幽霊彼女とラストファーストキス

稀山 美波

キスがしたい女と、したいけどしたくない男



「ねえー、キスしたいなあー」


 金曜日の夕刻、一週間の通学および勉学を終えて、あとは土日を迎えるのみだというのに、帰宅への足取りはひどく重かった。


 茜色に染まる街中、女子と二人きりの帰り道、その女子が甘えた声で『キスしたい』と言ってくる。まるで映画のワンシーンのようではないか。そんな素敵な状況下でもなお、俺の足取りは重たいままだ。


「……外ではあんまり話しかけるなよ」

「えー、なに?もっと大きな声で言ってよー」


 肺の中にある空気すべてを吐き出すほどの大きなため息をつき、俺はガクリとうなだれた。首を落としたまま、頭上から俺を見下ろす彼女に視線をくれてやる。俺の気持ちもつゆ知らず、彼女は祈るように両手を組み、瞳を閉じて唇を尖らせている。


 すごく色気がない――と言わないでやるのは、俺の優しさだ。


「うごっ」


 突き出してきた唇を手のひらで押し返してやると、これまた色気のない声を出して、彼女はよろめいた。

 彼女の唇の柔らかさが、まだ手のひらに残っている。それを意識してしまうのは、健全な男子ならば仕方のないことだろう。


「……外ではやめろって」

「え!じゃあ家帰ったらしていいの!?」

「いや、そういうことじゃ――」

「やったね!キース!キース!ズンチャチャ、キース!ワォ!」

「やかましいなおい!」


 思わず顔をあげて、叫んでしまった。


 まずい、と思った頃には時すでに遅し。こめかみ辺りから冷たい汗が滲み出てくるのを感じながら、周囲を見渡してみる。


 やはりというか何というか。周囲の人々は怪訝そうな顔で俺を見つめ、すぐに顔を逸らした。その一連の動作はまるで、『見てはいけないものを見てしまった』と言わんばかりのものだ。


「見てはいけないものを見てんのはこっちだよ……」

「なに?キスする気になった?」

「ならねーって……」


 巨人のユニフォームを着て、阪神ファンが集うライトスタンドに来てしまった――そんな四面楚歌にも似たいたたまれなさを感じ、足早にその場を後にする。あれほど重かった足取りもどこ吹く風、まっすぐに家路を急いだ。


「ねーえ、キスぅー」


 そんな俺の後に続いて、彼女もとついてくる。


「なあ、椿」

「なあに?洋介」


 人込みを駆け抜け、俺はいつの間にか土手の川べりに腰かけていた。水面に赤い夕陽が照り返し、俺と彼女――椿を照らしている。周囲に人がいないことを確認し、頭上から俺を見下ろしている椿に声をかけた。


「キ、キスってのはこう、大事な時に、大事な人とするべきだと思うんだよ」

「きゃー、洋介照れてるぅー、かあわいいー」


 俺の頭上で、椿がきゃあきゃあと叫びながら体をくねらせている。うざったいと思う反面、可愛いと思ってしまう自分が嫌だ。


「真面目な話だ」

「私だって大真面目だよ。千堂椿せんどうつばき、真面目なのが取柄です」


 いちいち嘘くさい。


「俺はな、生まれてこのかた彼女なんていたことがねえんだ」

「ぷぷぅー」

「はったおすぞ」

「めんご、めんご。許してちょんまげ」


 これでもかと死語のオンパレードを口にする椿は無視し、俺は続ける。


「俺もキスとかしたことねえんだ。俺だってよ、初めて――ファーストキスは好きな人としたい」

「なら、私を好きになれば何の問題もないね!」


 そうなのだ。滅茶苦茶なことを言っているように聞こえるが、これはかなり理にかなっている。


 椿は俺とキスがしたい、俺は好きな人とキスがしたい。

 ならば、俺が椿を好きになればいい。何の問題もない、簡単な話である。


 ただ、大きな問題が二点ほどある。

 


「早く私を好きになってキスしてよ!キスしてくれないと私、成仏できないよ!」



 一点目。千堂椿がで、キスをしないとできないこと。



「……好きだからキスできねえんだろうが」


 

 二点目。俺はすでに彼女――椿を、成仏してほしくないほどに好きになってしまっていること。

 

 今すぐにでも椿を抱きしめて、キスがしたい。

 だが、彼女が好きだから、彼女といつまでも一緒にいたいからこそ、俺は彼女への好意を晒してはいけないのだ。


 なぜなら彼女は、キスをしたら成仏してしまうのだから。

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