十七章 鏡権現の井戸(3)

 目を閉じたまま三十歩数えたところで、若様はまぶたに陽射しのぬくもりを感じました。目を開けると、頭の上に円い青空が見えました。イノシシのぼうやも鼻先を上げて明るい空を見あげています。この場所は、若様が目を閉じて歩いてきた通路の突きあたりです。最初に降りてきた井戸と同じ円形の石組みが地上へ通じていました。小さいぼうやがひづめでカリカリと石組みの壁をひっかきました。


「ぶふう。ぶふう。登れないよう」


「おいでよ。おんぶしてあげるから」


 こちらにはシダはほとんど無くて、乾いた玉石の壁のあちこちから平たい石が突きでていました。それにつかまって登れば、さっきより簡単に外に出られそうです。


「おんぶ、イヤ」


「じゃあ、だっこは?」


「ぶふう。だっこ」


 ぼうやが嬉しそうに寄ってきました。若様は、ふかふかしたぼうやの脇腹にたすきを回して、自分の胸にしっかり結びつけました。


「きゅふう、きゅふう」


 ぼうやは、くすぐったがって笑いました。


 若様が石組みの天辺まで登ってみると、大きなうすのような切り株の中に出てきました。大木の外側の固い樹皮だけが残り、内側がすっかり朽ちて広い空洞になっているのです。切り株の周囲には、芽吹いた若い木が枝を茂らせているので、この秘密の出口は誰にも見つかりそうもありませんでした。

 たすきを解いて地面におろしてもらうと、ぼうやは転げるように走りだしました。


「ああちゃん! ああちゃん!」


「おおい、待ってくれよう」


 若様もぼうやを追いかけて走りました。 


「ああちゃん! ああちゃん!」


 井戸端に前足をかけて中をのぞきこんでいた虎千代が、目を丸くして振り返りました。その目の前をイノシシのぼうやが駆け抜けたので、もうすこしで井戸に落ちるところでした。ぼうやはまりがはずむように石段をおりて、お母さんのお腹の下に飛びこみました。


「ああちゃん! おなかすいた!」


「ぼうや! ああ、良かった。ああ。ああ。ありがたい! ああ。ああ」


 イノシシのお母さんは叫びながら大粒の涙をこぼしました。そして地響きをたてて地面に横倒しに寝そべると、ぼうやにお乳を飲ませはじめました。それを見て、若様と虎千代は顔を見合わせて笑いました。


「ビックリしました。どこから出てきたんですか」


 虎千代が若様の匂いを嗅ぎました。


「そこのタラの木の中だよ。出口があったんだ」


「なかなか合図がないから、虎千代はいっぱいドキドキしました」


「ごめんね、虎ちゃん」


 若様がしゃがんで虎千代を抱きしめると、虎千代も若様の頬をなめて尻尾をびゅんびゅん振りました。


「わかさま。ぼうやを助けられて良かったですね」


「うん。虎ちゃんも、よくやったね。ありがとう」


 若様と虎千代は石段の一番下の段に坐って、イノシシの親子を眺めました。


「イノシシの赤ちゃんって、可愛いね」


「可愛いですね」


 赤ちゃんがお乳を飲む姿を眺めていると不思議に眠くなるものです。いつの間にか二人は、もたれあって眠ってしまいました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る