第2話

 始まりがあれば、必ず終わりがある。物事とは、いつだってそういうものだ。


 その日、終戦の号令が男の心をひどく落胆させた。


 それを聞くのは何度目だろうか。戦争に勝利したときも、敗北したときも、変わらず冷静にその宣言を聞いてきた。


 しかし、今日という日は違った。


 偉大なる指導者が、悪しき大国によって自害させられたのだ。悪しき大国は、我が母なる大地を蹂躙し、あまつさえ偉大なる指導者をも抹殺した。


 チェックメイト。


 もう、次のゲームはない。


 男は拷問官だった。人を拷問することにひどく快感を覚え、そしてそれは彼の生きがいだった。日々、次はどんな拷問をしようか考え、恋する少女のように胸を躍らせていた。それが、明日から違法になるらしい。痛惜に耐えぬ思いである。


 なんと馬鹿げている!


 拷問官は机を殴った。


 まだまだやり足りない。この世は欺瞞にあふれている。拷問により悪しき思想を持つ者から真の言葉を引き出し、彼らを正しき安寧の道へ導くことこそが自身の使命であると信じていた。


 そういう意味では、自身も偉大なる指導者たる資質を備えているとさえ考えている。


「ヘル、ドクトル」


 背後から呼び止められ、拷問官は立ち止まった。彼には階級はない。組織の中ではドクトル(医者)と呼ばれていた。


「何かね」


 振り返った拷問官の表情を見て、下士官は青ざめたが、偉大なる指導者に捧げるポーズは崩さなかった。彼は普段、拷問官の身の回りの世話をしている青年だった。まだ組織に入団して間もないと聞く。最初の仕事が拷問の補佐というのは、いささか可哀想――などと哀れむようなことは、彼に期待すべきもない。


「恐れながら申し上げます。できるだけ早く荷物をまとめ、お逃げください。今朝、終戦と同時にドクトルに指名手配がかけられました」


「何だと?」


 皺だらけの醜い顔に、さらに深い皺が刻まれた。下士官のピンと伸びた指先が震えている。ここで彼に文句を言っても仕方が無い。


「行け」


 拷問官は手をひらひらさせた。下士官はポーズをやめ、急ぎ足で元来た道を戻っていった。


 ――この私が指名手配だと? 奴ら何もわかっちゃあいない。私が、私こそがすべての悪しき魂を救っていたというのに。


 窓から外をのぞく。悪しき大国の軍隊が近づいてくるのが見えた。


 この盤上のどこへ逃げろというのだ。このゲームはすでに詰んでいるのだ。自分の手番は二度と来ない――。


 地下の自室へ戻ると、オーク材であつらえたお気に入りの椅子に座った。


 この部屋は良い。血と腐った臓腑の饐えた匂いが鼻腔を刺激する。極上のパフュームである。


 釣金に肉片が残っていた。その周りをハエが飛んでいる。所詮、民はあのハエのような者だ。国家は肉だ。民は限りのある肉をすすり、卵を産み付け際限なく増えてゆく。釣金は指導者だ。変わらず強く国を捉えている。


 拷問具を一つ一つ触った。ユダのゆりかご、ファラリスの雄牛、アイゼルネ・ユングフラウ……どれもこれも、美しく洗練された拷問具である。先人の英知の結晶である。我が国の偉大なる大地でさえ、この美しさにはかなうまい。


 大勢の足音が聞こえた。続いて、地下室の扉が乱暴に蹴破られる。悪しき大国の兵隊が、何事かわめきながら部屋になだれ込んできた。拷問官は抵抗することなく捕まり、その日のうちに処刑台へ送られた。


 偉大なる指導者と並ぶほどの、極悪人というわけだ。


「最後に言い残すことはないか?」


 頭のはげた神父が尋ねてきた。拘束着を着ているため身動きはできないが、窮屈には思わなかった。何度となく、自分で着てみたものだ。今、自分が着ているのはあの拷問部屋から持ってきたものだろう。着心地でわかる。そこら辺にあるものを適当に利用するのは、怠惰な大国がやりそうなことだ。思想の美しさと、道具に対する尊敬の念に欠けている。


「そうだな。まだまだ拷問したりない。神がいるなら、私を真に導く手伝いをさせてほしい」


 そう言った瞬間、神父が動きを止めた。何の反省も見せない自分に恐れをなしたのだろうか。無理もない。彼が拷問という様式美を理解することは、天と地がひっくり返ってもあり得ないことだろう。


「さあ、早くやってくれ。くれぐれも、簡単に終わらすんじゃあないぞ。きっちりと苦しめてくれ」


 拷問官はまぶたを閉じた。最後の拷問は自分自身。素晴らしい最後ではないか。


 しかし、いくら待ってみても拷問は始まらなかった。


「何をしている、早く……」


 待ちくたびれて目を開けると、そこは先ほどの部屋ではなかった。石造りの部屋に、見たこともない異教徒の神官のような人間が自分を囲んで立っている。真っ白で長いローブで顔も体も隠し、どれが誰なのか一目では見分けがつかない。ただ、一つだけわかるのは、あの悪しき大国の兵ではないと言うことだ。


「どうなってる」


 拘束着を着ているせいで、身動きがとれない。これから、異教徒の洗脳でも受けるのか。


「やった、成功だ」


 神官の一人がつぶやいた。それに続き、他の神官も歓声を上げる。


「勇者様ですね?」


 神官の一人が、拷問官の目の前に立ち言った。


「勇者だと?」


 馬鹿にしているのかこいつらは――。睨むと、神官はヒッと声を上げて尻餅をついた。


「馬鹿にしているのか?」


 怒りに思わず心の声が口から飛び出した。拷問官は部屋中の神官を睨めあげる。その中に、格好の違う人間がいることに気づく。冠をかぶって、古くさいローブをまとっている。まるで原始時代の王である。


「原始人ごっこでも始めるつもりか。大国ではなく教会の神罰を受けろというのか。そうか、貴様らヴァチカンだな?」


 ここでようやく、神官たちの顔から笑みが消えた。戸惑っている様子だ。


「あの、勇者様。混乱されるのはわかります。今から説明をいたします」


「ああ、説明して貰おう」


「その前に、王の御前ですので起き上がっていただけますか」


 神官が拷問官の体を起こそうとする。拘束着の構造がわからないのか、どう扱えば良いのかわからないようだった。


「変わったお召し物ですね」


「馬鹿にしているのか貴様。貴様らが着せたのだろう、この拘束着を」


 拷問官の言葉に、神官たちはざわついた。


「我々は、この世界を救う勇者を召喚するための、召喚術を使ったのです。その結果、あなた様がここに顕現されました」


「召喚……? はっ、格好といい、物言いといい……貴様らは私を侮辱しているのか。そんな怪しげな儀式のまねごとは、とうの昔に魔女狩りですべて燃やしたはずだ。いや、ヴァチカンのやることだ、驚くまい。貴様らは連綿と続く異教徒狩りの中で、こういった魔術儀式も秘密裏に開発し続けてきたと言うことか」


 拷問官は口の端から泡を吹きながらわめいた。「起きてほしいなら、さっさとこれを脱がせろ」


 拷問官の迫力に震えながら拘束着に手をかけた。神官は震えのせいか、ベルトを外すことさえ手間取りながらもようやく拘束着を脱がした。


 拷問官がゆっくりと立ち上がる。ずっと拘束されていたのだ。体が凝って仕方が無い。なるほど、拷問を受ける側というのはこういう気持ちになるのかと思った。しかし、彼の拷問を受けて生き残った人間はいないので、拘束着を脱ぐ快感を味わえたものは一人もいないということに、彼は思いつかなかった。


「このものは本当に勇者なのだろうな……?」


 冠をかぶって偉ぶっている老人が、眉をしかめた。ヴァチカンなら、あの頓珍漢な舞台装束もうなずける。彼らはまるでシェイクスピアの戯曲の世界みたいな幻想の中に生きている。


「先ほどから勇者勇者と勝手を言うが、貴様らが呼び寄せたのは偉大なる指導者だ。敬礼はどうした」


 拘束着から解放され、すぐに拷問官は神官の一人を捕まえて指を折った。


「一体、ここはなんなのだ」


 もう一本折る。


「ギャアギャアと、女のようにやかましいやつだ。なんだこの程度で、ふがいないやつめ」


 再び指を折った。


 神官の片手の指をすべて折ったあたりで、拷問官は彼を放した。彼らの話が嘘ではないということがわかったからだ。職業上、人の嘘には敏感である。彼らの表情からは、余裕はなくなっていた。そもそも、悪しき大国や連合国は、こんな手の込んだ悪戯をするような機知は持っていない。


 彼らの話によると、ここは自分の住んでいた世界とは違う世界ということらしい。馬鹿馬鹿しい話だが、自分は物理学者ではないのでそういった超次元的スケールの話の真偽はわからない。


 彼らはヴァチカンとは何の関係もなく、驚くべき事に魔術などといういかがわしいもので拷問官この世界に連れてきたらしい。元いた世界と違って、こちらは魔術が廃れることなく進化しているようだ。世界中のどの国にも、確かにこんな魔術は存在しないはずである。もし、そんな魔術があったら、戦争の方向性は違っていたはずだ。


 そして、今現在敵国との戦争のまっただ中にあり、敵国が魔術で勇者を召喚したことから、この国でも試みたものらしい。


「勇者を召喚する、というのがこの世界の一般的な戦力の増強策なのか?」


 信じられない。だが、確かに英雄は必要である。我々にとっての、偉大なる指導者のように。


 一通りの説明を聞いた後も、拷問官は目を閉じたままだった。


「信じてもらえただろうか」


 王を名乗る王冠の男が恐る恐る尋ねる。


 拷問官は目を開き、王をまっすぐに見つめた。


「何が真実かなど、私にはどうだって良いことだ」


 王が神官たちと顔を見合わせる。


「この世界にも戦争があってよかった」


 少なからず、この言葉は周りを動揺させた。


「なぜそのような……平和が一番ではないか」


 王が声を震わせた。王とは名ばかりの愚昧な老人である。


「そうだ、平和が一番だ」


 拷問官は答えた。


「ではなぜそのような……」


「平和を得るには、何が必要だ? それは戦争だ。悪しきものを絶滅し、正しく導いてやることこそが、我々の本懐だ」


 王は感嘆の声を上げた。


「おお……その心、まさしく勇者」


「黙れ。私は勇者などではない。偉大なる指導者だ」


 拷問官が王を睨め付ける。王はたじろいだが、他の者の手前、威厳を保とうと必死に胸を反らした。


「では偉大なる指導者よ、その力を以て敵国を殲滅してくれ」


「拝命した」


 敬礼をしかけて、それがここでは何の意味も持たないことを思い出した。振り上げた手先を見つめ、ようやくここが今までいたところではないということを実感した。


「して、勇者……いや、偉大なる指導者殿の名前をうかがえるか」


 未だうめき声を上げている神官を背に、拷問官は少し考えるように仕草をした後、悪いことを思いついた子供のように口の端を歪めた。


「そうだな。ではアロイスと」

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