二十九章 素羽鷹の龍(1)

 そのとき。にわかに空が夕暮れのように暗くなりました。

 嵐の先触れのような生温い風とともに、耳をつんざく異様な叫び声が戦場を覆いました。


「けるー、けるー」 「がーぐわ、がーぐわ」 「ついーっちょ、ついーっちょ」


「たあっ」 「かーりゅー」 「ほいぴぴぴ」 「けれけれけれ」 「ごあー」


 敵も味方も空を見上げて目を疑いました。

 素羽鷹は鳥の国。雨雲と見えたのは、数限りない鳥たちだったのです。ガン、カイツブリ、ホシハジロ。ヒシクイ、ゴイサギ、カワアイサ。アトリ、オオバン、カワラヒワ。タゲリ、セキレイ、トラツグミ。怒りに羽毛を逆立てた鳥たちの甲高い鳴き声が空気を震わせ、羽ばたく翼が旋風を巻き起こしました。

 鳥たちの先頭を風を切って飛んでくるのは、若様の鷹、不動丸と、竜宮島の狭霧丸です。


「狙え! 放て!」


 不動丸が高く叫ぶと、鳥たちは一斉に足でつかんでいたものを北のつわものたち目がけて投下しました。


「うわああ!」 「ひいいいい!」


 北のつわものたちは情けない悲鳴をあげました。


 雨あられと降ってくるのは、山ヒルや毛虫やムカデ。ときどき蜂の巣も混ざります。


「よくも、うちの巣を踏んづけて壊したわね!」


「思い知るといいのよ!」


 甲高い声で毒づいているのはシギやカモのおかみさんたちです。


「石が兜に当たると、いい音がするな。もう一回やろうかな」


「おれ、三回目」


 楽しそうに往復しているのはカラスです。


「おいら糞も落としてやった」


「きったなーい」


 ゲラゲラ笑いあっているのはカササギの群れでした。


 思いもかけない襲撃に浮き足だつ軍勢を蛞公方が叱り飛ばしました。


「たかが鳥ごときにひるむな! 早く矢を放て! 追い散らせ!」


 その大きく開けた口にカササギが特大の糞を命中させて騒然となるなか、北のつわものたちは空に向けて矢を射掛けました。しかし鳥たちは上手に避けて擦りもせず、すぐにまた戻ってきて、蜂の巣や毒虫で襲ってくるのでした。


 北の大軍が鳥の総攻撃に気を取られている隙に、素羽鷹勢は敵の囲みを破って南の丘の陣地に退却しましたが、それでも囲まれていることに変わりはありません。印波六国の援軍の到着にはまだしばらく時間がかかることでしょう。いつなんどき蛞公方が面倒な素羽鷹軍ではなく武石城を攻める気になるか分かりません。お殿様と御家来衆が決死の突撃をする覚悟を決めた、そのとき。


 西から重い地響きが近づいてきました。すすき野原を真っ二つに裂いて駆けて来るのは、山のようなイノシシでした。


「草薙姫! あの丘の上です! 背の高いひげもじゃの人が僕の父上です!」


 大イノシシの背中で若様が叫びました。


「うわ、すっかり囲まれてる! 丘を取り巻いてる人たちは、みんな北の国の旗印だ!」


「おん、おん!」


 虎千代も心配そうに吠えました。


「大変だわ。助けに行かなくちゃ!」


 目尻を赤くつり上げたイノシシのお母さんはぬかるみをいくつも越えてきたせいで全身が泥まみれで強烈な匂いを放っていました。その姿を間近に目撃した北のつわものたちは震えあがりました。


「バケモノだあ!」


「見るな! 目が潰れる!」


「摩利支天様のおつかいだ!」


 北の足軽たちのほとんどは信心深いお百姓さんです。素羽鷹の大イノシシは摩利支天様のおつかいと信じていました。その姿を見れば目が潰れると言いならわされていましたから、みんな、なにもかも放り出して逃げ出しました。


「逃げるな! 戦え!」


 今度は侍大将達がどんなに叱っても誰も戻ってきません。二千の軍勢は半分よりもっと減りました。そうこうするうちにも大イノシシは目の前まで迫ってきました。そして、なぜか背中に小さな子どもと子犬を乗せています。丘の上から、目のいい蔵六が叫びました。


「あれを見ろ! うちの若様だ!」


 大イノシシにまたがって笑顔で手を振っている若様の姿に、素羽鷹の御家来衆は肝をつぶしました。


「七法師! 七法師!」


 お殿様は傷の痛みも忘れて、手を振り返しました。


「おのれ! 素羽鷹の仲間か! バケモノめが!」


 向こう見ずなつわものが、槍で草薙姫に突きかかりました。しかし、猛スピードで走るイノシシに跳ね飛ばされて気を失いました。


 素羽鷹軍のいる丘を背にして大イノシシは足を止めました。


「喧嘩はやめなさい!」


 大イノシシが厳しく叱ると、言葉は分からずとも身の危険を感じとった北のつわものたちはあわてて身をひき、さっきより遠巻きに丘を囲みました。


「戦を止めてください! みんな仲良くして下さい!」


 イノシシの背から若様も叫びました。味方にも敵にも怪我をして欲しくありませんでした。幼い若様の言葉にお殿様も御家来衆もなぜだか涙がこみ上げてきました。


「おん! おん、おん、おん! 誰か助けて! おん、おーん!」


 虎千代は天に向かって吠えたてました。その声といったら素羽鷹沼が吠えているようでした。虎千代の遠吠えは風に乗り遙か遠くの山々まで届きました。

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