日の遅れはさすがにやばい間に合わない!」
走りながらきょろきょろとあたりを見回す。左側をより念入りに。朝の住宅地だが、登校出社のピークも過ぎたおかげか、ちょうど誰もいなかった。誰にも見られないのであれば。
家の
「これなら……」
右目を細めて高校のある方向を見る。すぐ隣には中等部もある、この辺りでかなり大きい学校だ。あのやけに存在感のある高い校舎が見えた。しめしめと思ってショートカット大作戦が決行されようとしたが、はっとして塀から元いた道に飛び降りる。
「だめだだめだ。人様に迷惑かけちゃあ」
再び道を走り始める。けれど努力というか、抵抗むなしく、結局遅刻することになり先生たちに怒られてしまったのだった。残っていた眠気もすべて吹き飛ぶ。先生たちは彼でもしっかりと叱ってくれた。
少年は
けれどこの日本と呼ばれる国の現実でそれを知る者は誰もいない。普通で普通ではない少年。
◇
シラセは担任の先生と一緒に教室へ向かう途中、先生から小言をもらっていた。
「まったく、いつも遅刻ギリギリに来ているからこうなるんだよ?」
「ごめんなさい。もっと気をつけます……」
「その……」
わずかに担任の言葉が詰まった。
「どうしても色々支度に時間がかかるという話なのかい? それならご両親とも話し合って考えるけれど」
「いえ、そんなこと。ただ僕が布団からなかなか出れないだけです。もっと早く寝ます」
校則に引っかからない髪色をした頭を気まずくかく。染めてはいない。
「そう。それならしゃんとしてもらうしかないね」
「しゃんとします……」
そんな会話をしている教師と生徒の後ろに、ついてくる二人の少女の姿があった。シラセは気づいている。小さく右に首を捻ってちらりと何回か見てしまった。目を引く容姿だということもあるが、この学校のブレザー(他校からも人気がある、セーラー服の要素も混ざっているデザイン)を着た知らない顔、転入生だからだ。
彼女たち、一人は強く、一人はおどおどとシラセを見ていたが、彼と視線を合いそうになるとわずかに逸らした。何度か。
嫌な気分にはならない。彼は彼女たちがこうして見てくることを、無理もないとわかっているからだった。
教室に入って、そそくさとシラセは自分の席に着く。すると近くの友達たちが、
「遅刻ありがとうねえ」
「ありがたくないわい。これで学食コロッケおごることになっちまった」
勝利に喜ぶ者と、敗北を悔しがる者。
「おいおい、俺で賭けてたのかよ」
「おうよ。いっつもギリギリだから成立するってわけよ」
「容赦ないなあ。じゃあ俺もこれから遅刻しない方に賭けさせてくれよ。コロッケな。いやチキンのがやる気出るからチキンで」
「混ざるのかよ。でもいいな。俺も遅刻する方に変えて、コロッケ取り戻してさらにチキンだ」
「まじか」
担任が前に注目するように言う。あの転入生の少女二人の紹介をするためだ。友達たちは賭けの話をしている間も、あの二人が気になっている様子だった。
わかる。
「転入生を紹介するぞ。このお二人だ。一気に二人とはこんな珍しいことあるもんだなあ。というわけでお二人、それぞれ自分の名前を黒板に書いて簡単に自己紹介を」
一人はやや背が低めで、日本と白人系のダブルの顔立ち。細くスレンダーな体つきで、くせのないまっすぐな栗毛の髪を背中近くまで伸ばしている。くりくりとした二重の瞳に、やや彫りを作り、小鼻の小さめな高い鼻、血色のいい唇がみんなの目を引くかわいらしい少女。
黒板に慣れていないのだろうか、少し戸惑っていた様子でぎこちないチョークの動きだった。だからあまりきれいとは言えない字になっている。
「七星(ななほし)いりすです。言葉はわかるのですが、最近まで別のところで暮らしていたのでみなさんにご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
丁寧にぺこりと頭を下げる。鈴を振るような声。調子からして、そこまで緊張していないらしい。
「七星さんめっちゃかわいくね?」
わかる。
友達の感想にシラセも力強く同意する。けれどそれとは別に彼女が気になる。一目ぼれではないと思う。それはどこか不思議な感覚。
もう一人。背は高めで胸が大きくグラマーな体つき。日本で多くを占める顔立ち。髪は黒でややくせがあり、肩につくくらいまで。眼鏡の奥にあるはっきりとした二重の目は不安そうにどこかきょろきょろしている。鼻筋の通ったきれいな鼻があり、その下のぷくりとした唇はわずかに震えていた。
イリスとはまた違ってかわいらしく、そして今は緊張しているがより親しみやすい少女。
「あ、秋山(あきやま)みのりです。あの、すごく緊張しています、でも、これから、よろしくお願いします」
こちらも丁寧に頭を下げる。イリスに比べると低めの声で、緊張しているのは間違いないが、彼女が黒板で少し戸惑ったときそれとなくお手本を見せるようにしていたのを、シラセは見ていた。
二人の自己紹介が終わって拍手の中、やはり友達は、
「秋山さんもめっちゃかわいいな……」
と漏らして、シラセもまた
拍手の間でも、前の二人がシラセを見ていた。先の通り視線が飛んでくることには慣れているので嫌な気持ちにはならない。どうしても見てしまう理由はわかっている。自分の容姿が優れているからという、うぬぼれではない。
今年この高校に入学して、クラスメートたちと初めて出会った時も同じだった。誰も話しかけてはこなかった。今はそんなことはないけれど。
それでもクラスを出れば、学校でも街でもどこでも彼をよく知らない人たちの、同じ視線が飛んでくる。そして目線が合うと相手は気まずそうに視線を外していくのだ。
「ほいで、二人増えたので、みんなが入学してこのクラスができてから時期もちょうどいいかと思って席替えをすることにした」
担任からの提案に教室中がおーっという歓声でいっぱいになった。席替えはとってもわくわくするものだ。一部、良い席から離れる、仲の良い子と遠くなるから動きたくない子もいるだろうが、大多数にとって素敵なイベントだ。
ここで思春期真っ盛りの男子生徒たちの多くは、自分の好みの女の子の隣になることを祈り始める。気の合う友達も良いが、それよりもだ。平等な世の中というものが進んでいるが、好みというのはどうしてもあるものだ。
それに女の子たちの中にも同じ思いの子がいる。教室に祈りであるとか願いであるとかそういう気持ちの力が充満していく。
膨らんで膨らんで弾けてしまえばすでに席替えは終わっていた。
シラセの両隣がイリスとみのりという結果で。
席が離れてしまった友達からちくちくとしたものが刺さるが、こればかりは仕方がない。シラセは友達に対してオーバーなしたり顔を見せつけて、彼の悔しがるのを楽しんだ。シラセ自身は別に誰でも良かったのだけれど。話す機会になる。
右隣のイリスと左隣のみのり。それぞれにあいさつをする。
「ども、はじめまして。俺、王司白瀬。よろしく」
それぞれワンテンポ遅れて、
「……はじめまして。よろしく」
と返事をされた。
ぎこちない感じの彼女たちが気にしているであろうことを説明しようと思ったが、もう授業が始まる。また別の時間でも良いと考えた。優しければ優しいほどどうすれば良いのか、彼女たちはわからないのだ。
鐘が鳴って先生が変わり、授業が始まった。教科書を開き、先生が黒板に書いて説明をしてくれている。少し眠たさはあるが、シラセは開いたノートにその内容を書き写していく。左手でシャープペンシルを握り、すらすらと筆を進める。
書き間違えてしまった。ペンを置き、消しゴムでこすっていると、紙の抵抗で引っかかってしまって消しゴムが手から飛んでいってしまって床へと落ちてしまった。
跳ねて転がってそれは右隣のイリスの足元近くに行ってしまった。女の子の足元であること、さらに手を伸ばせない方向で都合が悪かったので、申し訳ない気持ちと共に彼女へ小さく声をかけた。
「ごめん。消しゴム拾ってもらっていい?」
その声をかけている途中で、彼女はもう消しゴムを拾い上げていた。彼が落としたことにすぐ気がついていたのだ。
「はい、これ」
シラセは体を捻って手で受け取ろうとしたが、彼女なりに気を利かせ、腕を伸ばして彼の机の上に置いた。透き通るような肌の、節の目立たないきれいな指があった。
「ありがとう。気をつけるよ」
「本当、気をつけてね。また何かあれば言って」
「うん、わかった。七星さんも何かあれば気軽に言って。まあできることとできないことがあるんだけどもね、はは」
彼女が複雑そうな表情になったのを、内心しまったと思ってしまい、何か言おうとするがそれのどれもが彼女の気持ちを揺れさせてしまうと考えると、口をパクパクするしかなかった。
「あ、違うの。違う」
そんな様子にイリスは優しい声を出した。甘すぎない声。
「その、七星と呼ばれるのに慣れて、なくて……イリスって呼んで欲しい、それだけで……」
思わぬ流れに戸惑ってしまったが、すぐに気を取り直してシラセは彼女の願いを叶えることにした。
「わかった、イリスさん」
「……さんもいらないから」
今日初めて出会った少女に対して呼び捨て。これはシラセの中ですさまじくハードルが上がる。しかし彼女がそう願うならばそうするしかあるまい。耳に熱を感じながら恐る恐る、
「イリス……? これで?」
「うん」
彼女は顔を向こうに向けて、一つゆっくりと頷いていた。これは相手も照れているのだとわかると、シラセはもっと恥ずかしくなった。彼女の意図がわからなかった。限りなく好意寄りだとわかるがでも意図。
とにかく冷やすためにも授業に気を向けなければならない。彼女を視界から外すために、首を回してみれば今度は。
みのりだった。彼女がじいっとイリスとシラセのやり取りを見ていたのだ。彼女は体の左側にいるので気づくのが遅くなった。彼女は眼鏡の奥にある目を細めていて、それはまるで公共の場でいちゃつくバカップルを見るかのようだった。
「な、何か……?」
「元気にまあ、なかなかお手々が早いみたいで」
あの自己紹介で緊張していたのが嘘みたいだった。彼女はどこかシラセに対して慣れている。そんなところがある。彼女もイリスと同じで、今日初めて会ったばかりだというのに。
「誤解だよ誤解。消しゴム拾ってもらっただけで」
「どうかな」
からかってはいるが、悪意という感じではない。仲の良い友達にやるような。シラセは不思議とそう思えた。やや丸顔のいたずらな笑みのおかげかもしれないが、それだけではない、どこか深くからやってくる感覚が信じて良いと、ささやいている。
「学校好き?」
流れをさえぎった妙な質問に、もう一度尋ねてしまう。
「え、学校好きって?」
「うん。小学校も中学校もあったけど、好き?」
適当に好きと言っておけば話はそこで終わりそうな質問だ。けれどシラセは素直なままに答えた。
「嫌になりかけたこともあるよ。今は好きだけど」
「そっか。やっぱり王司白瀬君だね、とっても」
「それどういう――」
上書きされた質問の声。授業中だから先生にだ。つい大きくなってしまった声はみのりだけでなく黒板の前の先生にも届いてしまって、シラセは名指しされてしまう。がたっと立ち上がって教室全員の注目を浴びてひどく恥ずかしくなる。
そんな様子に、みのりは手を合わせて柔らかそうな唇だけを動かして謝るのだった。
彼女も同罪だろうけれど、このように謝ってくれている。シラセは自分がうかつだったと納得する。いや、あとでやはり文句の一つは言っておこうと決めた。何かを引き出すためではない、そうやってちゃんとお互いフェアな関係を作るためだ。
先生から一通り怒られ、謝り再び席に着こうとしたとき、それがあった。
この現実で持つはずのない感覚を。
めまいや立ちくらみとは違う。浮遊感がつま先からゆっくりと頭のてっぺんにまで上ってくる感覚。てっぺんを抜けて浮遊感がなくなったあと、全身にぴりぴりとしたしびれが走った。あわせて鳥肌も立つ。
先生に怒られたことを忘れ、きょろきょろと教室を大きく見回す。
右目に力を込めてみても何も見えず、感じられなかった。一瞬、わずか一瞬だけでそれは終わったらしい。教室の中も、窓から見える街とその奥にある電波塔のある山々の景色も変わりはしなかった。
魔法だ。
シラセが間違えるはずはない。彼も星渡りの姿になっているときに使えるからだ。そしてこの現実に魔法は存在しない。これまで渡ってきた別の世界では存在していたり、普及していたりするところがほとんどだったが、しかしこの現実で魔法を感じたのは初めてだ。
先生がシラセの名前を呼び続けているようだが、もう耳には入ってこなかった。感覚はすべて魔法の方へと向かって、沈んで、それが続いて続いて。
左手にぬくもりがあって、それのおかげではっとした。みのりだった。彼女が暖かい手で握っていた。右を見てみればイリス、彼女が心配そうに見つめていた。
ようやく先生の声がはっきりと聞こえた。ひどく心配していた先生に対してもう一度謝ったあと、シラセはみのりと手をつないだまま席に着く。
そのあと魔法の感覚は一度もなく、授業は進んでいった。みのりの手は着席してすぐに離れ、シラセは心を落ち着けるのに授業へと気持ちを無理やり向けたのだった。
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