15.苦渋。思い出したのに知らないことの方が多いんだけど

 部室の表札が『野鳥観察クラブ』から『異世界研究クラブ』変わったことに、私以上にびっくりしたのが鈴音だったよ。

 目を大きく見開いたと思ったら、慌てて立ち上がると壁に駆け寄って一生懸命に看板を触り始めた。ひとしきり触って、その場にぺたんと座り込んじゃった。


「す……鈴音? 大丈夫?」

「うん、なんとか」

 そうは言ったものの、鈴音は看板を見上げたまま呆然としている。後ろ姿だから表情が見えないけれど、きっとまだ目を見開いたままで、頭の中は疑問でいっぱいなんだろうな。

 うん、私だって何が起きたか分かんないもん。


「あ、あの……琴音お姉ちゃん。ずっとわたしは世界から外れた存在で、壊すことしか出来なかったの。でも今日、琴音お姉ちゃんが受け入れてくれたことでこの世界に固定された。あの時も世界の理が変わった。それはいいの」

 うん、私何もしてないから。

 私の意思なんて反映されてないし、全く関係なかったよ。


 途中から震えながら振り返った鈴音は、真っ青な顔をしていた。もともと白っぽい肌だったんだけど、ホント血の気が引いてる。唇なんて、紫に近い。


 ちょっとまって、そんなに深刻な事態なの?


「でも今わたしの目の前で、私にもわからない速度で世界が変わったよ。何これ、意味わからないよ」

「え、だって、看板が元の状態に戻っただけでしょ?」

「違うの。これはそんな単純なことじゃないの。そこの部屋に居た人たち全員の記憶が書き換えられて、目の前で看板の文字も変わったんだよ。

 琴音お姉ちゃんの言葉は既に、世界を変えることができるの。たぶん琴音お姉ちゃんの意思とは、全く関係なくっ」

「うん? 別に私、何も変えてないよ?」

 私の言葉に鈴音が、まるで世界の終わりが訪れたみたいな表情になって、その場で膝をついて頭を抱えちゃった。


 だって……ねえ。

 ちゃんと元の状態に戻っただけだし。それにいくら考えたって、いくら心配したって『私の意思とは関係ない』もん。どうしようもないよ。


 試しに、目の前の看板に向かって『ここはやっぱり野鳥観察クラブの部室だよ』って言ってみたたけれど、当たり前だけど何も変わらなかった。

 そのタイミングで、お向かいにある『将棋研究会』の人が出てきたから、同じことを聞いてみたんだけど、怪訝な顔して階下に降りて行って、その後すぐ戻ってきた。トイレに行ってきたのかな?

 鈴音は考えすぎなんだよ。


 その後も、異世界研究クラブの人が来るかと思ってしばらく待っていたんだけど、誰も来そうもなかったから、いつの間にか寝ちゃった鈴音を背負って部室をあとにした。って言っても、待ってたのって十分くらいのものだけど。

 旧校舎を出て新校舎に続く道を歩いていて、ふと立ち止まった。


「あれっ? 野球部って手前だっけ……」

 何となくだけど、さっきと野球部とサッカー部の場所が変わってる気がする。でも、この位置がが正しい気もするよ、いったいどうなってるんだろ。





「おう。入っていいぞ……って、葛城か。遅かったじゃないか」

 職員室の扉をノックして、返事があってから中に入った。入ってすぐに思わず首を傾げた。何でかな、職員室には先生が一人しか居なかった。

 中に居たのはついさっき鈴音と一緒に教室に戻ってから、授業を受けていた先生だった。

 あれ? でもこの先生、名前が思い出せないよ?


「えっと、誰?」

 だからつい、心の声が出ても仕方ないと思う。

 目の前の先生は目を瞬かせると、突然笑い出した。他に誰も居ない職員室には、笑い声がいつもより大きく響いて聞こえた。

 そもそも何で、職員室に他の先生たちが居ないの?

 おかしいな、お父さんも居ないし。


「何を言うかと思えば、面白い冗談だな。俺は幽玄坂浩二だ。さっき葛城のクラスで数学を教えていたじゃないか。やっぱり、調子が悪いんじゃないのか?」

「えっ? あ……うん?」

 やっぱり、知らない先生だ。

 っていうか、たしかにこんな顔の先生が居たような気がするんだけど、違う名前だった気がする。何これ、記憶がおかしいよ。


 じっと顔を見たままで、記憶の断片から名前を思い出してみる。

 ついでに何だか知らないけれど、このタイミングですべての音が消えて時間が停止した。

 ええっ、何これタイミング良すぎでしょ。

 今回はどのくらい停まっているのかな……。


 そんな事を考えていたら、視界いっぱいに白くて細かいキラキラした物が見えはじめた。それを綺麗だな、なんて思って見ていると、キラキラした物はゆっくりと集まっていって、七文字のカタカナに変わった。

 これ、初めてのパターンだよ。

 その光の文字を、よく見てみる。背負っていた鈴音が、跳ねるように身動ぎした。 


 えっと……コバヤシ……ケンジ……?

 ああっ、思い出した。確かこの人は『小林賢治』先生だ。


 そこまで理解してすぐに音が戻って、時間が動き始めた。

 あれ? 何だか時間が戻るの早くない?


「どうした葛城、そんなに睨んで。怖くもなんともないぞ」

「えっと小林先生、うちの父はどこに居ますか?」

「別に隠しているわけじゃない。今は校長室にいる。さっきまで俺と話していたんだが、葛城が早く来ないから先に挨拶に行ったんだ」

「あの……すみません小林先生、別に睨んでたわけじゃないんです。えっと、失礼します」

 何だか居たたまれなくなって、頭を下げてから職員室の奥にある校長室に向かった。鈴音がちょっとずり落ちそうになって、慌てて背負い直した。


「しかし珍しいな、いつもみんなで俺のことは『賢治くん』って呼ぶのに。明日は雨でも降るんじゃないか?」

 思わずびっくりしてその場で振り返った。

 ちょうどコーヒーを入れたところみたいで、湯気が上がったコップを手に持った先生が椅子に腰掛けるところだった。私の視線に気がついて、笑顔で手を振ってくる。

 何だかちょっと調子狂うよ。


 私はもう一度頭を下げると、校長室に向かった。




 信号が青に変わって、車の窓から視える街の街路樹が流れていく。

 反対側に顔を向けると、チャイルドシートに座った鈴音と目があった。少し寝たからかな、顔色は戻っていて、紫になっていた唇もほんのり桜色まで戻っている。


「どうしたの、琴音お姉ちゃん?」

「ごめんね。何だかいっぱい心配かけちゃったんだよね」

 私が自分でもわかるくらい落ち込んだ表情をしていたからだと思う。鈴音は大きく開けた目を瞬かせると、慌てて首を横に振ってきた。


「大丈夫だよ。何も問題は起きていないし、逆にみんないい方向に動いてるもん。わたしが心配しすぎてたと思うくらい、世界は凪いでいるよ」

「そうかな。あんまり自信ないけど、そうだといいな……」

 あのあと、校長室に入ったら既に話が終わっていたみたいで、すぐに帰ることになった。鈴音は校長室から車に向かう途中で目が覚めたみたいで、心配だったのかな、背中から腕を回して私に抱きついてきた。

 車に乗って、一日あったことを思い返していたんだけど……滅茶苦茶だった。いやほんと、私の異能が勝手に発動してくれたから助かったことばっかだったんだなって。


 ただ、いいことばっかじゃなかった。


 何故か私の記憶には、異世界召喚の魔法陣が顕れなかった場合の今日までの記憶があって、思い出していて途中で頭が真っ白になったよ。いらない情報だよね、これって。

 それだけじゃなくて、朝、暴走トラックに出会わなかった場合の今までの記憶や、さらには死神と出会わなかった場合の記憶まであって、大きなため息が出た。

 どれも知らなくて良い記憶だし、知ってる意味がない記憶なんだもん。

 ちょっとでも『異能があって助かった』なんて思った自分が馬鹿だと思った。全部知ってても、分別がつくからいいんだけど。


「どうした、何か学校で困ったことでもあったのか?」

「あ、ううん。大丈夫だよ。鈴音もいい子だったし、学校も普通に楽しかったよ」

「えっ、ちょっと琴音お姉ちゃん? そこでわたしっ?」

 運転していたお父さんが、ルームミラー越しに心配そうな視線を向けてくれたから、慌てて笑顔で首を振った。横で鈴音の非難の声が聞こえたけど、聞こえなかったから大丈夫だよね。


 車は国道脇の入り口から首都高に入る。

 いつもは電車通学だから学校の近くの駅までまっすぐ行けるけれど、家がある場所はちょっとした郊外になる。車で帰ると首都高を経由してちょっと大回りしないと帰れないんだよね。


 いつもより余分に時間がかかったけど、三人で色々お喋りしながら帰ったら何だかあっという間に家に着いた。

 途中に警察の検問があったんだけど、お父さんが免許証見せたらすぐに通してくれた。


 でね、私は今、家を見上げて大口を開けている。


 何でかな。私の知らないうちに、家が大きくなっているんだけど。

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