恋しい人 第29話

「オイ、殴られる前に放せ」

「はぁ? なんでよ?」

「葵が嫌がってるからに決まってるだろうが」

 バタバタもがく僕を助けてくれるのはやっぱり虎君。

 虎君は姉さんから僕を強引に引き離すと、そのまま姉さんから遠ざけるように僕を抱き締めた。

 女の人とは全然違う逞しい虎君の体躯は柔らかさとは程遠い。でも、それでも僕は虎君の腕の中にいる方が心地良いし安心する。そして、とてもドキドキする。

「入学おめでとう、葵」

「ありがとう。虎君」

 僕を見下ろし、目尻を下げて微笑むその笑い顔に心臓が鷲掴まれる。それはもう何度味わったか分からない、虎君に恋する感覚だ。

 毎日毎日、昨日よりも好きになっている。それなのに、今日もまた昨日よりもずっとずっと好きになる。

 僕は虎君の胸に頬を摺り寄せ、甘える。虎君にしか聞こえない小さな声で「会いたかった」と零してしまうのは無意識のことだ。

「俺も会いたかったよ」

 ちゅっと髪に落ちてくるキス。ぎゅっと抱きしめてくれる腕の中、唇へのキスが欲しくなる。

 でも、此処は学校。周りには他の生徒が沢山いるし、その中の何人かはきっと僕達を盗み見ている事だろうから、我慢。キスがしたくて堪らないけど、本当、我慢。

「葵? どうした?」

 顔を見たら絶対我慢できなくなるから、胸に顔を埋めてぎゅっと抱き着いてしまう。

 虎君はそんな僕に不思議そうな声を掛けてくれるんだけど、なんでもないと首を振ることしかできない。

「葵、本当にどうしたんだ?」

 声色に心配が宿る。このままだと間違いなく虎君に誤解を与えてしまうだろう。

 キスを我慢しているだけで心配を掛けたいわけじゃないから、僕は意を決して顔を上げる。

「! なんて顔してるんだよ……」

 目が合えば驚いた顔をする虎君。でも、すぐに愛しむような笑みを浮かべると僕の頬に触れ、親指で唇を優しく撫でてきた。

 きっと今の僕は物凄く物欲しそうな顔をしているだろう。添えられた親指に何度もキスをしてしまう……。

「こら、そんな可愛い顔、此処でしちゃダメだろ?」

「だって……」

「早く家に帰ろう? な?」

 窘めるような言葉。でも声はとても優しい。

 僕は頷き、家に帰りたいともう一度虎君に抱き着いた。

「桔梗、帰るぞ。って、なんだよ。その目は」

「今すぐ蹴り入れてやりたいって目よ」

 姉さんの声は不機嫌なものだったけど、以前みたいに問答無用で怒ったり暴力を振るったりはしなかった。

 僕と虎君のことを応援すると言ってくれた姉さんの言葉は嘘じゃないってことだ。

 虎君と姉さんが昔みたいに仲良くなって欲しいって思ってるから、それはとても嬉しい事。

 でも、自分が望んでいることとはいえ、やっぱり心配は心配。虎君が、姉さんが、惹かれ合ったりしないか。と。

(そういえば姉さん、去年のクリスマスに好きな人に振られたんだよね……)

 家族の欲目だと言われるかもしれないけど、姉さんを振る人が居るなんて正直想像すらできない。女の人が恋愛対象じゃないのかな? って考えるぐらいだ。

 そんな姉さんが今好きな人を探している。こんなの不安にならない方が嘘だ。

 虎君はずっと僕のことを想ってくれていたし、これからもそうだって信じてる。

 でも本当に?

 誰か好きになるのは理屈じゃない。ダメだと分かっていても好きになってしまう事はある。好きになりたくないと思っていても惹かれてしまう事もある。

 姉さんがもし好きな人を忘れるために新しい恋をしたいと思ったら? そして、もしその相手が虎君だったら……?

(ヤダ……。怖い……)

 虎君は僕の恋人だ。絶対、絶対誰にも渡したくない。

「葵、帰ろう?」

「うん……」

 しがみつく僕の肩を抱き寄せ、車に戻ろうと促される。

 僕は口に出せない不安を押し殺し、誰にも渡したくない大好きな人の背中に手を回し、寄り添い歩いた。

(努力しなくちゃ……虎君にずっと好きでいてもらえるよう、不安に負けないよう、努力しなくちゃ)

 たとえ大好きな姉さんが虎君を好きになったとしても、自分に自信があれば虎君の想いを疑わずにいられる。

 大好きな人達を傷つけてしまわないよう、僕はちゃんと努力し続けないと。

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