狂想恋愛ラプソディー
木村文彦
狂想恋愛ラプソディー
『こんなことをするのは、君とが初めてだよ。私、嬉しい』
VTuberのサクラとまさかこうして、対面でチャットできるとは思ってもみなかった。アイドル的な人気を誇る彼女はファンが多い。だからこうしてネットを介して反応してくれることですら、稀であった。
額から汗がしたたり落ちるのが分かる。緊張している。
僕のような一般人がアイドルのような彼女と触れ合う機会は今まで、まったく与えられてこなかった。だから相手の素顔が見えなくても、緊張している。
声は可愛らしいし、何よりプライベートの空間である意識が、否が応でも僕の心拍数を上げていく。何を話したら良いのかも分からない。
「人生最高の日だよ!」
沈黙の間は良くないと思った。興奮気味の心情は声色にも反映されてしまっているだろうか。
『せっかくプライベートライブ当ててくれたんだし、楽しんでいってね!』
さあここからだ。
ここからどうやって個人的な付き合いにもっていくか。
デートの約束を取り付けて、結婚をして、二人だけの子供を産む。そんな夢がムンムンと僕の内なる妄想を広げていった。サクラは画面内で悠然と身体を小気味よく揺らしている。それがいつの日か見た、タップダンスのようにも思えた。
「ねえ、プライベートライブって何人くらいしてるの?」
『のぼる君が初めてだよ!』
サクラは嬉しそうにこちらに微笑む。思わず僕の頬も緩んだ。ネット上のライブとは言っても、このプライベートライブではお互いの顔が画面を通じてはっきりと見えている。それだけで優越感が沸いた。
何より客は、僕一人なんだ。楽しくなってきた僕も画面の前で悠然とリズムを取り始める。緊張を紛らすために手をつけたビールの類がいけなかったのかもしれない。まあ楽しければ何でもいいんだ。
『じゃあ、まずはサクラの持ち曲・スプリングハートをきいてね!』
彼女は綺麗な細い身体をくねらせ始めた。僕は魅入った。曲ではなくサクラの身体に、だ。カップヌードルを作る間に曲は終わってしまった。麺は伸びてしまうが、何か話題を捻り出すことが至上命題だった。緊張を悟られてはいけない。努めて冷静に曲の感想を切り出そうとした。その時だった。
『あっという間だったね! それじゃあまたねー』
あっという間に30分は過ぎ去っていた。個人ライブの終演時間だ。
お金はいくらでも出すから延長を! と伝える前に彼女は別れの挨拶を淡々と繰り出した。それが社交辞令のようにも思えた。
紅潮していた頬が引いていく感覚が自身でも分かった。
僕はサクラと、互いに手を振り合って別れを惜しんだ。
好きという気持ちを改めて確認する作業のようにも捉えることが出来た――僕は、サクラの事がそれでも大好きだった。
◆
僕だってわかっている。
可愛らしいサクラと付き合う事がどれほど難しいかということくらい。彼女はとても愛くるしくて、可愛らしくて、胸が大きくて無邪気だ。完璧なんだ。
でもサクラとはそんな条件を除いても付き合えないことくらい、高校生になった僕には分かるんだ!
だって彼女はVTuberなんだ。分かってる、分かってはいるけど……。
サクラは完ぺきな女性に違いなかった。どうしても付き合いたい。
でもこの現世にはいない……、そうだ。
名案を閃いた光が脳内を一閃したように感じた。
彼女の可愛らしい声は、間違いなく誰かの声である。つまりはサクラの中身も女性であるはずに違いない。だったら中身の女性と付き合ったら良いのではないか。
僕の内なる妄想は、初めて外界へと飛び出した。容姿に自信はないが、出会いさえすればチャンスはきっとあるはずだ。
方向性が分かれば、行動は自ずと決定されていく。
プライベートライブも何度も行って、運営に顔を覚えて貰うことだった。
『ノボルくん、今日でプライベートライブ5回目だよ! 本当にありがとう!』
相変わらず画面から聴こえてくる声は可愛らしかった。
「ねえ、5回記念になんでも一つお願いをきいてくれるってサクラが前に話してたの覚えてる?」
『うん、覚えてるよ! 何がいい? ノボルくんのために曲でも作ろうか?』
サクラの声が僕の耳を優しく撫でる。やっぱりいい。
「動画を作っているところを見せてほしい!」
『……いいの?』
サクラが不安そうに訊いてきた。
「どういうこと?」
『君の夢が崩れちゃうかもしれないよ? それでもいいの?』
何を今さら、云ってるんだ! 僕はこれでもリアリストなんだ。
◆
後日、僕はほんとうにサクラが配信を行っているという会社に、訪問することが出来た。まさに夢見心地だった。
「ノボルくんかい?」
僕が言うのもなんだけど、とてもむさくるしいオジサンが集合場所に現れた時は、とても幻滅した。
「はい」
それでもサクラの中にいる人は、絶対に美人に決まっている。決まってるんだ!
それから動画制作の様子を見せてもらった。無機質なサクラが徐々に人間らしい動きになっていき、愛嬌が出ていく。ただその動画にはまだ声がついていなかった。
そうか、訊くならここしかない。
僕のチャンスがようやく巡ってきたらしい。
「あの、サクラの声を入れている様子を見たいです!」
僕は正直な想いをむさくるしい社長に伝えた。
「……いいのかい? ノボルくんは知らないほうがいいと思うけど」
まただ。こないだのサクラといい、社長も歯切れが悪い。きっと相当な美女だから、もったいぶって隠しているんだな!
「構いません! お願いします」
そこからはあまり記憶がない。覚えていない。
かろうじて覚えている事は、社長よりもむさくるしいおじさんがマイクの前に立っていた、ということくらい。
僕はそれ以後、『サクラ』のことを封じ込めた。
きっと不法侵入でもして、お怒りを受けているのだろう。
僕は大きな溜息をついた。外気はとても冷たく、全身を凍り付かせた。
サクラに対する千年の恋は、そこで醒さめてしまった。
◆
「卓也、知ってるか? 最近『サクラ』っていうVTuberがめちゃくちゃいい感じらしい」
「マジか! 見てみる!」
友人の勧めで見たアイドルのような彼女は確かに愛嬌があって、物凄く可愛かった。僕はすぐに彼女に、のめり込んだ。
何度か開催されているプライベートライブに積極的に応募して、何度か当選を果した。密な活動に参加するほど、彼女のファンになっていった。僕自身の意識がないくらい、あくまで自然な成り行きでそうなったのだ。
何年も積み上げられていた週刊誌の山が途端に親に捨てられた時に思う、あの開放感と絶望感くらいには愛着心を抱き始めていたのだ。
『ねえ。たくや君。制作現場に来てみない?』
画面越しのサクラがふいに思わぬことを提案してきた。中学生の僕には、その現場にかわいい彼女がいない事はふんわり分かっていた。分かってはいたけど、それでも期待せずにいられなかった。好奇心がそそられたんだ。
僕は次の週に製作現場を見に行った。感想はというと少しげんなりした。確かにオシャレな洗練された会社で最初は高揚感に駆られた。社長は少し変な匂いがして見た目が悪かったけど、期待もした。ただ見学の最後までサクラの気配が微塵もないし、彼女に会えそうにもなかった。
一緒に見学に来ていた大学生らしきお兄ちゃんも悄然としていたんだ。
肩をガックシと落として、僕もリュックを持って、会社を後にしようとした。
「最後にサクラを見ていくかい?」
社長が小声で僕にだけ思わぬ提案をしてきた。
僕は、見る! 見たい! とその場を飛び跳ねたい気持ちを強く抑えた。目の前を歩くお兄ちゃんの背中がとても儚げで小さく見えたからだ。
むさ苦しい社長は優しい顔を僕に向けていた。初めてこの人が紳士だと思えた。
その後、僕はなぜか会議室に通された。一人だった。
人生で経験した事、無い場所に座らされている。受付の女性が入ってきた時、サクラかと思った。思わず視線を逸らしたが、その女性は湯飲みを一つ置いていっただけだった。緊張を解くために、すぐに口をつけた。勢いのあまり、舌を火傷してしまった。
またノックがあった。はい、と言ってみる。
声が上ずってしまった。
そこに現れたのは確かに今まで見てきたサクラではなかった。だけど、黒い髪が長くてまるでお人形のように目が丸く、大きく、画面ごしに映る女優と遜色ないおしとやかな女性が入ってきた。
僕は頭が真っ白になった。
「あの、サクラさんですか……?」
「うん。人間でごめんね。でもサクラの声をしているんだ」
狂喜乱舞した。いやしたかった。でも、緊張で手を強く握ったまま動くことが出来ない。金縛りにあっているみたいだ。
狸のような社長が遅れて入室してきた。
「
サクラは社長と入れ替わるようにして去ってしまった。フルネームで呼ばれた興奮が前身を駆け巡っていく。興奮から冷めた時、もう彼女はこの場にいなかった。
呆然と立ち尽くす僕に、それでも彼女の甘い残り香が包み込んでくる――ここで大人の階段という存在に初めて気がついたのかもしれない。
VTuberサクラに対する千年の恋は、そこで醒さめてしまった。
だけど新たな恋の物語が始まった気がした。ふわふわとした気分で帰路につく。
とても寒い日であるのに、とても温かい日だと思った。
心が満たされている。
更にのめり込むようにして、サクラの事を応援し続けた。
幻想と現実を、僕は彷徨っている。
狂想恋愛ラプソディー 木村文彦 @ayahikokimura
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